憧れに一歩近づく
「あの、すみません」
お会計の為にレジへ移動するマスターを真剣な眼差しで見つめている。
「俺をここで働かせてください」
それは常連客は勿論、泰一も目玉が飛び出る発言だった。正直いうとこの店は繁盛していない。席数に対して客はいつも三分の一以下。よくそれで経営できているものだと常日頃思っている。以前マスターにそのことを聞いてみると「趣味だからいいのさ」と笑顔で言われたことを思い出す。そんな店が従業員を雇うことが果たしてできるのか、否出来ないと思う。連れてきた手前、マスターに迷惑をかけることはできない。
「マスター・・・、あの、」
泰一はたじろぎながら声をかけるも、昌平とマスターが見つめあっている中に入れない。
「よく考えなさい」
そう手短にいうとマスターは早々にお会計を済ませて店から泰一と昌平を追い出した。
追い出された挙句、何を考えているのかわからない昌平の顔を横目でちらりと見る。
「昌平、本気か」
「ああ、さっきは追い出されたけど何度だって行くよ。その覚悟はできてる」
「今日初めて来たんだろう。なんでそんな・・・」
「あの店のマスター、元は違うところで店を開いていたと思う。俺が会社に入る前に偶然立ち寄ったカレー屋の味だった。人通りが多い道で開いてた繁盛店で、そこのカレーはメディアに取り上げられる程有名でさ。初めて食べたとき驚いたよ。普段食べているカレーの何倍も美味しくて、何種類ものスパイスが融合されて出来てるとは信じがたいほど味がぶれてなかった。前の会社に内定が決まっていなかったら、迷わず弟子入りしていたくらいなんだ」
「昌平ってそんなにカレー好きだったか?」
「ああ、スパイス求めてインドに行くくらい好きだな」
「それは本格的だな・・・」
想像している以上にカレー愛のある昌平に驚きつつも、昔弟子入りしたいと思っていた店のマスターに巡り合わせることが出来て良かったと嬉しくなった。
「これから毎日マスターに会いに行くよ。泰一、本当にありがとう」
「どういたしまして」
そう言って笑顔で別れた。後からメールで店の位置情報を送ると、その返事に『ミステリと言う勿れ』をさっそく買ったと書いてあった。全巻大人買いしてその日のうちに読み終えたのか長文の感想文が送られてきて微笑ましい気持ちになった。やりとりをしている中で「いつでもいいから都合の良い時にカシェットに来てくれ」と書いてあったので後日店に行くと、にっこりと満面の笑みで店のカウンターに立つ昌平と困ったような、けれど嬉しそうな顔をしたマスターが仲良く並んでいた。
昌平はあの時言った言葉通り、毎日カシェットに通いつめ、自分が昔食べたカレーについてと今までのカレー愛をぶちまけた。初めは警戒して複雑な気持ちだったマスターも徐々にその熱い気持ちに心を動かされて根負けしたそうだ。今では味を継承すべく、厳しく昌平を指導している。そんな厳しい指導を受ける昌平は目を輝かせながら成長しているらしい。マスターは笑いながら教えがいがあると言い、「昌平を連れてきてくれてありがとう」とお礼まで言ってくれた。そんなマスターが常連客と話していると、昌平が泰一の方に寄ってきた。
「泰一、ありがとな」
カウンター席でのんびりコーヒーを飲んでいると、昌平がそう言った。
「僕は何もしてないよ」
「俺、あの日泰一に出会わなかったらこんなに毎日楽しんでなかったと思う。やっぱりお前凄いよ」
「ありがとう?」
「なんで疑問形なんだよ!」
そういう昌平は笑って「これからも宜しく」と言った。泰一が頷くと、昌平は他のお客さんに呼ばれてカウンターから離れていった。
「ありがとう、か・・・」
昌平の感謝の言葉を噛みしめていると、店主の背後にある棚に前にはなかったものがあった。このお店に置くには違和感がある漫画。
「それ・・・」
泰一が呟くとマスターは苦笑して「昌平に勧められて読んだら面白くてね。店が暇なときにちょっとずつ読み進めているよ」と言った。思わぬところで読書の輪が広がっていて嬉しい。
「そうですか」
お互いにっこり笑いあうとマスターはお客さんから注文が入ったので作業に戻っていった。
泰一は珈琲を一口飲み、店主のことを思い出していた。彼は時折常連客から相談を受けていて、その相談はいつしか誰にも話していない心の吐露になることもあった。「何故か話せてしまう」と言った常連客に店主はただ「そうかい」と笑みを浮かべていた。相談の中で店主は必ずその人に今必要だろうという本を紹介していた。相談者が帰り、店主と二人きりになった時に聞いたことがある。
「どうしてあの人に本を勧めたの?」
「本には人を助ける力が宿っているからだよ」
「人を助ける力?」
「そう。力の種類は様々あって、人に気づきや発見を与えるものもあれば、心を浄化させるものもある。僕は相談してくれた人に今必要だと思う本を伝えることで、その人の心が健やかになれば良いなと思っている」
相談者は店主に言われた本を買って店を出ていった。数日後、再来店した相談者が「あの時に教えて貰った本が凄く良かった」と店主に嬉しそうに話していた。そんな人たちを見て店主はただ静かに微笑むだけだったが、泰一も憧れに一歩近づいたということだろうか。そう思うと嬉しくて口が綻んだ。
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