冬を信じぬ冠

沖 一

冬を信じぬ冠

 私は高い、とても背の高い木に登り、私が十人いても囲むには足りないだろう太い幹から生えるこれまた太い枝に上って草原を見渡していた。そこでは多くの草木が生え、植物を食むシマウマの群れや彼らを風下からひっそりと狙うライオンの群れなどがいた。私は背負っていた籠から、ここよりも南にある背の低い木々が茂る森から取って来た黄色い果物を取り出し、一つ齧った。不思議な植物で中には種が無く、他の果物にあるような瑞々しい果汁などもないのだが、ほんのりとした甘みのする不思議な果物だった。森のサルがくれたものだった。


「こんにちは」

「やあ」


 彼女は一歩一歩が重いために地面を響かせ、その振動によって近づいてきていることは私も気づいていたが、彼女は決まってすぐそばまで近づいてから挨拶をする。私も目線を草原から彼女の目元へと移し、挨拶をした。


「森のサルがくれたんだ。君には小さいかもしれないけど、一つどうだい」


 彼女の目線は、高い木の枝に座っている私と同じところにあった。その身体は大きく、広い背中には私などいとも容易く乗せられそうであり、そして高く持ち上げられた長い首も太く、頭一つだけでも私の身体よりも大きいのであり、喋る度に小さく開かれる口はそれでも私が入り込めそうだった。けれども彼女の声は決まって優しく穏やかな響きをしている。


「ありがとう、いただくわ」


私は果物の皮を剝いてから、いくよ、と彼女の口に放り投げた。舌の上に乗った果物はうまく咀嚼され、彼女は味わったあとに嚥下した。


「甘いのね」

「あぁ、熟していないと渋いらしい」


 彼女は首を動かして私が座っている枝とは別の枝についている葉をいくらか食んで、ゆっくりと咀嚼し始めた。首を私の傍に戻した彼女としばらく草原を見渡す。草原にいたライオンたちはいつの間に狩りを始めていて、逃げ惑うシマウマたちも己が標的にならぬようにとできるだけ自分より足の遅い者と一緒に走ったり、逆に一人で早々に狩場から離れたりしていた。やがて早期離脱もできず足も遅い一頭のシマウマが標的に定められて追いかけまわされ始めた。その様子を狩りから逃れたシマウマたちが遠巻きに眺めている。逃げるシマウマは時にもう目の前まで追いつかれたりもしたがジグザグに走ったり、たまに追いついてきたライオンの顎を蹴り飛ばしたりして善戦していた。けれども、やがて蹴りが空ぶった所を二頭のライオンに飛び掛かられて倒れた。次々とライオンたちが集まってシマウマの肉を食らい始める。

 それを遠巻きに眺めていたシマウマたちだったが、ひっそりと、巨体からは信じられないほど静かに忍び寄る影がいた。アロサウルスだ。巨大なアロサウルスは、一頭のシマウマが耳をぴくりと動かして振り向いた瞬間に開いた咢で勢いよくシマウマを咥えこんで高々と持ち上げてしまった。

 キャアキャアと高い悲鳴が上がる。だけれどもそれは命に差し迫る脅威に怯えるものではなく、あくまで追いかけっこに出し抜かれたが故の楽し気な声であった。シマウマを押し倒していたライオンもアロサウルスに持ち上げられていたシマウマを見て、口元を血で濡らしたままころころと笑っている。アロサウルスもガハハ!ガハガハ!と笑ってシマウマを振り回すが、振り回されるシマウマもケタケタと笑っていた。皆が遊んで笑っていた。その皆の中には、ライオンに押し倒されて肉を食われていたシマウマも、いつの間にか傷一つない身体で野を駆けながら笑っていた。アロサウルスはこの後、咥えているシマウマを食うのだろうが、食われたシマウマがその後に何事も無かったかのように群れの中に戻ることを皆が知っている。故に、皆が笑っていた。


「あれが見える?」


 葉を食べ終えた彼女がそう言っていたのは、楽し気に遊ぶシマウマたちのことではないのだとわかった。もっと遠くの北の空の方を見ている。


「見えるよ」


 青い空の向こうにもはっきりと見える、碧色のほうき星が長い尾を引いていた。


「止まってみえるけど、それは遠すぎるだけで、本当は僕たちの誰も追いつけないぐらいに早いらしい」

「目で追う事もできないぐらいよ」


 彼女はもう知っているのだろうかと思った。

 一度はぐらかすように、彼女は再びシマウマやライオンやアロサウルス達に目を向けた。ひとしきり食事も終わった彼らは、今も皆で遊んでいる。


「どうしてこんな所が作られたのかしら」

「試したかったんじゃないかな」


 反射的に言ってしまったのは、私が本当にそうだと思っているからだったが、言うべきでは無かった。


「私達がどうなるかを?」


 彼女はあくまで穏やかな目で私を見つめるが、きっと聡明な瞳は全てを知らなくともこれから起こりうる事態を覚悟しているのだろうと予感させる。やはり、私は言うべきではなかった。


