13話 氷の姫は「悪い子」

「――ん……んん……」


 その声で、朧げだった意識を覚醒させた。

 目を擦り、体制を崩して立ち上がり、歩み寄る。


 見下ろすと、そこには眉をひそめながら唸っている柚子川の姿があった。

 床に跪き、彼女の様子を伺う。

 やがて彼女は、ゆっくりと目を開き始めた。


「……起きたか?」


 微笑みかけながら俺は問いかける。

 すると、彼女のおぼつかない瞳が俺を捉えた。


「ひい……らぎ、くん?」

「俺が分かるか?」

「柊君、ですよね。分かります。……というか、ここは――」

「俺の部屋だ。厳密に言えば寝室だな」

「柊君の……部屋?」


 この調子じゃ、さっきのことはきっと覚えていないのだろう。

 あれだけ取り乱していたのだ。

 覚えていなくとも無理はない。


「具合は悪くないか? 気分が悪かったり、どこか苦しかったりしないか?」

「それは……特にないです」

「そうか」


 柚子川の返答を聞いて、俺はほっと息をついた。

 とりあえずは一安心、でいいのか?


「あの……私、どうしてこんなところに」

「やっぱり、覚えていないんだな」

「覚えていないって?」

「……皿を割ったときのこと」

「っ――!」


 言うのを一瞬だけ躊躇った。

 言わなくてもいいのではないのかと思った。

 でも、言わなければ何も進まないと感じた。

 柚子川も知っておいた方がいいと、そう感じた。


「あっ……?」


 柚子川の瞳が揺れて崩れる前に、俺は布団の中に潜っている彼女の小さな手を取る。

 か弱く華奢な柚子川の手はいつも以上に脆く感じ、少しでも力を入れたら壊れてしまいそうな気がした。


「大丈夫、俺は怒っちゃいない。だから、お前が気に病む必要なんてこれっぽっちもないんだ」

「……どうして」


 そこで、柚子川は細かく唇を震わせながら言葉を紡いだ。


「どうして、怒らないんですか? 私、悪い子なのに……」


 悪い子。

 その一言が、心の中で引っかかる。


「お皿を割ってしまった悪い子なのに……どうして柊君は怒らないんですか?」


 不安げに雫を溜める瞳が、俺に問いかけてくる。


 そんなの、答えは決まっていた。


「お前は皿をわざと割ったわけじゃないんだろ?」

「それは……はい。わざと割るわけありません」

「なら、怒る必要なんかない。お前は『悪い子』じゃない。皿を割ってしまったことを一生懸命謝ろうとしてくれた『良い子』だよ」

「良い、子……? 私が……?」


 声が、震え始める。

 瞳から涙が溢れて、頬を一筋、二筋と伝っていく。


「あぁ。お前は良い子だ」

「あっ……あぁっ……」


 俺に握られていない右の手で顔を覆い、そのまま柚子川は嗚咽を零し始めた。

 俺はもう片方の手も彼女の手に添えると、彼女から視線を逸らす。


 どうやら『悪い子』『良い子』が柚子川にとってキーワードになっているようだ。

 なぜ彼女がここまで悪い子や良い子という言葉にこだわりを持っているのだろうか。


 過去に何かあったのだろうか。

 それとも……。


 怯えた声で言葉を紡いでいた先の柚子川の姿は、さながら親に怒鳴りつけられている子供のようだった。






「――はしたないところを見せてしまい、すみません」


 上半身を起こした柚子川は、恥じらうように頬を赤らめていた。


「何の話だ?」


 あえて、恍けたような声と表情で言う。


「えっ?」

「俺は別に何も見てないし、何も聞いてない。だから、お前が何のことを言ってるのかさっぱり分からん。俺が知ってるのは、お前が皿を割ったことくらいだ」

「……ありがとうございます」

「だから、何のことか分からんって」


 素直に感謝されると、今度はこっちが照れてしまう。

 羞恥から目を逸らすように俺はそっぽを向いた。


「……私がお皿を割ってしまったとき、私はどうなっていましたか?」

「……『取り乱していた』って表し方が合っているかどうかは分からないが、何かに狼狽えるような、パニックに陥っているような素振りを見せていたと思う」

「そう、ですか……」


 きっと、心当たりがあるのだろう。

 儚げに瞳を伏せる様子がそれを物語っている。


「……腹、減ってないか?」


 だから俺は、話題を逸らすことにした。

 この重苦しい雰囲気は、彼女にとって負担になるような気がしたから。


「少し、空きました。というか、今何時ですか?」

「今は……十一時過ぎだな」


 急かすように問いかけてくる柚子川に、俺は壁にかけられている時計に視線を移動させて時間を確認する。

 やけに眠いと思ったら、もうこんな時間だったんだな。

 柚子川の横で目を覚ますのを待っているうちに、大分時間が経ってしまったらしい。


「すみません、料理……」

「気にしないでいい」

「でも、私は作りたいです。今からでも」

「あんまり無理をするな。今はゆっくり休んでおけ」

「お願いします。作らせてください」


 身を乗り出して、懇願するように俺を見つめてくる。

 その様子は、どこか焦っているようにも見えた。


 息をつくと、彼女に手を差し出す。


「立てるか?」


 無理をしているのかもしれないが、彼女がやりたいというなら、俺はその意思を尊重したかった。

 後は、俺の予感が上手く外れてくれと願うだけ。


「はい」


 柚子川が俺の手を取り、ゆっくりと体をベッドの端に持ってくる。

 かかっていた布団を退かして、足を床につけ、そっと立ち上がる。

 立っている姿が安定して、俺が彼女の手を離した……その時だ。


「あっ」


 足に力が入らなくなったのか、彼女は素っ頓狂な声を上げていきなり崩れ落ちた。

 俺は重力に従って落ちていく彼女をなんとか抱いて、そのまま床に正座させる。


 予感が、良くも悪くも当たってしまったらしい。


 彼女から離れ、見据え、そして一言。


「だから言ったろ」

「……すみません」


 申し訳なさからなのか、それとも悔しさからなのか視線を逸らす柚子川に苦笑すると、俺はもう一度ベッドの上に戻ろうとする彼女を手伝うのだった。

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