58話 緋彩を巡って
その日はいつもよりチャイムの鳴る時間が五分遅かった。
時間にタイトな彼女は、毎朝必ず決まった時間に来るのに。
誤差なのだろうか。
訝しみながらも、すでに登校準備を終えていた俺はいつも通り玄関の扉を開く……が、そこにいるはずの彼女がいなかった。
「緋彩……?」
名前を呼ぶと、扉の影から亜麻色の髪がちらりと見える。
二歩ほど踏み出して覗き見ると、そこには何故か顔を真っ赤に染めている緋彩がいた。
「どうした?」
声をかければ、睨まれる。
……何なんだ?
「俺、なんかしたか?」
「しました。全く、あんなことを女の子に調べさせるなんて、酷いです」
「あ、あぁ。昨日の」
そうか、緋彩は『男女の営み』について調べたのか。
そりゃあそんな反応になって当然か。
「それはごめん。でも、調べてくれたなら思い知っただろ。自分のあの行動がどれだけ危険だったか」
緋彩に毎回あんな甘え方をされてしまえば、いつか必ず我慢の限界が来る。
俺は何とか踏ん張れたが、他の男ならそうもいかないだろう。
男はみな欲を持った獣だ。
だから、例え甘えるとしてももうちょっと抑えてほしかった。
「……それはっ」
つぶやくと、彼女はいきなり俺の腕にしがみついてきた。
「ちょ、緋彩?」
突然なんだ?
あれを調べたってことは、昨日の態度の危険性が分かったんじゃないのか?
俺が戸惑っていると、彼女は恥じらうように瞳を伏せながら口を開く。
「こんなこと、彼方君にしかしませんから大丈夫です」
「っ……ばかっ、俺でも暴走するかもしれないんだぞ」
そんな可愛いことを言っても、やっぱりあれは駄目だ。
……めちゃくちゃ嬉しいけど!
「暴走しても、彼方君だったら、私は……」
ぼそぼそと何かをつぶやく緋彩。
声が小さすぎて、何を言っているのか全く分からない。
口元も俯いていて見えないため、俺は思わず聞き返してしまった。
「なんて言った?」
「なっ、なんでもないですっ! とりあえず、早く行きましょうっ」
「ちょっ、おい! 引っ張るなって!」
叫んだ彼女は、抱いた俺の腕を強引に引っ張っていく。
必死に制止を訴えるが、彼女が俺の声を聞く様子は全くなく、俺はそのまま学校まで連れて行かれるのだった。
◆
「――んで、なんで俺をここに呼び出したんだ」
屋上の扉を開いて彼女の姿を視認すると、俺は彼女の名前を呼ぶ。
「……あかり」
時は今日の昼休みのまで遡る。
俺と零弥、緋彩、あかりで昼食を取ることが当たり前になってきたこの日。
いつものように昼食を食べ終えて教室に戻ろうとすれば、あかりが俺の耳元で囁いた。
『今日の放課後、また屋上に来てくれない?』
『どうしてだ。言いたいことがあるなら今言えばいいだろ』
『今は話せない。教室に戻っても、周りに人がたくさんいるからやっぱり話せない。だから、放課後にまたここへ戻ってきてほしいの。彼方君一人で』
『俺一人……?』
『じゃあ、よろしくね』
そんな会話を経た俺はあかりの言いつけどおり、放課後に屋上へ足を踏み入れていた。
校門前で緋彩を待たせているので、出来れば手短に話を済ませたかった。
「……彼方君は、ひーちゃんの秘密を知ってる?」
いつの日か俺に問い詰めてきた時と同じ眼差しで、あかりは俺に問う。
「秘密……か」
彼女の言っている秘密がどういうものなのか、俺には分からない。
だが、彼女は緋彩が中学生時代の唯一の友達だ。
きっと……。
「緋彩が父親と関係を悪くしていることなら、あいつから聞いた」
「そっか」
否定してこない辺り、やはりこのことが聞きたかったようだ。
「……突然だけど、彼方君はきっとひーちゃんのことが好きだよね」
「本当にいきなりだな」
「ごめん」
苦笑するあかり。
今後彼女にそのことでからかわれる可能性もあるが、今の真剣な瞳をしている彼女に隠すことは出来なかった。
「……そうだな。俺は緋彩が好きだ」
「それは、女の子として?」
「男が異性を好きだと言う理由なんて、それくらいしかないだろ」
「だったら、改めて彼方君にお願いがあるの」
「お願い?」
聞き返せば、あかりはこくりと頷く。
「なんだ?」
「彼方君に、ひーちゃんを救ってほしいの」
「緋彩を……救う」
俺は眉をひそめながら、その言葉を反芻させる。
「私はひーちゃんを救えなかった。だからひーちゃんは心に深い傷を負ってしまった。ひーちゃんの一番近くにいる彼方君なら――!」
「無理だ」
「えっ……?」
あかりの言葉を遮るように口を開くと、彼女は驚きを隠す余裕もなく目を見開いた。
「あかりが救えないんじゃあ、俺に救えるわけがない。それに俺は他人だ。家族関係に口出しできる立場でもないだろ」
「じゃあ彼方君は――!」
「俺だって救いたいさ」
再び彼女の言葉を遮る。
緋彩の傷ついた姿はもう見たくない。
緋彩に苦しい思いは、もうしてほしくない。
その気持ちは本物だ。
「でも、無理なものは無理なんだ」
顔を渋らせ、瞳を揺らすあかり。
彼女は緋彩が信頼している友達だ。
だからこそ、俺は彼女にも苦しい思いはしてほしくない。
「一応、なにか出来ないか探すつもりだ。だが俺にも事情がある。だから、俺の頼みも聞いてほしい」
「……何?」
あかりの声に、俺は一度無言を返す。
彼女にこれを言ってしまえば、彼女はきっと怒るだろう。
でも、俺は彼女に頼み込まなければならない。
緋彩の心の傷を最小限に抑えるために。
大きく深呼吸をすると、決心して口を開く。
「俺と緋彩の間に何かあったときは、緋彩を頼む」
俺の言葉を耳にしたあかりは、みるみると顔に怒りの色を現した。
「……何それ。彼方君はひーちゃんのことが好きなんじゃないの? この前言ってくれたあの言葉は嘘だったの?」
「俺だってずっと緋彩の側にいたい! でも、それが無理なときはいつか必ず来る! ……言っただろ、俺にも事情があるって」
お互い眉間に皺を寄せる。
だが、今にも瞳が崩れてしまいそうな俺に対し、あかりは鋭い眼差しで俺を睨みつけていた。
……緋彩とずっと一緒にいられたら、どれだけ幸せだろうか。
そんなの、ありえないのに。
「……頼んだから」
「あっ、ちょっと! 彼方君!」
俺を引き止めるあかりの声を無視して、俺は逃げるように屋上を後にするのだった。
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