12話 氷の姫の異変

「――どうしたっ?」


 急な出来事に声が少し跳ねるも、俺はソファから立ち上がりキッチンに向かう。

 そこには固まって動かない柚子川と、その前で粉々になっている皿があった。


 きっと、柚子川が手を滑らせたせいで皿が落ちたのだろう。

 当の本人は、顔を青ざめながら割れた皿をじっと見つめていた。


「……大丈夫か?」


 近づいて声をかけると、まるで止まった時が動き出したかのように瞬きを繰り返し、目を泳がせ始めた。


「……あっ」


 そうして俺と目が合うと、柚子川はいきなりしゃがみ込んだ。


「す、すみません。今すぐ片付けますので」


 割れた皿に伸ばした柚子川の手を、俺は床に膝をついてすかさず掴み取る。


「えっ……?」

「危ないから触るな。大丈夫か? 怪我してないか?」


 柚子川の顔を伺いながら俺が問い質すと、彼女は途端に呼吸を荒くした。


「あっ……えっ……?」


 言葉にならない声を上げて、体を震わせている。

 俺はそこで、ようやく彼女の異変に気付いた。


「大丈夫か? おい、柚子川!」


 声とともに彼女の手を振りながら、俺は必死に呼びかけた。

 だが、彼女が反応する様子はなかった。

 それどころか――。


「ぐっ……」


 俺は倒れかけた彼女の体を支える。

 背中を俺の太ももで支え、抱き抱えるような状態になっても、彼女の様子が変わることはなかった。


「あっ……あぁっ……」


 瞳を震わせ、目尻から一筋の涙が伝う。

 彼女の声が、次第に落ち着きをなくしていく。


 ……どうしたらいい。

 俺はどう動けばいい。

 考えろ。

 今は、彼女がいち早く落ち着けるように動くんだ。


「……嫌かもしれないが、ちょっと我慢してろよ」


 聞こえているのか分からないが、俺は一応断っておく。

 彼女の背中と膝の裏に腕を滑らせると、そのまま彼女を持ち上げた。


「あっ……えっ……?」


 突然の抱き上げに戸惑うような声を上げたが、彼女が抵抗する様子はない。

 というよりも、この状態では嫌でも抵抗すら出来ない、か。


 とりあえず、俺は彼女を自分のベッドに運ぶ。

 彼女を寝かせ、その上から顔が出る程度に布団被せる。


「おい。大丈夫か?」


 顔を覗き込みながら呼びかけても、彼女とは目が合わない。

 天井を見つめたまま瞳を揺らして、ただ声を上げるだけだった。


 次はどうしたらいいのか、激しくなる動悸を感じながら思考を巡らせていると、彼女の口が動いた。


「ごめん……なさい……」

「ん? どうした?」


 小さく掠れた声だったため上手く聞き取れず、俺は彼女に問い返す。

 すると彼女は……。


「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 顔を苦しそうに歪ませながら、ただその一言をずっと繰り返し始めた。


「何だ……何が起こってる」


 予想もしなかったことの連続で、俺の神経は確実に擦り減っていた。

 精神が不安定になって、俺まで泣きそうになってしまう。


 だが、こんなところで立ち止まっているわけにもいかない。

 彼女は今、俺よりも苦しんでいるんだ。


 余計なことは考えるな。

 彼女がどうしたら落ち着けるかだけを考えろ。


 脳に、必死に鞭を入れる。


 その瞬間、俺は彼女のことを抱き締めていた。


「大丈夫……お前が謝ることなんて何もない。たかが皿を割っただけだ。あんなの、いくらでも替えが利く。だから、もう謝らなくて大丈夫だ」


 嫌がるかもしれない。

 でも、彼女が落ち着くためにはこれしかないと俺は思った。


 汗ばんだ彼女の体を苦しくない程度に抱き締め、彼女の頭をゆっくりと撫で、優しく言葉をかける。


 大丈夫……大丈夫……大丈夫と、泣く子供を母親があやすように。


「あぁ……あ……」


 何分経っただろうか。

 彼女の声や震えは次第に小さくなっていき、やがて静かになった。


「……柚子川?」


 柚子川から離れて視線をやると、彼女はすぅすぅ、とまるで何事もなかったかのように静かに寝始めた。


「……どうしたんだよ」


 涙で乾いた彼女の頬に親指を滑らせるように手を当てながら、俺は彼女に届かないであろう言葉をかける。


 とりあえず、割れた皿を片付けよう。

 あれを彼女が起きたときに見たら、また良くないことが起こるかもしれない。


 俺は彼女が起きないようにそっとベッドを離れ、棚から取り出したゴム手袋をはめるのだった。

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