15話 氷の姫のおねだり

「――はぁ、疲れた……」

「何がですか?」

「いや。別に何でも」


 だらしなくたるませた表情筋に力を入れ、俺はあくまで平然を装う。


 あの後は結局「お前にはまだ早い」の一点張りで何とか押し通した。


『お前にはまだ早い』

『何でですか。別に教えてくれたっていいじゃないですか』

『言ってるだろ、お前にはまだ早い』

『えぇー』


 このやり取りが形を変えながら四、五回ほど繰り返され、ようやく柚子川は侵攻の手を引いてくれた。


 これ以外に方法あったか?

 本当の恋人同士なら「じゃあ試してみるか?」とか言えるのだろうが、偽りの関係である以上それは不可能だ。

 それに、言ったとしても柚子川はそれを望んではいない。

 仲が着々と深まりつつある今、そんなことを言えるほど俺の心も強くはない。

 だから、さっきの状況ではああ言うしか方法はなかったはずだ。


 ……もうこのことについて考えるのはよそう。

 思考するだけで体力を消耗する。


「とりあえず、俺は風呂に入ってくる」

「お風呂、ですか」


 途端に柚子川は俯いてしまった。

 自分が風呂に入れないことを悟ったのだろう。

 年頃の女の子にとって風呂を一日でも抜くのはご法度であり、ましてや初夏の三十度近く気温が上がる今日では、汗で体も気持ち悪く感じるはずだ。

 その中で風呂に入ることができないとなったら、俺も気を落とさずにはいられない。


「その体じゃお前は入れないだろ? お湯で濡らしたタオルを持ってきたから、それで体を拭いておけ」

「…………」

「大丈夫だ。お前が体を拭いたタオルは俺が責任を持って触れないように洗濯機で洗う。そのためにバスケットも持ってきたんだ」

「なら、いいです」


 軽蔑するような視線を突き付けてきたので、俺は言葉を付け加える。

 そんなに信用ないのかと問い質したくもなるが、好きでもない男に自分の体を拭いたタオルを扱われるのだから、警戒しても仕方ないか。


「……って言ってももう乾いてるだろうから、またお湯で濡らさないといけないがな」

「す、すみません……」

「いいよ。興味が出たものは仕方ない」

「……そう言っている割には、まだ理由を教えてもらっていませんけど」


 唇を尖らせて、ジト目で見つめてくる柚子川。


「……俺の口からは言えん」

「さっきと言い訳が変わっていますよ?」

「いいから、お前にはまだ早いんだよ。後は……」


 俺は話題を無理矢理逸らして、タンスを開けた。


「長いのと短いの、どっちがいい?」

「何がですか?」

「いいから」

「……じゃあ、短いので」

「ん」


 俺は端的に返すと、適当に半袖とスウェットのハーフパンツを取り出し、柚子川に手渡す。


「洗ってあるから汚くはないと思うが、嫌なら無理に着なくてもいい」

「……いいんですか?」

「その制服じゃ、いろいろと不便だろ。汗もかいてるだろうし、こっちの方が動きやすいだろうし」


 言いながら、俺は手渡した衣類を指差す。


「……すみません」

「またそうやって謝る。お前は別に悪くないんだから、言うなら『ありがとうございます』にしろ」

「……ありがとう、ございます」

「よし、その意気だ」


 俺が柚子川の言葉に微笑むと、彼女も俺の顔を見て微笑み返してくれるのだった。






 ――トントントン。


「着替え終わったか?」

「は、はい。なので、開けても大丈夫ですよ」


 くぐもった声が許可を下ろしたので、風呂から上がった俺は寝室の扉を開く。


 そこには先程渡した服を身に纏った柚子川がベッドの上にちょこんと座りながら小説を片手にこちらを見ていた。

 俺と彼女は体格に一回りくらいの差があるので、彼女がまるで六部丈の服を来ているように見えるが……まぁ、許容範囲内だろう。


「寒くないか?」

「はい、大丈夫です。……あの」

「何だ?」

「これって、所謂『彼シャツ』ですよね?」

「っ……小説からの入れ知恵か。俺らは本物の関係じゃないから、それは彼シャツとは言わない」

「そうなんですか?」


きょとんとした表情で首を傾げる柚子川。

その姿に、俺はため息をつきたくなってしまう。


「そうだ。くだらないこと言ってないでさっさと寝ろ。俺は向こうのソファで寝るから、何かあったら電話でも寄越せ」


 幸いにも、俺の部屋にあるソファは全て二人がけだった。

 少し寝辛いだろうが、柚子川がベッドを使っているので仕方ない。

 俺は柚子川が体を拭いたであろうタオルの入ったバスケットを手に取ると、寝室を後にしようとした。


「っ……何だ?」


 その時、いきなり俺の裾を誰かに掴まれる感覚がした。

 誰かと言っても、ここには俺の裾を掴めるやつなんて一人しかいないわけだが……。


「その……ソファじゃ、体を痛めてしまいます。だから、仕方ないので、一緒にここで寝ることを許可してあげます」

「っ――!?」


 ……ちょっと待て。

 今柚子川はなんて言った。

 一緒に寝ることを許可するだと?


 ……いや違う。

 氷の姫である柚子川が、そんな簡単に唯一のプライベートゾーンを明け渡してくれるはずがない。

 もっと、何か大きな理由があるはずだ。


 焦るな、冷静に対応しろ。


「……仕方ないことなんてない。俺はちゃんとソファで寝られる。だから――」

「ちょ、ちょっと待って下さい!」


 柚子川の手が掴まれたまま寝室を出ようとすれば、裾を掴む力が増した。


「本当のこと言えるか?」

「……本当に、柊君は覚です」

「俺が妖怪なら、尚更そばに置いておくのは危なくないか?」

「い、言います。言いますからっ」


 瞳にうるうると雫を溜めているため、これ以上は意地悪くしないほうがいいだろう。

 柚子川がようやく「言う」と言ってくれたため、俺は彼女に向き直る。


「あの……その……」


 頬を染めて視線を泳がせている柚子川に俺は息をつくと、安心できるように微笑んで見せた。


「何だ?」

「その……一人で寝るの、怖いんです。だから、今日だけ、その……一緒に寝てほしいです」


 上目遣いでおねだりする柚子川のあまりにも可愛すぎる姿に、俺は思わず息を荒くしてしまいそうになる。


 駄目だ、ここで取り乱してはいけない。

 そしたら全てが終わる。

 あくまで平然と、気にも留めない表情で。


「……タオルとバスケットだけ片付けてくるから、ちょっと待ってろ」

「逃げませんか?」

「そこまで言われたらもう逃げられねぇよ」


 柚子川が手を離してくれたので、俺は早く寝室から出たい気持ちをぐっと堪え、歩いて寝室を出ようとする。

 いつもと同じテンポと歩幅で歩き、いつも通りの力で扉を開け、そして閉める。


 瞬間、その場にへたり込んだ。

 扉に体重をそっと預け、未だに激しく鼓動している胸に手を当てる。


「はぁ……はぁ……」


 柚子川のデレている姿は初めて見たかもしれない。

 いや、きっと初めてだ。

 でなきゃ、ここまで緊張するはずがない。


「クッソ……」


 確実に、俺の中で柚子川の存在が大きくなりつつある。

 惚れたら駄目なのに。

 好きになっても、無駄なのに。


 ……とりあえず、タオルとバスケットを片付けて早く寝室に戻ろう。

 柚子川が待ってる。

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