14話 氷の姫の新しい世界
「――ごちそうさまでした」
インスタントのお茶漬けを食べ終わった柚子川は、手を合わせて行儀良く挨拶をする。
「ん、じゃあまた横になってろ。俺は食器洗ってくるから」
「……あ、あの」
お茶漬けの入っていた茶碗とスプーンを持ってキッチンに行こうとすれば、後ろから声がかかった。
振り返ると、柚子川が目をしぱしぱとさせながら視線を彷徨わせていた。
「……あぁ、まだ体が思うように動かなかいんだったな」
要は「ベッドに移動するのを手伝ってくれ」と言いたいのだ。
柚子川の言いたいことがようやく分かった俺は、食器をテーブルの上に置き、彼女の前で膝立ちをする。
「ほら」
「……す、すみません」
両手を広げ柚子川を受け入れる体制を作れば、彼女は照れ臭そうに頬を色づけながら同じく両手を広げ、上半身の体重を俺にかけてくる。
傍から見ればハグをしているように見えるだろうが、こうしないと柚子川が立ち上がれないのでしょうがない。
俺が柚子川を運ぶ、所謂「お姫様抱っこ」も提案したのだが、それは申し訳ないらしい。
なので、これしか方法がなかった。
……と内心で自分に言い聞かせるが、実際ものすごく緊張している。
体が細くて華奢で、凄く柔らかい。
それに、なぜだか甘い匂いまでする。
近くで風呂に入ったわけでもないから、この匂いはシャンプーやボディソープの匂いなどではなく、柚子川の匂いなのだろう。
って、こんなこと考えたら余計緊張するじゃねぇか!
何考えてんだよ俺!
柚子川がお茶漬けを食べるためにベッドからソファへ移動するときも思ったが、これは一回や二回程度で慣れるものではないな。
……そうだ、この甘い匂いは柔軟剤の可能性だってあるんだ。
きっとそうだ、そうに違いない……うん。
「た、立つぞ」
「は、はい」
お互い言葉に詰まりながら、何とか立ち上がる。
ここまでくれば、もう後は簡単だった。
抱き着きを緩め、柚子川に当たらない程度に開いたその間へ腕を滑り込ませる。
彼女がそこに体重をかけ、体制を安定させると、一歩、二歩と歩き出す。
彼女の歩く調子に合わせながら俺も足を動かすこと約三分。
ようやくベッドに辿り着くことが出来た。
「……やっぱり、これからは俺がお前を運ぶ」
前言撤回、簡単ではなかった。
「……分かりました」
そっちの方が時間効率も良く、心の負担も少なくなる。
柚子川も同じことを悟ったのか、今度はすんなりと受け入れてくれた。
ちなみに彼女は今日、俺の部屋に泊まることになっている。
体が思うように動かない彼女が自室に戻るためには、俺が手伝わないとまず辿り着けない。
それに加え自室に戻ったとしても彼女は自分一人では動けないので、何かあったとしてもどうすることもできない。
『他意はない。一人で居られたら心配だから、今日だけは俺の目の届くところに居ろ。いいな?』
『……分かりました。何もしないでくださいね』
『元々する気なんて毛頭ない。……その口を利けるなら、調子の方はもう大丈夫だな』
『う、うるさいです』
そんな会話を交わし、お互い合意のもと柚子川が泊まることになった。
「食器片付けてくるから、少し待ってろ。もし暇だったら、そこの小説とか読んでてもいいが……」
「小説、ですか?」
俺は零弥が近くにいるとき以外万年ぼっちなため、休み時間は小説で時間を潰していることが多い。
ミステリーやラブコメ、ファンタジーなど様々なジャンルを読み漁っているが、柚子川がどういうものを好むのかが分からなかったため、とりあえず棚からジャンル毎に一冊取り出し、柚子川の座っているベッドの上に置いた。
「あれだけ寝たんだから今は眠くないだろ? お前がどのジャンルを好んでるのかとかよく分からないから、読むんだったらこの中から選べ」
「小説……」
柚子川は僅かに目をキラキラとさせながら小説を見つめている。
