30話 よく分からないのです

 ——潮騒が心地良く耳朶を叩く。

 街中で感じた時よりも風が強く、そして涼しく感じる。


「涼しいですね」


 先程まで顔を赤くしていた緋彩も潮風に当てられたおかげか落ち着きを取り戻し、今では顔に柔らかな微笑を浮かべていた。


「あぁ。ここに来て正解だったな」

「そうですね」

「……誰もいないな」

「確かに、誰もいませんね」


 ここには、俺と緋彩の二人しかいなかった。

 海水浴場ではないので泳ぎに来る人はいないにしても、釣りをしに来る人くらいはいるものだと思ったのだが。


「……ねぇ、彼方君」

「なんだ?」


 聞き返すと、手を握られる力が強くなる。


「さっき、どうして手を繋がなかったのか。教えてほしいですか?」


 緋彩に視線を向けるが、彼女は真っ直ぐに前を見つめたまま動かない。

 そこには、依然として柔らかい微笑が浮かべられていた。


「……そりゃあ、気になりはする」


 素直に「教えてほしい」と言えなかったのは、今の彼女に違和感を感じたからだ。


 彼女は先程まで、あれだけ理由を話すことを拒んでいた。

 それなのに、今では「教えてほしいですか?」と俺に選択を委ねてすらいる。


 どういう風の吹き回しだろうか?


「分かりました。じゃあ、言います」

「あ、あぁ」


 そのまま緋彩はこちらへ振り向くと繋がれた手を離し、俺に視線を合わせる。

 その瞳はやけに真剣で、どこか居心地が悪くなってしまった俺は彼女から視線を逸らそうとして我慢した。


 緋彩がこんなに真剣な顔をしているのに、俺が逃げてはいけない。

 ちゃんと向き合わなければいけないと、そんな気がした。


 やがてその瞳は柔らかく弧を描き、眉はきゅっと顰められた。


「私、手を繋ぐことに緊張してしまって。だから手を繋げずにいたんです」

「緊張……って、昨日も繋いでただろ? 何を今になって緊張することがあるんだ?」

「私もそう思います。でも、どうして緊張してしまうのか、私にも分からないんです」

「分からない……」


 ということは、自分が自覚していない気持ちが原因で緊張しているのか。


「最近、自分でもよく分からないことが起きてしまうんです」

「というと?」

「……彼方君の笑顔を目の当たりにすると何故か頬に熱が帯びてしまったり、声を聞くと胸が、こう、きゅうっと切なくなるというか」

「…………」

「今まで彼方君と接していても、こんなことにはならなかったんです。彼方君は今の私の話を聞いて、どうしてこうなったのか分かりますか?」


 好感度を上げるなと言ったのに。

 関心するなと言ったのに。


「……いや、分からないな」


 俺は、そう言うしかなかった。


「そうですか……」


 残念そうに瞳を伏せる緋彩。

 そんな彼女に、俺は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


 思い上がりではない。

 思い上がりでなくとも、今の彼女の言葉を聞いていれば自ずと分かってくる。

 確信した。

 だから断言しよう。


 緋彩は、俺のことを意識し始めている。

 男として、異性として。


 いつかこうなるとは分かっていた。

 だが、それは俺の話だ。

 いつか必ず緋彩のことを意識してしまう。

 意識してしまったら、手を繋ぐことも躊躇うだろうし、顔を見ることすら困難になってしまう。

 そう思っていた。


 でもまさか、緋彩がそうなってしまうとは。


 俺のどこがよかったのだろう。

 俺なんて大切な人一人さえ幸せに出来なければ、その上緋彩の事実から目を背けたいがために、分かっているのにあえて分からないふりをする、そんなクソ野郎だというのに。


「……どうして、話そうと思ったんだ?」

「さっき、私のせいで彼方君が勘違いしてしまったじゃないですか」

「緋彩が手を繋いでくれなかったのは、俺のことが嫌いになったからじゃないかって?」

「はい。彼方君がまだそう思ってたら嫌なので」


 あぁ。

 お前が俺のことを嫌っていないことは十二分わかったよ。


「……そうか」

「まだ疑ってますか?」


 言いながら、緋彩は桜色の唇を尖らせながら俺の顔を覗き込んでくる。


「疑ってはないが……そう見えたか?」

「なんだか、元気がないです」

「そうか? 俺は別に変わらないが」

「どうすれば元気が出ますか?」

「いやだから、俺は別に……」


 変わらないと言いかけるが、緋彩の「否定すまい」と言わんばかりの形相に言うのを憚ってしまう。


 終わりが見えてしまったんだ。

 こうなるのもしょうがないだろ。


「……気分転換に、そろそろ買い物に行きたい。いいか?」

「分かりました。じゃあ行きましょう、すぐ行きましょう」

「お、おい。ちょっと引っ張るなよ」


 そんな言葉を無視して、俺の手を掴み先導する緋彩。


 ……彼女といられるのも、あともう少し。

 その時が来るまでは、彼女の隣にいてもいいだろうか。

 それが許されるだろうか。


 別れるときのことを考えるなら、すぐにでも別れを切り出したほうがいいのだろう。

 でも彼女との仲を育んでしまった今、それを俺の意思でするのはとても出来ない。


 彼女が自分の気持ちに気づいて、それが俺と共有出来たとき。


 その時が、俺と緋彩の「恋人ごっこ」の終幕だ。

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