乞巧節(きっこうせつ)

百舌すえひろ

乞巧節

天野あまのさん、今晩の天気は大丈夫かしら」

台所で胡瓜きゅうり茄子なすの塩ずりをしていた真由子まゆこに、香織かおり突然とつぜんたずねた。


「どうでしょうねぇ」真由子は深く考えずに反応した。


 茄子と胡瓜の表面に粗塩をすり込み、小さな傷をつけておくと、水分が出て、糠床ぬかどこでムラなく早く漬かる。

糠漬ぬかづけにとって大事なこの工程は、おろそかにできない。


「気になるようなら後で、ネットで天気予報を見ますよ」

今は漬物に集中させてくださいね、と続けて答えるも、返事はなかった。


 すぐに知りたくてテレビをつけたのか、真由子の声は聞こえなかったようだ。香織は、インターネットという言葉が聞こえるだけで逃げていく。


 真由子は塩ずりのすんだ野菜を、一度ボウルに置き、水分が出てくるのを待つ間、冷ましていたゆで卵の殻を剥き始めた。

邪道と言われるかもしれないが、ゆで卵の糠漬けは美味しくてくせになる。

 糠漬けは毎日食卓に出すが、香織は定番の茄子と胡瓜しか口にしようとしない。

 最初の頃は「ゆで卵も美味しいですよ」と勧めたが「そんな変わりだね章彦あきひこさんも私も食べれませんから」と無下にされた。

 香織にとっての糠漬けは、茶色い壺だの、糠を引き継ぐだの、床下に入れるだのと『すべきこと』があったようだが、平成育ちの真由子にとっては、非合理でうとましく思えた。

を強引に食べさせる義理もないので、真由子は「そうですか、お好きにどうぞ」と流していた。


 岩下香織いわしたかおりの中で、章彦さんは絶対だ。

結婚して岩下姓になってから、彼女は章彦さんにすべてを合わせてきた。

いや、章彦さんが香織の基準になったと言うべきだろうか。


 剥いたゆで卵、水抜きした胡瓜と茄子も糠床に埋め、タッパーを冷蔵庫に戻す。糠床なんて旨味になる昆布と、殺菌のための鷹の爪さえ入れておけば、タッパーでも冷蔵庫でも、好きに保管すればいいのだ。


 廊下に出ると、突き当りの玄関口が全開になっていた。

網戸も閉まっていない。

ぎょっとしてリビングを覗くと、テレビがつけっぱなしで誰も居なかった。

トイレ、庭、二階、押し入れまで探したが、香織はどこにもいない。


玄関を開けっ放しで出かけるとは。

ついに、来るべき時が来てしまったのかと、真由子は覚悟を決めた。



真由子は岩下香織が自宅からいなくなったことを、ヘルパーの一人に連絡した。

今は探しながら連絡をしていること、食事の準備をしている間に出て行ってしまったことを伝えた。

 彼女には初めての経験で、警察にすぐに言うべきなのか、他にも応援を頼むべきなのかわからないと伝えると「そういうことは、決して珍しいことではないから、自分を責めないで」と慰められた。

