6話 氷の姫の逆襲

 俺と柚子川が偽りの関係を持ってからというもの、特に目立った変化はなかった。

 周りに恋人という関係を見せるため朝一緒に学校へ行ったり、昼休みに屋上で昼食を共にしたりするようにはなったが、それは予定内の変化だった。


 予定外の変化を強いて挙げるなら……俺が少し冷たくなったくらいだろう。


 柚子川は、好きでもない奴に好意を持たれるのは鬱陶しいと言っていた。

 じゃあ、素っ気ない態度をとる位があいつにとって丁度いいのではないのか。

 そう考えた俺は、二人だけの空間が出来たときになるべく素っ気なく接するようにしていた。


 話しかけなかったり、少しだけ距離を開けたり、目を合わせなかったり。


 柚子川の反応は変わらなかったものの、彼女もああ言っていたしこのままでいいだろうと考えた俺は、その態度を続けていた。


 そうして彼女に変化が現れ始めたのは、それから一週間位経った日のことだ――。






「――おはようございます」

「おはよう」


 扉の先で、柚子川が制服姿で立っている。

 俺は靴を履きながらそれを出迎えて、彼女の挨拶に応えた。


「行くか」

「はい」


 お互いに無表情のままに端的な言葉を交わしマンションを出た。


 やがて学園生が見えてくると、俺たちは手を繋ぎ始める。

 これも周りに恋人の関係をアピールするためだ。

 そして仲の良さを見せつけるために、そこから他愛もない会話を繰り広げる……予定だった。

 それが出来なかったのは、確実に柚子川のせいだろう。


「……お、おい。何もそこまでしなくても、手だけ繋いでれば恋人に見えるんじゃないか?」


 小声で柚子川に尋ねる。


「手を繋ぐだけでも恋人に見えるのでしょうが、こうした方が仲睦まじい恋人に見えます」

「っ……そうか。俺らが演じるのは、仲睦まじい恋人」

「そうです。だから、こっちの方がいいに決まってます」


 そう言いながら、柚子川は俺の腕を抱き締める力を強める。


 ……いや、だったらなんで昨日までそれをしなかったんだって話になるだろ。

 確かに彼氏の腕を彼女が抱いていたら、さぞかし仲睦まじい恋人に見えるだろう。

 でも、ここまでやるとは聞いていないぞ。


 今も柚子川の柔らかいものが腕に当たって、ほのかに甘い香りが鼻腔を満たす。

 心臓が異常な程に鼓動して、いつまで平然とした態度を取れるかどうか分からない。

 他愛もない会話など出来たものじゃなかった。


 どうして柚子川はいきなりこんなことをしてきたんだ?


「な、なぁ。もう離れてほしいんだが」

「どうしてですか? 仲睦まじい恋人を演じるには、必要不可欠です」

「それは、そうなんだが……」


 ダメだ、言っても柚子川は聞かない。

 だがこのままでいたら俺が正気でいられなくなってしまう。

 一体どうすれば……。


 ふと柚子川に視線を落とすと、彼女の頬と耳が赤く染まっているのが見えた。

 桜色の唇に力が入っていて、目も泳いでいる。


 ……恥ずかしいんだったらやめればいいのに。

 声に変化がなかったから気付かなかったが、彼女も彼女でこの状況に緊張しているようだ。


 同じく緊張している奴を見ると、どうやら緊張が和らぐらしい。

 彼女の顔を見てからというもの、俺の心臓の鼓動はさっきまでが嘘だったかのように落ち着いていた。


 気持ちに余裕が出来たからか、柚子川の恥ずかしそうにしながらも俺の腕をぎゅっとして離さないところに小動物に抱くような可愛らしさを感じてしまって、俺は思わず苦笑してしまうのだった。



         ◆



「――はい、口を開けてください」

「……俺、自分で食べられるんだが」

「たまにはいいじゃないですか。ほら、あーん」


 俺の弁当箱をひったくった柚子川は、俺の箸で掴んだ玉子焼きを差し出してくる。


 ここで拒否をしてもいいのだが、頬を淡く染めて顔を強張らせながらも俺に食べさせようとしてくる彼女を見ると、その気も失せてくる。

 俺も、そこまで素っ気なくは出来なかった。


「……あ」


 少々照れ臭さを感じながら口を開くと、そこに玉子焼きが入ってくる。


「……美味しいですか?」

「んー、まあまあってところだな」

「そうなんですか?」

「ある程度料理は出来るが、人に振る舞える程上手くは作れないからな。まぁ、いつも通りだ」

「……そしたら、次は私のも食べてみますか?」


 柚子川はそう言いながら俺の弁当箱をベンチに置き、代わりに自分の弁当箱を手に取った。

 その中に入っていた俺のよりも明らかに見た目のいい玉子焼きを箸で掴んで、再度俺に差し出してくる。

 形が綺麗に整っていて鮮やかな黄色をしているそれは、不思議と食欲を掻き立てた。


「……いいのか?」

「いいですよ」


 何が「そしたら」だったのかはよく分からないが、柚子川がそう言うのだったら有り難く頂くことにしよう。


「はい、あーん」

「あ……」


 柚子川に促されて口を開くと、そこに今度は柚子川の作った玉子焼きが入ってきた。


「ん……!」


 俺は思わず目を見開いてしまう。


 柚子川の玉子焼きは俺の玉子焼きと違って、食感が物凄く良かった。

 ふわふわとしていて、それは歯を使わなくても咀嚼出来るくらいだ。

 噛めば噛むほど卵の甘い味が溢れ出て来て、中に入っている細かく刻まれた人参やわかめもいいアクセントになっている。

弁当の玉子焼きでこのクオリティを出せるのか、と俺は未知との遭遇に戸惑いを隠せなかった。


 感想を言い惜しむほどに玉子焼きをしっかりと味わい、飲み込む。


「その……どうですか?」


 恐る恐るといった感じで味の是非を聞いてきた柚子川に、俺は頬を緩ませながら言った。


「めっちゃ上手い。俺のとは比べ物にならないくらいだ。お前って料理上手なんだな」


 頭はいいし、運動神経もいい。

 性格も噂より悪くないのが最近分かってきたし、おまけに料理まで出来る。

 まさに完璧美少女だな。

 玉子焼きも出来立てだったらもっと上手いのだろう。


「えっ……あっ、はい。料理は好きなので、えと……色々、勉強はしました……」


 俺が持った感想を素直に告げると、途端に柚子川は茹でダコのように顔を染め上げる。

 言葉の流れも辿々しく、完全に浮ついている様子だ。


「大丈夫か? 顔が真っ赤だぞ?」


 ここまで顔を真っ赤にするところは見たことがなかったので思わず苦笑しながら彼女の顔を覗き込めば、彼女は顔どころか耳まで真っ赤にして俺から視線を外した。


「ちょ……ちょっとだけ、あっち向いていてください」

「分かった。分かったから押さないでくれ」


 素早く弁当箱と箸を置いた柚子川に両手で頬を押されるがまま、俺は彼女と真逆の方向に顔を向けた。


 きっと、褒められることに慣れていないのだろう。

 顔を真っ赤に染め上げた柚子川の姿は……不覚にも可愛いと思ってしまった。


 俺まで浮ついてしまっているらしい。

 可愛いと思っていたら駄目なんだよな。


 俺は「あくまで素っ気なく、素っ気なく……」と、柚子川に声をかけられるまで自分に言い聞かせるのだった。

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