3.化け物の逃避行

 なぜか、最近はよく昔の夢を見る。


 小さい頃はよくメイドから話を聞いた。火神様は先祖様に惚れて、力を与えたと。

 いや、その話はパシリアから聞いた。空想の存在のくせに、俺の知らない話をよく知っている。


「火神はきっともう飽き飽きしたのね」

「どうでもいい、力が使えばいいんだ。この家の人にとっては」

「情けない人ばかりだもの。先祖と違って」

「じゃなぜ火神様はまた祭壇にいるのさ」


 聞いてそばからバカバカしいと思った。空想の存在に聞いてもわかるわけがない。俺だって答えを知らないのだから。


「セリノの先祖と結んだのは強力の契り。勝手に出歩くと反動が火神様を襲うのよ」

「なんてパシリアはそれを知っているんだ」

「なによ。セリノが話を聞き流すばかりだからじゃない。私の記憶力のほうがいいのよ、えへん」

「わかった、わかった」

「信じていない目ね。私はよく覚えているのよ、ほら、最初にアリシアと会ったのは噴水の前で」

「これくらい俺だって覚えているよ」


 炎の力のことを隠して、無能だと嘲笑われたときのこと。十歳のときの話だ。

 ――その時はまだ名前が知らない。


 家族から逃げて、庭園の噴水近くまで行ったら、見知らぬ少女の姿があった。

 まるで水が見たことがないように、じっと噴水を見つめた。俺の視線に気がつくと、彼女は恥ずかしいそうに説明した。水は冷たい、だと。


 夏なのに。なぜそんなことを言うのか。

 『なんだ、慣れればいい』と俺は言って、手を水の中に。水は涼しくて気持ちいい。


 彼女は俺を見た。黒髪は風に揺らしながら、瑠璃色の瞳が輝く。

 なにかおかしいことでもしたのか。すぐに手を引っ込めたのに、彼女は相変わらずに俺を見た。


 すると、彼女が急になにか気づいたように両手で顔を覆いながらどこかへ走り去った。彼女が俺の婚約者だと知ったのは数日後だ。


「――これだけじゃないもの、ほかにもあるよ」


 パシリアは得意げに俺に話した。

 アリシアと一緒に森を探検したことや、不味そうなデザートを食べて泣きそうなことや、水が嫌いなことや、いろいろと。


「アリシアのことばかりじゃないか」

「セリノがアリシアばかり見ていたからよ」


 そんなに見ていたのか。気づかないうちに。

 いや、そもそもこの家はクズばかりだし。思い出と呼べるのは彼女との話だけだ。

 ほかは全部忘れたほうがいいだろう。


 パシリアとの出会いもよく覚えているけど。

 最初は祭壇の近くにいて、ひとり炎で遊んでいた。この家の子かなと思ったのに、俺の空想とは思いもよらなかった。


「遅いな、アリシアは」

「ほらほら、アリシアのことばかり」


 パシリアが妙に嬉しそうにうきうきした。あいつの話じゃないのに。


「そんなことじゃない――まぁ、探しにいくか」


 ほらほら、と後ろで楽しそうな声をしたパシリアを無視して、アリシアを探しに行った。

 すると、彼女が大勢の人に絡まれる光景を見た。屋敷とは近いが、ちょうど樹林に遮られて、護衛の手はそこまで回らないようだ。


「離して」


 アリシアの声が聞こえる。ガラの悪い相手は薄笑いを浮かべ、さらにその腕をきつく掴まった。


「お嬢さん、こんなところでウロウロすると危ないぜ」

「どこへいこうのかな、べっぴんさんよぉ」

「あなたたちには関係ないわ」

「彼女を離せ!」


 急いで駆けつける。全身の力を振り絞って、男からアリシアを引き離した。


「なんだ、ガキかよ」

「なにをする気だ!」

「坊っちゃんには関係ない話だな」

「俺は誰なのかわかって言っているのか」

「ああ、もちろんさ。おまえ、あの火神の家族の出来損ないだろ」


 十数人の男たちは俺を見て大笑いした。俺の噂は街の外まで届いたのか。


 くそが。炎がちょっと青かっただけで、何が悪い。俺だって、エリヒオみたいになれるはずなんだ。思わず拳を握る。


「英雄気取りか、小僧!」

「そうだ、そうだ、早く家に帰れよ」

「セリノ、もういいわ、屋敷に戻りましょう」


 と、後ろにいるアリシアは俺をなだめるように言った。


