78話 偽物から本物へ
「――どうすればよかったんだろうな」
花火大会があった河川敷を遠い目で見渡しながら、過去を思い出していた俺は一人つぶやく。
もっと彩乃を愛していれば、あの浮気は起こらなかったのだろうか。
だが俺は彩乃ほど人を愛したこともなければ、尽くしたこともなかった。
あれ以上どうすればよかったのか。
ずっと考えているが、二年経った今でもそれは分からない。
だったら、あの浮気は必然だったのだろうか。
……でも今なら、少しだけあの浮気を経験してよかったと思える。
だってあれを経験しなければ彩乃を避けるためにこの町に引っ越してくることもなかったし、緋彩に出会うこともなかった。
緋彩に出会うためにあの浮気を経験したのだと考えれば、少しだけ気が楽になる。
彼女と出会えない世界なんて考えられない。
彼女のいない日常なんて考えられない。
でも今、俺は彼女を突き放している。
傷つけている。
まるで彼女のいない日常を望むかのように。
……なんで、逃げてしまったのだろう。
そこで俺は、ようやく自分の行動に後悔をし始めた。
俺の心がもっと強くて、緋彩が告白する前に過去を乗り越えられていたらこんなことにはなっていなかった。
なのに俺の心が弱かったせいで緋彩を傷つけ、零弥を突き放して、独りになってしまった。
あれだけ突き放して傷つけて、今さら俺を受け入れてくれるのだろうか。
何か行動したところで、どうにかなるものなのだろうか。
だったら、俺はどうしたらいいのだろうか……。
「――彼方君!」
聞き慣れた鈴のような声。
ずっと聞いていたくなる耳馴染みのいい声が、今だけは少し痛く耳に届く。
心の弱い俺は、名前を呼ばれたのにも関わらず振り向くことが出来なかった。
瞳を伏せ、顔が崩れそうになるのをぐっと堪えていると、後ろから優しい温もりがそっと俺を抱き締める。
「っ……!」
「お腹、空きましたよね。部屋に戻って、ご飯にしましょう」
先程とは比べ物にならないくらい暖かみのある優しい声が俺を包むと、俺の我慢は限界を迎えた。
ぽつり、ぽつりと溢れ出るように涙が頬を伝い、落ちていく。
彼女の優しさ、暖かさがとても心地良くて、申し訳なくて、ありがたかった。
◆
「――美味しかったですか?」
「……あぁ。すごく美味しかった」
「それならよかったです」
何も食べずに日を跨いでいたため、緋彩のご飯はとても胃に染みた。
そのことを腹を擦りながら伝えると、彼女はニコリと笑ってくれる。
出来立てを食べられなかったことが本当に申し訳なかった。
洗い物を終えてソファに座っている緋彩の隣に腰を下ろすと、彼女は俺の肩に寄りかかってくる。
「天城君から全部聞きました。……彼方君の過去のこと」
「……そうか」
緋彩は今、何を思って何を考えているのだろう。
いつもなら容易に分かるそれが、今は全く分からなかった。
いや、分かろうとしていないのかもしれない。
彼女の気持ちが分かってしまうことが怖いから。
幻滅しただろうか。
俺の過去を知って、引いているだろうか。
何も言えずに口を閉じていた俺に、緋彩が優しく声をかけてくれる。
「彼方君」
「…………」
「……今の私があるのは、全部彼方君のおかげなんですよ」
そうして、緋彩は俺に話し出してくれた。
「私は臆病で、心の弱い人間でした。周りが信じられなくて、自分の殻に閉じ籠もって。そうして周りとの関わりを避けていくうちに、私の心は冷え切ってしまいました。でも、そんな心を彼方君が溶かしてくれたんです」
力の抜けた俺の手に、緋彩が自分の手を絡ませる。
初めて彼女とする「恋人繋ぎ」だった。
「私がお皿を割って体調を崩したとき、彼方君は私を心配してくれました。私が人を愛したいと言ったとき、彼方君は私を愛してくれました。私が不安だったとき、彼方君は優しく私に寄り添って、声をかけてくれました。」
「……それは、当たり前のことだ」
「当たり前のことを当たり前に出来るからすごくて、格好良くて、優しいんですよ! それすら出来ない人は世の中にたくさんいます。少なくとも私が出会ってきた人たちは、それが出来ない人たちばかりでした。でも、彼方君はそれが全部できる。そんな彼方君だから私は好きになったんです、なれたんです!」
俺の手を握る力が強められる。
もう離したくないと言わんばかりに。
「……私は、彼方君と離れたくない。一緒にいたい。むしろ、もっと近くで彼方君を感じたい。だから……私と、付き合ってください」
さっきは聞こえなかったその言葉が、震える声で伝わってくる。
……今までの緋彩だったら、俺がこの部屋に彼女を置き去りにしたときに俺を追いかけることを諦めていただろう。
彼女の心は冷え切っていて、信じることを拒んでいたから。
だが今の彼女は俺にその心を傷つけられても、諦めずに俺を信じてくれている。
そんな彼女を、俺は信じなくてどうする?
