2.無能と婚約者

 そんな無能な俺でも婚約者がいる。アリシアだ。慎ましやかな彼女と似合いそうな、綺麗な名前だ。


 いつも約束の時間で同じ場所で茶会を開いた。

 庭園の端っこ、誰も見られない場所で。


 彼女はすでに俺を待っていた。その黒髪と瑠璃色の瞳を見ると生きる実感がした。足取りも軽やかになる。


「待たせた」


「いえ、今来たばかりだわ」と、彼女は微笑む。


 ティーカップを見てすぐにわかる。今来たって言っているのに、紅茶は半分くらい減っていた。


「今日は仕事が多いから、ごめん」


「セリノは兄の分の仕事までしないといけないから、仕方ないわ」


 そうだ。ふたり分の仕事だ。

 おまけに父も義母も手伝う気がなく、俺が手探りでやらないといけない。


「セリノのお兄様は火神の試練をくぐれるのかしら」


「あいつが無理でも父はなんとかするよ」


 俺が苦笑すると、アリシアは悲しそうに目を垂れる。


「セリノだって凄まじい力が持っているのに、どうして試練に参加できないのかしら」


 火神の試練は苛烈かれつだ。もともと火神の気性は荒々しく、簡単に人に力を与えるような神ではない。

 だが、火神は先祖に惚れて、力まで与えた。


 これは伝説だと思う人も多い。でも、火神は伝説の存在じゃなく、いまもこの家にいるのだ。父の話によると、いつも祭壇で引きこもってるらしい。

 火神の試練を受けて、証を手に入れるものが当主になる。


「試練はエリヒオしか参加できないんだ」

「セリノのお兄様が当主になったら、セリノは力を隠さなくてもいいよね」

「力を使えたのが当主だけだよ」


 当主よりも強い力の持ち主は殺される。

 エリヒオが当主になったら、俺は力を一生使わないまま生きるしかない。今と同じように。


「理不尽だわ。どうしてセリノにだけそんな仕打ちを」

「無能なんだからな」

「自分でそう言ってどうする」


 アリシアは厳しい目で俺を見た。彼女はいつだってそうだ。自分にも他人にも厳しい。でもそれがいいのだ。


「セリノは素晴らしい力の持ち主だわ。私は見たのよ」

「またそれか」


 一度賊から助けっただけだ。あのときは無我夢中なのだ。むしろ忘れてほしい。覚えてほしくないものだ。

 何度も何度も同じ話を掘り返すほうが嫌になる。


「かっこいいだもの」と、彼女は微笑む。

「その話はもういいんじゃないか」


 彼女の純粋の瞳に耐えきれず、咄嗟にそっぽを向く。

 庭園の向こうを見ると、重々しい足音とともに、エリヒオがこっちに向けて駆けてくる。


「――セリノ! 貴様!」


 こっちに来た途端、エリヒオは俺の襟首を掴む。

 彼の視線が俺に刺さる。氷をも溶かすほどの熱さで。


「貴様、なにをしたんだ」

「何を言っているのか」


 エリヒオは俺の言葉を聞いてさらに激昂し、大声で耳の近くで叫ぶ。汚い飛沫が頬に飛び込む。


「貴様のせいで試練が台無しだ」

「俺はずっとおまえの仕事をしているのだぞ」


 頬を拭きながら答えたが、エリヒオは満足していないようだ。じっと俺を睨む。


「私も見たわ、セリノはずっと仕事しています」

「口を出すな、よそ者が」と、エリヒオは乱暴に彼女を押しのけた。

「彼女に触るな!」


 無性に腹が立つ。アリシアは俺の小さい頃から決めた婚約者だ、よそ者じゃない。

 エリヒオの腕を掴むと、彼が一気に振りほどいて、拳が俺に見舞う。


「口を出すな、無能め!」


 何度もエリヒオに殴られた。口の中に血の匂いが充満する。


「無能は無能らしく黙っていればいい」


 最初こそ反応できずに殴られたが、激昂げっこうしたせいか、力任せの拳は狙いを定まらず、逆にその力を利用して彼を何度も殴り返した。

 すると、エリヒオは突然後ろに下がった。


 なにをするつもりなのか。思わず様子見したが、それが間違いだったと勘が告げた。エリヒオの薄笑いにぞっとした。


 彼の瞳が黒から赤へ変化し、拳が少し後ろへ下がり、風とともに炎が拳に宿る。

 その拳が一気に俺の方向に――と見せかけて、僅かに軌道をずらした。アリシアの方向へ。


「アリシア!」


 炎の前に、彼女はただ立ち尽くす。

 手を必死で伸ばす。炎と一番無縁である彼女が、炎を纏ってはいけない。


 エリヒオの拳が早い。

 手を伸ばしただけじゃ間に合わない。

 手を。もっと早く。もっと素早く。もっと鋭く。

 意識がただ手に集中した。

 いつのまにか、手が熱く。燃えるように。

 いや、まさしく、炎そのものだ。


 青い炎が手を包まれて、トラのようにエリヒオに大口を開く。

 赤い炎と青い炎がまじり、炎の渦がまわりを蹂躙する。渦が徐々に大きくなり、最後に爆発した。


 爆風に直撃する前に、咄嗟にアリシアをかばう。隣のエリヒオも衝撃波に飛ばされた。煙のせいでどこまで飛んだのかわからない。

 煙を吸ったせいで、何度も咳をした。


「セリノ、大丈夫?」と、心配そうに。

「アリシアこそ」


 アリシアの答えを聞く前に、エリヒオの震えた声が耳に届く。煙の向こうに、彼の声だけがこだまする。


「道理で試練がうまくいかないわけだ!」

「貴様、どこでそんな力を――そうか、貴様、俺の力を奪ったな!」


 なにを言っているんだ。こいつは。

 火神の力がそんなに簡単に奪えるわけがないだろ。そもそも奪う手段がない。

 試練がうまくいかないから、頭でもおかしくなったのか。いや、もともとそうか。


「――そんな人、殺しちゃえよ。セリノ」


 後ろから、バシリアの声がした。あの悪魔が。甘美の言葉ばかりかける、悪魔の声が。


「セリノのほうが当主の座にふさわしい。あんな野蛮人に負けるつもり?」

「だが、ここで力を使ったら」


 ちらっと後ろに立つアリシアに目を向けた。すると、彼女は微笑んだ。


「私は平気だわ」


 いや。ここで力をさらに使っちゃいけない。

 アリシアをまた巻き込んでしまう。

 もう力を使わないと誓ったのに。失策だ。


 一気にアリシアの手を引いて、この場から離れた。走って、走って、エリヒオが見えなくなるまで。もしできればこの世の果てまで走りたかった。


 必死に隠していたのに、力のことが周知の事実になった。試練がうまくいかないのは俺のせいだと。


 ――もし、セリノを殺せば。試練はうまくいくじゃないのか。火神は大いに喜ぶに決まってる。


 そんな物騒な噂が耳に入った。

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