送迎
――あ、あれ? ボール、どうなった?
先ほどの破裂音は、百地たちにとって予期しない事だったらしい。どこか不安げに辺りを見回してボールの行方を捜している。
「ボールなら、割れてしまったみたいだよ。ほら――」
ミナミを支えながら身を起こしていたトウゴが、その場にもう一度かがみこんだ。滑り止めの細かいパターンが施された、茶色い合成ゴムの切れ端を拾い上げる。
「ここに断片がある」
百地ユウコはトウゴの手にあるものを見て眉をしかめた。
「え、ちょっとなにこれ……何をやったの?」
「さあ? 何って言われてもよくわからないな」
ユウコの程よく日に焼けた健康そうな頬を、あたかも困惑によるもののように汗が一筋流れ落ちる。トウゴが甘く輝くような笑顔を作り、ユウコに図上を指さして見せた。
「この日差しだしね…… 多分中の空気が膨張しすぎて破裂したんじゃないか?」
「そ、そうかな……そうかも」
動揺を見せるユウコに向かって、トウゴがもう一言付け加えながら前に進み出た。
「まあ、良かったよ。あのまま飛んで来てたら、
――ひっ、と声にならない悲鳴がユウコの喉から漏れた。
ちょうどトウゴに庇われるような形になった位置から、ミナミはトウゴの横顔を見上げてその悲鳴の理由を知った。
眼が。笑顔の中で、眼だけが一切笑っていないのだ。
それはたった今しがた、ミナミに「今体験したことを他人に言うな」と命じた時の声と同じだった。有無を言わせぬ強制力と、底冷えするような冷たさを放射していた。
――じゃ、じゃあ、あたしら教室に戻るから。
――あ、まって私も行くー!
百地グループがユウコを先頭に、半ば後ずさるような動きで駆け去っていく。あとに残されたミナミに、トウゴがわずかに首を捻って視線を向けた。
「もしかして君、いじめられてるのか? ……怪我とかさせられる前に、とっとと逃げた方がいいぞ。たかがこんな学校程度、いくらでも替えが効くだろ」
「……」
トウゴの眼に、先ほどとは全然別ものの暖かな光が宿っているように見えた。だがミナミはそれに応える言葉を紡げなかった――別の選択肢など、自分にはない。
その後、下校時間まで、百地グループはミナミにいっさい近付いてこなかった。
* * * * *
駅前のロータリーでトウゴをピックアップすると、黒塗りのトヨタ製七人乗りSUVは郊外へ向けて滑るように走り出した。
「初登校はどうだった? 平穏に勉強できそうだったかな?」
進行方向に視線を据えたまま、運転席の女は好奇心をにじませた口調で尋ねた。トウゴは後部座席の背もたれを大きく倒し、足を投げ出した姿勢でくつろいでいたが、一拍置いて両ひざを立てて居住まいをただした。
「授業の水準は悪くないよ……だけど、生徒がよくないな」
「ほう? 困ったな、君に公教育を受けさせるにあたっては綿密な選定を行ったんだが……具体的には何が?」
「イジメが行われてる。今日一日で確認したのは一件だけど」
運転席の女はサングラスの影で眉を顰め、むう、と不機嫌そうな声を漏らした。
「……トウゴ。まさか介入したんじゃあるまいな?」
「マシナギオンは出してない」
平板な声で答えるトウゴに、運転席の女――鏑木ヒサコは一瞬左眉をぴくりと動かすと、無言のまま車を左の路肩に寄せて止めた。
「君がそういう嫌らしい言い逃れをするようになるとはな……我々が何のために君とミサキ君の生活全般を抱え込んでサポートしてるか、その意味が分かってるのか?」
「……ヒサコさんには感謝しているよ。
「……まあいい。感情をぶつけあうのは本意じゃないし、何か得られるわけでもないからな……具体的には何をした」
「投げつけられたバスケットボールを一個、
ヒサコがため息をついた。
「困ったやつだ……」
「漣ミナミ以外には聞かれてない。彼女には口止めをお願いしたし、それほど影響はないはずだ」
「漣――その子がイジメ被害者か?」
「うん」
ヒサコはしばらく眉根をもみながら考えていたが、ショルダーレングスの髪ごと頭を一振りすると、シフトレバーをもう一度ドライブに入れた。
「君の心情と、とっさの正義感は理解できる。だが今後はくれぐれも慎重にやってくれ――万が一を考えれば次の転校先も探しておくべきだろうが、それなりに時間と手間がかかるんだ」
「ごめん」
傲然と背筋を伸ばしていたトウゴが、初めてうつむいて謝った。こうしていると年相応の子供だ。
「ああ、そうそう。この古文書の写しに目を通しておいてくれ」
助手席に置いてあったA4判の角形封筒を、ヒサコは座席越しにトウゴへ
「これは?」
「先週発見された。君のいわば古い古い先輩の記録だと思われる」
へえ、と興味を示すトウゴに、ヒサコは「移動中はやめておけ、目に悪いぞ」とくぎを刺した。
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