「きっと冬が来るわ」

「どうしてそう思うんだい」


 訊ねるよりも咎めるような口調になってしまったことを、彼女が大きな瞳をゆっくりとこちらへ向けたことで気が付いた。手の平よりも大きい瞳から草原へと目を向けて、私は努めてゆっくりと言葉をつづけた。


「ずっと冬なんて来なかったじゃないか。この林にも、あの草原にも、南の森だってずっと冬なんて来なかった。ずっと草木は青々としているし、ここの木々だって一つが死ぬことがあってもずっと続いてきた。どこだってそうだ。どこでだって、ずっと続いてきた」

「そうね、でもきっと冬が来るわ。あのほうき星が落ちて、長い長い冬が来るの」


 彼女はもう知っているのだろうと思った。

 森のサルが木の皮で籠を編んでくれた時に言っていた。『冬が来る。この森にも、お前が住処にしている背の高い林にも、さらに北の草原にも冬が来る。どの地からも恵みが失われる。多くの物を食わずには生きていけない者は死ぬしかない。お前も、俺も、皆がだ。俺は出来るだけの備えをする。お前も備えれば生き残れるかもしれない。しかしお前が仲良くしているブラキオサウルスはダメだ。彼女は多くを食いすぎる』

 賢い森のサルと同じように彼女は冬が来ると言うのだから、きっと冬が来るのだろうと私は諦めた。しかし諦めきれないこともある。冬が訪れた時、隣で空を見つめている彼女は冬に淘汰されてしまうのだろうか。

 彼女はいつから冬を確信しているのか知らないが、森のサルとは対極に何も備えてないように思えた。それは冬の訪れを信じていないのだからと思いたかったが、やはり彼女は確信しているようだった。


「私は自分の長い首が好きよ。高い所にある枝の葉だって食べられるし、木に登ったあなたと同じ景色を見られる。でも、私の身体は大きすぎるんだわ。長い冬を越えるには、とても大きすぎる」

「そんなことはないよ。君よりももっとたくさん食べなければいけない奴はいるし、一つの葉っぱしか食べられない奴もいる。それに海には、君よりももっと身体の大きい奴だっているさ。冬が来たら、彼らの食べるものは全部なくなってしまうんだろう?みんな越えられないっていうのかい?」

「それを試そうとしているんだわ、きっと。あなたもそう考えているんでしょう?」


 違うと言いたかった。けれど、私でさえ薄々と勘づいている事を私よりも聡明な者たちがそろって確信しているのだった。どれだけ違うと言っても、それは私が心から信じている者たちを否定する、上滑りするだけの虚しい響きになるのだろう。

 だから口から出てきたのは、否定とも言えない私の中途半端だった。


「山に行ってみないか」


 遠い西の方には山脈が広がっている。なだらかな山々は青々とした森が広がる所もあれば、植物がほとんどなくて岩肌が見えてしまっているとこもある。あんな所にも住んでいる奴はいると言うではないか。


「行ってみたいと思っていたんだ」


 私はこの背の高い林の他には、南の森にしか行ったことがない。目の前の草原にさえだ。話し相手も森のサルやブラキオサウルスの他は、林の下の方を走り回るネズミやウサギ、飛び回る小さい鳥ぐらいだ。他にどんな奴がいるかなんて、この高い木から見える草原か、森のサルから聞いたことがあるだけだった。きっと、いろんな場所には森のサルさえ知らないようないろんな者たちがいるのだ。


「えぇ、行ってみましょうか」


 きっと彼女は頷いてくれると思っていた。彼女はゆっくりと一度瞬きをして、応えてくれた。


「私に乗って。きっと頭の上がいいわ。木のてっぺんよりは低いけど、それでも眺めは広いはずよ」

「ありがとう。いや、素晴らしい眺めだよ」


 座っていた枝からスルリと飛び乗ったブラキオサウルスの頭の上は思っていたよりも座りやすく、胡坐をかいた。歩いてもらう事にやや申し訳なさはあったが、私が走るよりもこうする方が格段に早くつくことは目に見えていた。

 遥か下の地面から聞こえる巨大な足音に反して頭の揺れは存外小さく、頭に私を載せたブラキオサウルスは西の山脈を向けて歩き出す。

 北の空には、やがて冬をもたらす碧のほうき星が輝いている。

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