16話 氷の姫は「緋彩」
「――奥、行けるか?」
「は、はい」
体をぎこちなく使ってベッドの奥に移動する柚子川と一緒に、俺は枕を彼女の方へ移動させながら布団の中に入る。
「いいんですか?」
「いいよ。俺は大丈夫だから」
「……ありがとうございます」
言いながら、柚子川は枕に頭を預けた。
セミダブルサイズのベッドなため二人で寝られる大きさではあるのだが、それでも寝返りを打つのは少々難しい。
そこまで寝相が悪いわけではないと思うから大丈夫だと信じたいが、もし寝相で柚子川に迷惑がかかったらどうしようか。
……よし、ここまで考えられる余裕は出来たな。
タオルとバスケットを片付けるために寝室を出た時は何も考えられなかったが、時間を置いたことによってある程度思考が巡るようになっていた。
ただ柚子川がすぐそばにいるため、直にまた余裕がなくなっていくだろう。
早く寝てしまうのが得策だ。
寝相で迷惑がかかったときは、その時で考えよう。
「じゃあ、おやすみ」
「お、おやすみなさい」
俺は柚子川にそう言って、背中を向ける。
目を閉じて、必死に睡魔を探すが…どこにも見当たらない。
というよりも、眠気はあるのだが柚子川が後ろで寝ているということを意識しすぎて眠れないのだ。
ベッドからは、柚子川を抱き締めたときに香ったあの甘い匂いがほんのりと香っていて、どうしても居心地が悪い。
寝よう寝ようと思いながら目を瞑るが、一向に意識が落ちる気配を感じられない。
一体、どうすれば……。
「……柊君、まだ起きてますか?」
その時、鈴のような可愛らしい声が後ろからかけられる。
「……どうした、眠れないか?」
「いえ、その……柊君に、言わなくてはいけないことがあるというか……」
「俺に、言わなくちゃいけないこと?」
なんだろうか。
流れも何もないこの状況で俺に言わなくてはいけないこと……考えるが、思いつかない。
柚子川は一体何を言い出すのだろうかと言葉が続くのを待っていると、彼女は消え入ってしまいそうな声で言った。
「その……私が、どうしてパニックになってしまったのかって話です」
「っ――!」
「柊君には、ちゃんと言っておかないといけないと思って……」
震え、今にも泣き出しそうな声。
俺も気にはなっていた。
どうして皿を割った程度であそこまでパニックに陥ってしまったのか。
だが、俺が聞いたところでどうしてあげることも出来ない。
それだけ、重い理由な気がした。
それに……。
「……言うのが怖かったら、無理して言わなくてもいいんだぞ」
「えっ……?」
「人間、誰だって触れられたくないことくらいある。知られるのが怖いことも。だから、無理して言う必要なんてない」
「柊、君……」
「今のお前の声を聞いていたら、俺に無理矢理言おうとしている気がしてな。だから、無理に言う必要はないってことを伝えたかっただけだ」
後ろで、息が荒くなっていく音が聞こえる。
鼻を啜って、必死に泣くのを我慢しているような、そんな音が。
「俺はそのことについて詮索するつもりはない。お前が言いたくなったら、俺はいつでも聞いてやるよ」
それまでずっと待ってる、という言葉を飲み込む。
言ってしまったら、彼女を急かしてしまう気がしたから。
今の彼女は、それだけ俺に気を遣っている。
「……ありがとう、ございます」
「『すみません』じゃなくなったな」
「い、いちいちうるさいです」
「言い返せる元気もあるな」
「……ばかっ」
そう言って、俺の背中を優しい力で叩く柚子川。
彼女の反応が妙に可愛らしく、俺は彼女の見えないところで頬を緩ませた。
「――あの、柊君」
「ん?」
ある程度の沈黙が続き、ようやくそばに柚子川がいることに慣れてきた俺が寝に入ろうとしていると、後ろで彼女が俺を呼んだ。
「そ、その……背中、お借りしてもいいですか?」
その声に、俺は無言を返した。
この期に及んで、まだ俺の心臓を弄ぶか。
彼女にその気はないのだろうが、彼女のその要求は確実に俺の負担になる。
だとするなら……。
「……背中でいいか?」
「えっ?」
「今なら背中に加えて、胸もお貸しすることが出来ますが」
「っ……」
後ろで息を呑む音が聞こえる。
そして、少しの沈黙の後。
「……じゃ、じゃあ、胸を……お借り、したいです」
「……了解」
少しだけ、触れることを許してほしい。
男の性というやつだ。
寝返りを打って、柚子川の方に向く。
すると、彼女はすぐに俺の胸に飛び込んできた。
「……思い出して、怖くなったか?」
柚子川を抱き寄せて頭を撫でながら聞くと、彼女は胸の中でコクっと頷く。
「……いくらでも使ってくれ」
「ありがとうございます」
彼女も段々慣れてきたのか、さっきまであった体の強張りが消えていく。
拒否するような動きはないから、嫌がられはしていないのだろう。
ふと、俺の頭も心臓も落ち着いていることに気付いた。
……彼女の暖かい温もりが、俺をそうさせているのだろうか。
「……というか、暑くないか?」
三十度近くある部屋で密着しているため、額から汗が流れ出てきそうだ。
柚子川も暑くないのかと気になったが、彼女が返答することはなかった。
「柚子川?」
抱き着きを緩めて胸の中を見ると、そこで彼女は可愛らしい寝息をたてて眠っていた。
「……おやすみ、緋彩」
なぜ名前で呼んだのかは分からない。
彼女の無防備とも言える危なっかしく可愛らしい寝姿を見ていると、自然と柚子川の名前が口をついて出た。
ただ、その行いは直に後悔へと変わる。
「おやすみなさい、彼方君」
胸の中から、そんな声が聞こえてきた。
「ばっ……お前、寝てたんじゃなかったのかよ」
顔を上げて再び抱き締めると、柚子川はクスクスと笑い始めた。
その声が何とも居心地悪い。
やがて笑いが収まったかと思えば、彼女は「柊君」と俺を呼んだ。
「な、何だよ」
「名前……」
「あ、あぁ。仲睦まじい恋人を演じるには名前で呼び合う方がいいんだろ?」
「違います」
「そうだよな違うよな、って。はっ……えっ……?」
恥ずかしさで頭の回らない俺は、柚子川の言葉を正常に処理できずにいた。
一呼吸を開けて、彼女は告げる。
「名前は……私が、普通に呼び合いたいんです」
「……だから、何でそこで素直になるんだよ」
意味が分からない。
何で。
いつもは素直じゃないのに。
「照れてますか?」
「う、うるせぇ。こっち見んな」
「赤くなってますよ?暗闇でもよく分かります」
「思っても口に出すな」
「やっぱり照れてます」
「い、いい加減にしろ」
「ふふっ、はーい」
クソ、こいつこんなにからかえる奴だったか?
いつもからかうのは基本的に俺だったはず。
……やっぱり、今日のこいつはおかしい。
「……おやすみなさい、彼方君」
俺が柚子川から必死に目を逸していると、彼女は俺の胸に額を当てて再び寝る準備に入った。
そんな彼女を抱き締める力を少し強めて、俺も言った。
「おやすみ、緋彩」
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