信じることを怖がっていたのは俺も彼女も同じ。
でも俯いて立ち止まっていた俺とは違い、彼女は顔を上げて俺に向かって歩いてくれている。
そんな彼女を受け止めなくて……俺はどうする?
彼女は前を向いているんだ。
前を向いて、俺との関係が進むことを望んでいる。
そしてそれは俺も同じ。
叶うなら、緋彩との関係を進めたい。
そして、叶えるのは俺自身だ。
だとするなら……俺がするべきことは一つ。
繋いでいた手を離して、俯いた視線をそのままにする。
大きくなっている鼓動を感じながら、俺はゆっくりと口を開いた。
「俺は、もう誰も信じない」
息を呑む音。
ぽたりと、膝に置いた手に雫が落ちる。
それと同時に俺は揺れていた心を決めて、更に続けた。
「信じるのは、これで最後だ」
「えっ?」
目尻に涙を溜めていた彼女を、俺は強い力で抱き締める。
「……ずっと、謝りたかった。俺は緋彩から逃げて、緋彩から離れようとした。緋彩がそれを望んでいないのを知っていながら」
「そんなの――」
「それだけじゃない。俺は緋彩の気持ちを知っていた。にも関わらず俺は緋彩を信じることが出来なくて、緋彩が自分の気持ちに気づいていないことをいいことに、緋彩との曖昧な関係をグダグダと続けた。……本当にごめん」
最低だ。
謝って許される行為ではない。
にも関わらず、彼女は俺を抱き締め返してくれた。
「そんなの、気にしてないですよ! 私は彼方君の気持ちが痛いほどよく分かります。だから、彼方君がそうなってしまうのも仕方ないと――」
「許しちゃ駄目なんだ! 許したら、きっと緋彩と幸せになんかなれない。俺が緋彩を信じることはできない!」
緋彩の体が一瞬だけ震える。
「信じることはできない」という言葉に反応するように。
俺はもう、信じることから逃げたくない。
そう思わせてくれたのが緋彩だから。
そうすれば、俺は彼女の想いを真正面から受け入れることが出来るから。
「俺は緋彩の心を知っていながら無視した最低な人間だ。それでも緋彩が俺を好きでいてくれるなら、俺を受け入れてくれるなら、俺は……偽物から本物になりたい」
深呼吸をして、最後の覚悟を決める。
言え。
怖がるな。
己の欲望に忠実になれ。
「……好きだ、緋彩。だから……俺と付き合ってくれ」
「っ――!」
緋彩の体が小刻みに揺れる。
それと同時に、すすり泣くような音が聞こえてきた。
「……待たせすぎですよ」
「ごめん、本当にごめん。たくさん待たせた。たくさん傷つけた。本当にごめん」
謝ることしか出来なかった俺を緋彩は優しく受け入れ、抱き締め直す。
「……大好きです」
その一言で、全てが救われたような気がした。
◆
――瞼を開くと、白い天井が見えた。
寝返り打てば、隣に愛しい人が見える。
「そうか、一緒に……」
今は何時だろうか。
遅刻せずに学校に行けるだろうか。
そんな思いを置いておいて、俺はとりあえず彼女を起こすことにした。
「おい、起きろ。朝だぞ」
肩を揺すれば、彼女は夢から覚めたくないと訴えるように眉をひそめ、寝そべっていた俺に抱き着いてくる。
「だい、すき……」
「っ……」
彼女の寝言に痛いほど胸が締め付けられる。
気づけば、彼女の頬に雫が落ちていた。
彼女が俺を抱き締めたように、俺も彼女のことを抱き締めて、囁くように言うのだった。
「……俺も、大好きだよ」
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