4.夢とうつつの果てに

 連日豪雨になり、船は出航していなかった。この宿屋がまるで水の檻のように、俺とアリシアを閉じ込めた。


 パシリアはあの日以来、一度も会ったことがなかった。どこへ行ったのか。


「――雨のせいかしら、ごめんね」


 アリシアは熱のせいで倒れた。高熱じゃないけど、弱々しくになり、声も細くなる。窓の外を見て、快晴の空を夢見るみたいに目を細める。


「いいんだ」

「セリノはどこかへ逃げて、私はいいから」

「アリシアをここに置くわけにはいかない」

「私は大丈夫よ」

「顔が真っ青のようなやつが大丈夫なはずがないだろ」


 寝床に伏せた彼女の手を握る。真っ白で冷たい手だ。熱が出しているのに、おかしいなくらい寒いのだ。

 アリシアをここに置いて、俺だけ逃げ出すわけにはいかない。彼女は俺の婚約者だ。大事な婚約者を守らない男なんていない。


「セリノは火神の試練に出ないのかしら」

「興味ないよ」

「火神の試練にクリアしたら、セリノも胸を張ってあの家で生けていけるわ」

「もういいんじゃないか」


 力に未練はないし、いっそ今のまま逃げ続けて、遠くまで逃げればいいのだ。世界の果てまで。


「あんな連中よりも、セリノのほうがいいわ」


 アリシアらしくない。いつもはそんな言い方なんてしないのに。やはり疲れたのだろう。

 俺の話を聞いて、アリシアは手を握り返す。


「もう休んだほうがいい」

「セリノが望めば、どんなことだってできるのに」

「もう力を使うつもりはないよ」

「どうして? 力のことが嫌いなのかしら」


 まるで見捨てられた子猫のように、アリシアは弱々しいそうに俺を見つめた。

 その視線に耐えきれずに、彼女の手を解き、窓の外を見た。大雨で、まわりはひたすら暗い。


「もう誰も傷つきたくないんだ。今のままでいい」

「――情けないわね」

「パシリア」と、思わずその名前を口にした。


 ハッとして、慌てて振り返る。すると、アリシアが露骨に俺の目を避けた。

 どういうことだ。

 重苦しい雰囲気の中、逃げたい一心で、部屋を出た。薬を探しに行くと言い残して、俺は部屋から逃げたのだ。


 なんていうことだ。

 名前を間違えるなんて。

 彼女は俺の婚約者で、実在する人物だ。バシリアはただ俺の妄想だ。混ぜるなんて。


 嫌な夢を見た気がした。

 傘も持ち忘れて、雨に打たれながら、薬屋を探した。アリシアの症状を説明すると、店主がそんな症状見たことがないと悩みながら、なんとか薬を手に入れた。


 部屋の前にいると足が重くなる。

 まるで浮気したような、心もとない感じだ。

 とりあえず薬を渡して、アリシアの病気を治さないと。謝れば、アリシアもきっと理解してくれるはずだ。


 深呼吸して、扉を叩く。何度も。返事がなかった。もう寝たのか。

 仕方なくこっそりと部屋に入る。


 ――もぬけの殻だった。


 アリシアの姿がない。もしかして怒ってどこかに行ったのか。体調が悪いのに。

 即座に部屋を出て、宿屋の主人に聞いた。


「まだまだご冗談を。お客さんはお一人様です、連れなんて見たことがありませんよ」


 と言って、不思議そうに俺を見る。

 そんなバカな。ふざけているのか。

 アリシアはきっとどこかにいるはずだ。


 雨の中で、通行人は少ない。人を見てすぐにアリシアのことを尋ねた。が、誰も彼女のことを見ていない。

 もしかして彼女こそ空想の存在なのか。そういう考えが脳裏によぎるが、すぐさまに消した。

 彼女は俺の婚約者だ。空想であるはずはない!