 とにかく真由子は、この後も近所を探すことを言い、時間が空き次第しだい、岩下家に寄ってほしいことを伝えた。

結局、警察には届け出るべきなのかを、教えてもらえなかったことに、少し疑問が残った。


香織は徒歩で出かけたのだから、遠くには行けないはずだ。


 最寄りの駅は徒歩で十五分。交番はそこから十分。

見つけて連れ帰ることを考えると、自家用車で探したかったが、車の通れない道を行かれたらと思うと不安で、自転車を使って移動するしかなかった。


 駅に向かいホームを見たが、見知みしった姿はない。

窓口に向かうと、シャッターが閉まっていた。

田舎の小さな駅は、朝の通勤時間を過ぎると駅員がいなくなる。

自動改札機も、へだてるバーがないタイプなので、切符があろうとなかろうと、平気でホームに出れてしまう。

もしホームに勝手に入って、線路に人が落ちたらどうする気だろう。

イライラしながら改札を抜け、線路を見渡したが、人が歩いている様子はなく、ほっとした。


 交番に寄って届けを出そうか迷った。

しかし、まだ日が明るいうちに探せるだけ探して、暗くなってからでも遅くないと判断し、川沿いの遊歩道、その先に続くいくつかの公園に向かうことにした。


川の上流に向かって自転車を走らせる。


 向こう岸には、大きな老人ホームが昔からある。

あそこで世話になるのはまだ先で、行かせるほどではないと判断されていた。


 香織が川沿いの遊歩道を通るなんて確証はない。

散歩をする習慣もない人だった。

確証はないが、もし、人が本能のおもむくままに歩くのなら、近くの水場みずばか、山の上に向かって歩くのではないのか、とぼんやり思っていた。


 上流に向かって遊歩道を走っていると、向こう岸にかかる大きな橋の上に、香織の姿があった。

ホッとして、一気に脱力した。

しかし、橋の欄干らんかんに両手をついて身を乗り出したので、慌てて自転車をぎ、香織のそばに向かった。


 香織は必死に上半身を乗せ、片腕を空中に伸ばし何かを落としていた。

見ていた真由子は、今にも落ちてしまうのではないかと恐怖だったが、彼女の腕力が衰えていたのがさいわいだった。


「どうしたんですか」

真由子はあせ苛立いらだつ内心を必死に抑え、つとめて穏やかに話した。

香織は焦点しょうてんの定まらない目で、遠くの向こう岸、白鷺しらさぎらしい川鳥かわどりを見て「かささぎかと思ったの」と答えた。


かささぎ、好きなんですか」

バードウォッチが趣味だったなんて知らない、と真由子は不信になった。


 香織は首を横に振り「今年の七夕も雨が降ってしまったら、悲しいじゃない。せめてかささぎが橋を渡してくれていたら。きっと来れると思うの」と言った。


なんてことはない。

七夕が雨の日には、天の川が増水し、織姫と彦星は鳥の橋を渡って出会えるだかなんだか。

そういう伝承の鳥のことを言っていた。

 香織は昔から、浮世離うきよばなれした考えを、人前で平気で口にするところがあった。

本気かどうかなんて、真に受けた相手が大変になるだけだった。


「ここらへんにかささぎはいないですよ」

「そうなの?かささぎがいないのなら、織姫と彦星は会えないわ」

「大丈夫です。七夕に降る雨は、天の川の増水ではなく、出会えた二人の感涙だそうです」

「そうなの?それなら、七夕に降る雨は、吉兆きっちょうね」

「そうかもしれませんね。二日連続で降る場合、初日は会えた喜びで、二日目は別れをしむ涙だとか」

「それならいいわ。素敵ねぇ」


 老女はうっとりと微笑み、橋の欄干に両肘りょうひじを置き、川面かわもあゆを狙うさぎをじっと見つめた。


 七夕の雨が国によって解釈が違うって、面白いですね。となぐさめると、真由子は老女の手を引き、川沿いの遊歩道を引き返すようにうながした。


警察に届け出なくて、よかった。

きっと今日は運が良かっただけだが、真由子は胸をなで下ろした。



「もうすぐお盆ね。今年もいっぱいご馳走ちそう用意しなきゃ。章彦さんが帰ってくるもの」香織は期待を込めて真由子を見る。

「そうですね」真由子は無心に答えた。


お盆に章彦が帰ってきたことはない。


 お盆入りしても、なかなか姿を見せない章彦に、半狂乱になった香織が真由子に八つ当たりし始める。

そのたびに、真由子は苦し紛れに「章彦さんはお仕事忙しくて、今年は帰ってこれないみたいですよ」と言うことで、無理やり納得させる。


「なんで章彦さんは、そんなに仕事ばかりなの。きっと章彦さんは優しいから、ほかの社員の仕事まで、請け負ってしまっているのよ。ほら、最近はブラック企業とか言って、社員に無理ばかりさせるところが、多いんでしょう」と会社への文句を言いだす。

