39話 好きの気持ち
「——まだいてもいいんだぞ……って言おうとしたけど、流石に姉さんがいたらお前も気まずいよな」
玄関先で靴を履いている緋彩に、俺は声をかける。
夕飯を三人で済ませたあと、彼女はいつも二十時に自室へ戻るところを今日は十九時に戻ろうとしていた。
ちなみに姉さんはどこにいるかというと、リビングでソファに座り
緋彩の作った料理があまりにも美味しかったらしく、「うめぇ……」と女に似つかわしくない言葉を思わず零してしまったことを後悔しているらしい。
まぁ緋彩の料理はほっぺたが落ちるくらいには美味しいので、姉さんの気持ちは分からないでもない。
だが俺が姉さんにかけられる言葉が「ドンマイ」くらいしか思いつかなかったので、あえて言わないでおいた。
「……そうですね。確かに気まずいですけど、賑やかで優しくて、一緒にいてとても楽しいですよ」
「そりゃ、よかった」
姉さん、緋彩はちゃんとアンタのことを見てくれてるから落ち込まなくても大丈夫だぞ。
「それで、その……」
「ん、どうした?」
話題に一区切りつくと、緋彩は何故かモジモジとし始めた。
揺れる瞳、染まる頬、よじれる体。
突発的なものだったので、俺はその意図が分からずに疑問符を浮かべてしまう。
問いかけると、彼女はゆっくりと口を開く。
「あ、頭……」
「頭? ……もしかして、さっき撫でられるの嫌だったか?」
もしそうなら申し訳ないと思わず顔を渋くしたが、緋彩は首を横に振った。
「ち、違いますっ。むしろ……逆、です」
「逆……」
その単語を、俺は無意識に反芻させる。
“嫌”の逆、ということは……。
「っ——」
手を緋彩の頭の上に乗せると、彼女は大きく体を震わせた。
「ご、ごめん」
「いえ! 大丈夫です。急に来てびっくりしただけですから」
「な、撫でて……いいんだよな?」
「お、お願いします」
ぎこちないやり取りを交わしたあと、俺は再び緋彩の頭を撫で始める。
さっきも撫でていて思ったが、彼女の髪はとても柔らかかった。
きっと、俺には想像もつかないような苦労をかけてこの髪質を維持しているのだろう。
そのことに気づいてしまうと、本当に俺が撫でてもいいのかと不安になってしまう。
でも……。
「んぅ……」
彼女は気持ちよさそうに口元を緩ませながら頭を差し出していた。
一見すると喘いでいるようにも聞こえてしまうその声はとても心臓に悪いのだが、彼女が気持ちよければもう何でもよかった。
もっと撫でてほしいのか、彼女の頭が段々とこちらに寄ってくる。
そのまま体制を崩してしまったらしく、彼女は「うわぁっ!?」と驚いた声を上げながら俺の胸に飛び込んできた。
「うおっ!?」
俺も同じような反応で緋彩を咄嗟に受け止めるが、不覚にもお互いに抱き締め合うような体制になってしまった。
そのまま、俺たちは見つめ合う。
緋彩は耳まで真っ赤に染まっているし、俺の頬にも熱が帯びているのを感じる。
「だ、大丈夫か?」
「……はい、大丈夫です」
「ほら、帰るんだろ? 姉さんも俺が戻ってこなかったら変に勘繰るだろうし」
「そ、そうですね」
口ではそう言いつつも、緋彩の体は納得がいかないように離れてくれない。
緋彩とこうして抱き締め合うのは、彼女が俺の部屋に泊まったとき以来だった。
あの日は理由があって抱き締め合っていたけど、今は理由もなしに、ただお互いが抱き締めたいから抱き締め合っている。
故に、俺の頭は沸騰しかけていた。
彼女の甘い香りと柔らかい体が俺の脳細胞を破壊していく。
胸の高鳴りも、止まることを知らなかった。
「ハ、ハグがしたかったら……デートの時にでも、またしてやるからさ」
「っ——!」
「だから、今日はもう帰ろう。な?」
このままでいれば、いつ理性の留め金が弾き飛ぶか分からない。
緋彩を傷つけないためにも俺は彼女に言うと、彼女(正確に言えば彼女の体)はようやく納得してくれたのか、おずおずと俺から離れていく。
「……約束、ですからね」
恥じらいながら上目遣いに俺を見つめて放たれたその言葉に、俺の心は痛いくらいに締め付けられた。
◆
「——緋彩ちゃんと何してたの?」
緋彩を部屋に返しリビングに戻ってくると、もう復活したらしい姉さんがニヤついていた。
「な、何もしてない」
「えーホントー?」
「本当だ」
「だって帰ってくるの遅かったじゃん。絶対なんかしてたでしょー」
「だから何もしてないって言ってるだろ」
「何してたのさー」
ソファから立ち上がって俺の横っ腹を肘で突っついてくる姉さん。
この人、本当にさっきまでダウンしてた人か?
急な変化に戸惑いながらも、俺は鋭い眼差しを姉さんに向けて言い放った。
「つまみ出すぞ」
「カナタ、ナニモシテナイ。スグカエッテキタ」
「……よろしい」
片言なのは少々気にかかるが、これ以上言及してこないのなら許してやろう。
「でもさぁ、仮に何もしてないとしたら彼方ってすっごい紳士だよね」
「それは俺を馬鹿にしてるのか。それとも褒めてるのか」
「強いて言うなら……両方?」
「両方って……」
しかもなんで疑問形なんだよ。
「初めて緋彩ちゃんを見たとき、ようやく彼方があれを乗り越えてくれたのかと、姉さん期待したんだけどなー」
「っ……余計なお世話だ」
姉さんがソファに座り直したのを見て、俺も姉さんの向かいに腰を下ろす。
「緋彩ちゃんの好意、彼方はどうするの?」
その言葉に、一瞬息をするのを忘れた。
「……なんで緋彩が、俺のことが好きだって分かる」
「料理作ってくれてる」
「それに関しては話しただろ。俺の食生活を気にしてるだけだって」
「少なくとも彼方のことを大事に思ってなきゃ、そんなところを気にかけたりしないよ」
姉さんの言い分に、俺は反論できずにいた。
確かに、俺のことを思っていなければ気にかけたりはしない。
あの緋彩なら尚更だ。
「父さん譲りの勘の鋭さだけは一級品だな」
「……乗り越えてないんだとしたら、彼方はこれからどうするの?」
俺の御託を耳にせず、姉さんは言葉を続ける。
俺は姉さんの言葉に……何も返すことが出来なかった。
「ベッドは姉さんが使ってくれ。長旅で疲れてるだろ。俺はソファで寝るから」
「……分かった。じゃあ姉さん、車から荷物を取ってくるね」
「あぁ」
姉さんはそう言って、ソファから立ち上がる。
玄関に向かう途中で俺に振り向いたような気がしないでもなかったが、俺は今、姉さんと目を合わせることが出来なかった。
玄関の扉が開き、閉まる音が響く。
一人になると、俺はソファで仰向けになりながら、リビングの照明を目が眩むまで見続けた。
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