 いや、そもそも誰から聞いたのだ。婚約者なんて。靄がかかって、思い出せない。

 なぜだ。なぜだ。

 なのに、パシリアとの出会いはよく覚えている。噴水の前に――いや、それはアリシアだ。くそ、俺はいったいどうなっているんだ。


 あっちこっちに走っても彼女の姿がない。

 アリシア。もしかしてエリヒオに捕まったのか。


 すると、巷の奥で、彼女の後ろ姿が見えた。


「アリシア! ここにいたのか」


 よかった、と胸をなでおろした。彼女はここにいる、俺の妄想じゃない。


「セリノ」

「熱があるのに、勝手に出歩くのはよくないぞ」


 振り返る彼女の姿を見て。傘を差し出す手を宙に止まった。

 あまりにもパシリアに似ているから。

 雨に打たれて、アリシアの黒髪が金色になり、瞳も、雨が入り込むところだけは深海のように青く深く。バシリアのように。


「セリノは火神の力が嫌いなの? 私のことが嫌い?」

「な、なにを言っている、アリシア」

「私は、パシリアよ」と、悲しそうな目で。


「違う、あなたはアリシアだ。俺の婚約者のアリシアだ!」

「セリノがエリヒオを倒して、火神の証を手に入れるはずだもの」

「当主になるつもりがないよ、アリシア」


 私はパシリアよ、と彼女はもう一度言った。厳しい目で俺を見た。


「ならどうしてあの家に残ったの」

「家族をみんな殺したかったじゃなかったの? 無能じゃないって証明したかったじゃないの?」

「皆殺しちゃえばいいのよ。セリノを苦しませる人は」


 違うっていうのは嘘になる。

 俺のほうがエリヒオに勝ると、一番強いのが俺だと証明したかった。家族全員が憎いから、クズだから、全部死んでほしいと思ったこともあった。

 彼らさえいなければ、って。


 でも、やはり違う。違うのだ。

 あの家に残り続けるのはそんな連中を殺すためじゃない。


「あの家から逃げると、アリシアが婚約者じゃなくなる。それが嫌なんだ」


 アリシアと会う理由はひとつだけだ。

 俺の婚約者だからだ。彼女は決まってあの庭園で俺を待つ。どんなときでも微笑みをかけてくれた。


 あの家を離れたら、もう婚約者じゃなくなる。それどころか、ただの赤の他人だ。

 会うことすらできない。


「情けない、情けないわね、セリノ」


 彼女の顔が歪む。

 頬に流れるものは雨なのか、涙なのか。いや、雨のわけがない。いつのまにか、雨は止んだから。


「そうだ、かっこいいところ見せたことなんてないよ」

「どうしてそんな無能の男に惚れたのか」

 と、彼女は苦笑した。


 空を仰ぐと、太陽が雲から姿を現した。太陽とともに、彼女は炎に纏って、まさしく火神そのものだ。


「試練はどうでもいい。アリシア、どこかに行こう」


 最初こそ悲しそうな目で俺を見つめるが、すぐに薄笑いに変わる。嗜虐的な目をしながら。


「残念ながら試練はもう取り消すことができないわ、契約なんだから」


 彼女が手を振ると、まわりが急に火の祭壇になる。港なんて最初からいなかったかのように。

 石の祭壇は炎に包まれて、アリシアは祭壇の奥の玉座に座る。金色の髪がキラキラと輝く。


「――火の神、ベドジフ様よ!」


 遠くから突然エリヒオの声が響く。嬉々としながら、彼はアリシアに話をかけた。


「どうか俺に証をくれ、契りの証を!」

「エリヒオ、なにか勘違いしているのね」


 アリシアの言葉を聞いて、エリヒオは笑顔を収めた。


「証を手に入れるのは勝者のみ。戦って、勝ちなさい」


 エリヒオは彼女の視線につられて、俺を見た。俺を見た途端、悔しそうに歯を食いしばる。


「セリノ、やっぱり貴様だな! ベドジフ様をたぶらかすものは」

「試練には興味がない」

「貴様、この期に及んでなにを言う!」

「――でも、彼女を奪うなら話は別だ」


 彼女は俺の婚約者だ。

 誰にも奪われたくない。エリヒオならなおさらだ。この家に居続ける理由を、大事な人を、簡単に奪われてたまるものか。

 力を使うときは、いつだって彼女のためだ。彼女を守るためなら、俺はなんだってするのだ。


 なら、今回も同じだ。

 エリヒオには負けない。負けてたまるものか。


「いいわ。いいわね。もっと荒々しく、燃え上がるがいい!」


 玉座から喜びに満ちた声が響く。


「――今度こそ、試練を始めようではないか」

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