「おっと、逃げるつもりか。ダメだな、上物を逃す趣味がないぜ」


 男の言葉とともに、俺とアリシアは男たちに囲まれた。気持ち悪い笑い声とともに。

 畜生、逃げ道が塞がれた。俺はともかく、アリシアはこの包囲から逃げられると思えない。


「お嬢さんは頂いたぜ」


 すると、男たちは瞬く間に彼女を捕まった。俺も何人かに束縛されて、彼女が捕まるところを見ることしかできなかった。


「セリノ! 離しなさい、あなたたち」

「彼女を、離せ!」


 男の腕から逃れようと何度ももがくが、岩の下敷きになった感じで、身動きが取れない。


「坊っちゃんは坊っちゃんらしく家に帰れ、鼻水を垂れながらな!」と、アリシアを掴む男がゲラゲラと笑う。彼女の目に涙がたたえる。


「おのれ!」

「おうおう、泣き叫ぶがいいさ、いい気味だ!」


 貴族様の鼻を折るのはいい気分だ、と男たちは笑う。

 おのれ。おのれ。おのれ。

 よくも、よくもアリシアをこんな目に遭わせたな。

 やつらを倒す。倒すのだ。

 頭が真っ白になる。いや、真っ赤になるのだ。炎のように。


「熱い、熱い――!」


 炎が現れ、後ろから男の悲鳴がしたが、どうでもいい。

 男たちの束縛を解け、アリシアのところまで駆ける。


 俺の拳から出る炎はまるで蛇のように精確に目標を襲う。襲われた男たちが慌てて地面で転がり、炎を消そうとした。

 急いでアリシアの手を引いて、屋敷の方向へ目指す。


「追え、はやく追え――」


 追っ手はしつこく。

 樹林から屋敷まで戻る道が急に長くなる気がした。俺も、アリシアも消耗が激しく、速度が落ちる一方だった。


「捕まえたぜ――!」


 男の汚らわしい手アリシアに伸ばす。咄嗟に、頭の中の糸が切れたような気がした。


 アリシアに、触れるな。


 俺の思いとともに、炎が地面から飛び出す。火山のように。青い炎がだんだん大きくなり、一直線に走る。

 勾配で転がる大石のように、止まらぬ勢いで。

 青い炎か駆ける。

 凄まじい力でまわりを蹂躙した。

 大きいな爆発音が俺を現実に戻す。


「熱い、熱い、燃える、うおおおお――!」


 熱い、助けてくれ、と何度も何度も苦しむ声が耳に届く。苦しみもがく様子が鮮明に目に刻む。


「炎が、炎が――!」


 まるで炎の中で踊る人形のように。

 悲惨な叫び声で、生きたまま、溶け落ちていく。血も肉も声も、炎の中じゃ何の意味を成さない。


 青い炎が延々とまわりのものを巻き込む。

 樹林もあっという間に燃えた。


 なんということだ。

 ちょっと懲らしめようと思っただけなのに。なんということを。

 隣のアリシアは目を見開き、怯えるようにも見えた。くそ、俺が。俺が。俺のせいだ。


 ――俺は化け物だ。青い炎を操る化け物だ。


 この力を二度と使っちゃいけない。

 彼女を、炎の世界に巻き込むわけにはいかないのだ。




 ――昔の夢を見た気がした。


 目が覚めると、暗闇の中にいた。前が全然見えなくて、また夢を見ていたような気分になる。


「どうして殺さなかったの、彼らを」


 どこかでバシリアの声がした。金髪の女の子で、俺の友達で、悪魔そのものだ。


「力で彼らをねじ伏せる――セリノが、そう望んでいるのでしょ」


 暗闇の中の空気はジメジメしていた。その中で佇む彼女の姿も鬱々たる感じに見える。


「らしくないんじゃないか」


 いつもは嬉しそうなのに。

 思わず彼女に手を伸ばした。まるで泡に触れたように、暗闇は爆ぜた。


「――セリノを殺そうだなんて。嫌な人たちなのよ」


 アリシアが俺に話しかけた。

 馬車の中で、湿った空気が延々と窓から入り込む。知らずのうちに眠ったようだ。アリシアの肩にもたれながら。

 慌ててアリシアから離れる。


「アリシアがそう言うな。いつもあんな感じなんだろ、あいつらは」


 隣のアリシアは俺を見て小首を傾げる。


「なんだ」

「私は、なにも言っていないわよ?」

「そ、そうか、寝ぼけていたかもな」


 家から逃げて、一番近い港町に行く最中だ。