……そんなに珍しいものでもないのに、どうしてこうも子供のように目を輝かせているのだろうか。
「じゃあ、少し待っててな」
「あっ、はい。ありがとうございます」
疑問に思いながらも、俺は特に気にせずに寝室を出た。
「……起きてるかー?」
食器を片付け終え、お湯で濡らしたタオルとバスケットを手にこっそりと寝室に戻ってくると、ベッドの上で小説を食いつくように読んでいる柚子川の姿が見えた。
……何のジャンルを読んでいるのだろうか。
幸い声をかけても気付かないくらい集中しているらしいので、俺は枕と向かい合うように正座をして小説を読んでいる柚子川の後ろにそっと近づき、小説を覗く。
「……ラブコメか」
「ひゃっ……い、居たんですか」
無意識に柚子川の耳元でつぶやいてしまったせいか、彼女は大きく体を震わせてこちらに振り向いた。
「驚かせてごめん。お前ってラブコメ読むんだな」
言いながら、俺はタオルとバスケットをベッドの脇に置く。
「ど、どういうものか少し気になったので……」
「ん、ラブコメ読んだことないのか?」
「ラブコメに限らず、小説をまず読んだことがないんです」
「あぁ、なるほどな」
小説を物珍しそうに見つめていたのも読んだことがなかったからだったのか。
「へ、変ですか?」
「いいや。今の時代、小説を読んだことがない人間なんてざらにいるだろうし、変でも何でもないぞ」
「そう、ですか……」
ほっと息をつく柚子川。
そんなに不安だったのだろうか。
「しかし、お前が最初に手につけた小説がまさかラブコメだったとはな」
「へ、変ですか?」
さっきの反応と全く同じ反応だったため、俺は思わず笑みを零してしまう。
「い、今笑いましたっ。やっぱり私がラブコメを読むなんて……」
「違う違う、お前の反応が面白かっただけだ。変だとは全く思ってない。ただ、恋愛とかにはあまり興味がないものだと思ってたから」
「興味くらい、あります」
「そ……そうか」
おい、何故そこで素直になる。
いつもなら「あくまで私は偽りの恋人を演じるために勉強しているだけであって、興味があるわけではありません」とか言いそうなのに。
妙に居心地が悪くなってしまって、俺は彼女から視線を外す。
……気まずい雰囲気になってしまった。
「そ、その」
沈黙を破ったのは柚子川だった。
見ると、彼女は瞳に決意の色を孕ませている。
「な、何だ?」
「小説の中で、少し聞きたいことがあるんですけど……」
「聞きたいこと?」
「こ、ここです」
柚子川が小説のある文字を指して見せてくるので、俺はその文字が見える距離にまで近づく。
「えっと、『二人は互いに深いキスを』……」
そこで、俺は読むのをやめてしまった。
深い……キス。
「深いキスって、なんですか?」
「深いキス……深いキスな」
これを説明しろと言うのか?
いやいやいやいや、いくら何でも難易度が高すぎやしないか?
どうしたらいいのか分からず、俺は顔を強張らせてしまう。
「キスって、唇と唇を合わせるだけじゃないですか。深いも浅いもなくないですか?」
柚子川の中で恥じらいよりも疑問の方が大きくなったのか、言葉の出が先程よりも滑らかになっている。
対して俺は言葉の出が非常に悪くなっていた。
「え、えっと……」
「というか、そもそもなんでキスをするんですか。意味なくないですか?」
「そ、それは……」
「柊君、教えて下さい。分からないと言わないということは、柊君は知っているんですよね?」
なぁ、有識者がいれば教えてくれ。
この状況、俺はどう動くのが正解なんだ?
ずんずんと俺に迫ってくる柚子川に気圧され、俺は後ずさりながらいないはずの誰かに答えを求めるのだった。
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