ついには「単身赴任だからって、いいように使われ過ぎなのよ!」と憤慨ふんがいし始める。


 真由子は、またか、と思いながら「章彦さんは大手にお勤めでしょう。ブラックかどうかはわかりませんが、優秀な方だから、現場が離さないのだと思いますよ」と優しく言う。

 そうすると、香織は表情をゆるめて「そうよね。そうなのよ。あの人のいいところだけど、困ったとこでもあるのよねぇ」とまんざらでもない顔をして納得するのだった。


 若くして結婚してから、ずっと専業主婦だった香織に、会社がどうとか、仕事がどう、と説明してもうまく理解できない。


 とにかく『あなたの章彦さんは優秀だから、会社が離さないのだ』というニュアンスに持っていくことで、落ち着かせている。


「私ね、毎年あの川でお願いしてるのよ」香織は子供のように話す。


「章彦さんが、帰ってきてくれますようにって」

「川でお願いしてたんですか」

「そうよ。七夕だもの。笹舟ささぶねに願いを込めて、流しているの」

短冊たんざくじゃなくていいんですか」

「短冊はダメよ。昔は竹を川に流してたけど、今は流せないでしょ」

「そうですね。あー、だから直接、笹の葉を使ってるんですね」

「笹舟なら、きっと届くわ」


まるで夢見る乙女だ、と真由子はため息をいた。



 岩下家に戻ると、ヘルパーの中田さんが来てくれていた。

「天野さん、よかった。見つかったのね」

真由子は「はい、ぎりぎりまで警察に届け出なくて、良かったです」と苦笑いした。

来てくれた中田さんにお礼と、明日のシフトは早めに来てもらうことをお願いして、一足先に帰ってもらった。



 真由子は夕飯の準備を終わらせようと、台所に入っていった。

台所では、香織が冷蔵庫を開け、野菜室の茄子と胡瓜をありったけ抱えていた。


「それを食べたいですか?漬物がありますよ?」

漬物以外が食べたいと言うのなら、茄子は片栗粉かたくりこでまぶして生姜焼しょうがやきのタレで炒めて……、などと頭をひねらせていると「全部隠して!全部!」と香織はゴミ箱に捨てだした。


真由子が慌てて止めると「章彦さん!章彦さんが帰ってきたの!」と香織が叫んだ。


 なにかわからないが、家に帰っていきなり興奮しだしたので、落ち着かせようと真由子が香織の両手を優しくつかむと、赤茶けた砂のようなものが指先に付いた。


香織の指先には、血の固まった跡が付いていた。


「これ、どうしたんですか。笹の葉で切ったんですか」


やれやれ本当に子どもみたいだなと、蛇口じゃぐちの下に両手を持っていこうとすると、香織は抵抗して腕をひっこめた。


「ちがうの!笹舟に書いてたの!章彦さん、帰って来てるの!」


 何を言っているんだろうか。今日一日で悪い方向に、相当進んでしまった。

真由子は疲れと悲しみで、なだめる気力も無くなり、無表情になってしまった。


「章彦さん!帰っちゃだめよ!!」

そう言って、香織は廊下に出て、向かいの畳の部屋に駆け込んで行った。


「おかえりなさい章彦さん。やっと帰ってきてくれたのね!」

「どうして連絡してくれなかったの。今日だとわかってたら、あなたの好きなものいっぱい用意したのに」


暗い部屋で香織がはしゃいでいた。

真由子は廊下から、部屋の入口についてるスイッチを押した。


「消してぇ!」


香織はものすごい形相で真由子を突き飛ばし、明かりのスイッチを切った。


「ごめんなさい章彦さん。天野さんは初めてでしょ。この方、来たばかりだから」


中で何が起こっているのだろう。

暗い部屋だが、真由子からは誰かがいるようには到底見えなかった。


「私、何度もお願いしてたの。願掛がんかけまでしちゃったのよ」

「章彦さん、あなた、なんでなかなか帰ってきてくれなかったの」

「もう私を一人にしないで」


老女の悲痛な叫びが、暗い部屋から聞こえる。

彼女の問いに、答える声はない。


こんな状況にどう対応していいのか。


「天野さんは、よくやってくださってるわ。でも、家族じゃないもの」

「ねえ、もう単身赴任はやめて、ここで暮らしてちょうだい」


真由子の頬に、涙がこぼれた。



章彦さんは単身赴任ではない。旦那でもない。

岩下章彦は、岩下香織の一人息子だ。


 香織は旦那と息子を同時に亡くした。

十五年前に二人は登山に行ったきり、行方不明になった。

遺体は今も見つからず、残された家族は、彼らの死を認知できない。

さすがに十年が経つ頃には、香織も主人が帰らぬ人となったと認識している。

 しかし息子の章彦については、今でも生きていて、都内で一人暮らしをしていると思っている。


「章彦さんは私のことが心配なんでしょ。そうよね」

「私は今だってあなたのことを思っているわ」


 今では亡くなった旦那の存在が消え、その存在は章彦へと移行し、香織は章彦が旦那だと思い込んでいる。

年をるごとに老女の時間は逆行している。

現在は子供がいなかった時期の、新婚夫婦のような気持ちでいる。


若い頃を生きる香織にとって、真由子は家族ではない。


 父と兄をいっぺんに失った悲しみを、真由子は一人で受け止めて来た。

現実があやふやになる母を、必死に支えてきたつもりが、いつの間にかヘルパーの人とされていた。


これ以上、母が壊れていくのを、見ているのは辛い。


 真由子は暗い部屋の一角、母が凝視ぎょうしする一点に、何が見えているのか必死に探った。


「お母さん、お兄ちゃんは疲れたんじゃないかな」


これが娘としての精一杯の返しだった。


 もう疲れた。母が外に出て行かないように、玄関と裏口の鍵だけ、しっかり掛けたら寝よう。

真由子が廊下に目をやると、後ろから男の声がした。


「母さん、もう呼ばないで」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

乞巧節(きっこうせつ) 百舌すえひろ @gaku_seji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説