 彼らは今血眼になって俺を探しているのだろう。俺を殺せば、火神の証を手に入れると思ってるようだ。バカバカしい。


 アリシアは噂を聞いて、港町に逃げようと相談した。彼女を巻き込みたくないけど、その真摯な眼差しを見ると断れない。


「港町にたどり着いたら、アリシアはもう帰ってくれ」

「私も一緒に行くわ」

「アリシアは水が嫌いんじゃないか」


 俺の言葉を聞いてハッとしたアリシアだが、すぐにもとの表情に戻った。


「そんなことを言っている場合じゃないわ、セリノ」


 彼女がそう言っているうちに、空は暗くなり、雨が降りはじめる。


「運がなさそうだな」

「雨をすこし当てても大丈夫だわ」と唇をきゅっと結ぶ。


 馬車に降りたときにはすでに大雨になった。慌てて宿屋まで走ったけど、ふたりもびしょ濡れになる。

 宿屋の主人は訝しむ顔で俺を見た。ふたつの部屋を用意してほしいのに、ひとつの部屋しかないと言い張って、ふたりでひとつの部屋で暮らすハメになった。


「仕方ない、俺は床で寝るよ」

「そんなはずじゃなかったわ。雨のせいかしら」


 アリシアはタオルで身を拭きながら、ため息まじりに雨の空を見た。


「やっぱりアリシアは家に戻るほうがいい」

「そんなに私といるのが嫌いなの?」

「いや、違う。俺はただ」


 悲しそうな目に見られると、言葉が詰まる。


 小さい頃からずっと一緒にいた。嫌いなわけがない。でも、火神の試練になると、すべてがややこしくなる。

 家族全員が俺を探しているに違いない。アリシアはここにいると、絶対に巻き込まれるのだ。


「俺はひとりでも大丈夫だ。試練が終わったら会いにいくよ」

「セリノは試練に参加する気なの?」

「火神ベドジフ様は気性が荒い男のほうが好みだ、先祖のようにな。俺じゃ無理だ」


 人を傷つけるのを恐れて、臆病になって、無能の役割を甘受するような男が、試練をクリアできるわけがない。参加しなくても、よくわかる。


 試練をクリアできるのは兄のエリヒオだ。俺じゃない。


「誰がそんな事を言ったのかしら」


 アリシアがタオルをくちゃくちゃに放り投げる。不満げの顔で話した、こっちに寄って。

 なにか気でも触ったのか。


「諦めちゃダメ。火神様が好きなのはあなたかもしれないよ?」

「そんなわけが」

「セリノのご先祖様だって。もともとは冴えない男で、颯爽に火神様を助けたからこそ、火神様の心を射抜いたわ」


「詳しいな」

「素敵な話なんだから」と彼女は微笑む。

「やっぱり買い出しに行ってくる」

「もう、話をそらさないで」

「腹減ったよ。アリシアは雨が嫌いだろ、ここにいて」


 窓の外の雨を見ると、彼女は仕方なく頷いた。宿屋から傘を拝借して、街に出た。


「ねえねえ、どうして試練に行かないの」


 食べ物をたくさん買って、宿屋まで戻る途中。急にバシリアの声が聞こえた。しかし、姿が見えない。


「またそれか、アリシア」

「――ひどい、私はパシリアよ」


 雨の中に彼女の不快な声が響く。相変わらず誰も聞こえていない様子で、通行人は誰も気づかずに通り過ぎていく。


「当主になるつもりはないし、今のままでいいよ」

「じゃなんて無能になってまであそこに残るの?」


 当主になりたくないのなら、どうして残ったのか。どうしてなのだろう。考えたことがなかった。

 家族に啖呵を切る気か。

 無能じゃないと証明したいのか。

 外を出るのか怖いか、心配か、不安なのか。

 どれも違うようだ。


「わからない」


 何度も考えたが、答えは出てこなかった。


「情けないわね」

「かっこいいところ見せたことがないよな。いつも情けないさ」

「かっこいいところもあるんじゃない。悪い連中から私を助けてくれたのよ」

「いや、それは、アリシアのことだろ」

「そ、そうよ、アリシアの――」


 突然、パシリアの声が雨の中に消えた。


「パシリア?」


 どう呼びかけても返事はなかった。最初からいなかったように。

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