第32話
もうこのメンバーで、皆の前で歌う機会はないのか。
そう思うと、瑠衣があんなに悲嘆に暮れた様子で落涙しているのも分かる気がする。
この問題の中心人物でありながら、分かる気がする、などというのは、随分と無責任というか不謹慎だ。
だが、今度こそ俺の頭は真っ白になりつつあった。
せっかくここまで練習してきたのに。助け合ってきたのに。
それが、時間の流れという一言で片づけられようとしている。
俺は、無力だ。それこそ、涼介のようなムードメーカーがいてくれれば随分違うのだろうが――。
と、思った矢先のことだった。
コンコン、とノックの音がして、件の人物が現れた。夏海涼介だ。
「失礼します」
「ああ、ごめんなさい、今はちょっと関係者以外の生徒さんは……」
先生が入口に近づきながら、申し訳なさそうに言う。
「えっと、すみません、関係者じゃなくて、ああいや、それは僕が関係者じゃない、って意味であって、こちらの方が合唱部の皆さんに話がある、と」
困惑している様子の涼介。こちらの方、って、誰かを案内してきたのだろうか。
すると、涼介の背後から品のいい、しかしどっしりとした存在感のある声がした。
「合唱部さんの教室は、こちらでよろしいですかな?」
話し方まで紳士的。
外が暗くなっているせいでよく分からなかったが、かなりの高身長だ。
そこまで察したところ、ぬっとその人物は照明の下へ現れた。
黒を基調とした燕尾服。胸ポケットにはこれまた品のいいハンカチを差している。
老齢の男性だ。白い口髭をたくわえ、爛々と輝く目で俺達を見渡している。
すると、被っていたシルクハットを下ろしながら彼は深々と一礼した。
「突然のところ失礼いたします。私は――」
「波川先生!」
そう声をかけたのは谷ヶ崎先生だ。
「聞きに来てくださったんですね!」
「やあ、谷ヶ崎くん。元気そうだね」
先生は男性の下へ近寄り、握手を交わした。
「皆、紹介するわ。私の大学時代の恩師、波川浩太郎先生。で、どうなさったんですか、先生?」
「そうそう、これを皆さんにお渡ししようと思いましてな」
すっと差し出されたプリントを、谷ヶ崎先生はゆっくりと受け取った。
「合唱コンクール……?」
「左様。参加してみる気はないかね?」
「で、でも私たち、今までコンクールに出場したことなんてありませんよ?」
「なあに、申請すればすぐ手続きは済むよ。この五人の部員たちと一緒に、大会に臨んでみませんかな?」
気づいた時には、俺はガタン! と音を立てて立ち上がっていた。
「コンクールはいつですか?」
「夏休み明け、九月の第一週の土曜日だけど」
そう答える谷ヶ崎先生。
彼女と目を合わせてから、ぐいっと首を巡らせて、俺は皆の様子を窺った。これはチャンスだ。大会という目標があれば、まだ皆で歌っていられる。
引退予定だった潤子と美幸は、さてどうしたものかと考え込んでいる様子。
この期に及んで、俺は自分の配慮のなさに気づかされた。
二人は受験戦争を乗り越えなければならない。いつまでも歌っているわけにはいくまい。
それなのに、さもチャンスを得たとばかりに、三年生二人に頼ろうとしてしまった。
そんな上手くいくはずがないのだ。俺はテンションがた落ちで、ゆるゆると椅子に腰を下ろした。
その時だった。
俺と交代するように、静かに潤子が立ち上がった。
「やりましょう、先生」
ああ、そうだろうな。やっぱり引退して――って、え?
「わたくしも美幸ちゃんも、大会に出場します」
「えぇえ!?」
素っ頓狂な声を上げたのは、誰あろう俺である。
「で、でも、先輩たちは勉強が……」
「んなもん自分でどうにかするよ、少年くん。あたしたちだって、不完全燃焼なんだ。今日一日ではねー」
「じゃ、じゃあ……?」
そう言って顔を上げる瑠衣に向かい、潤子は満面の笑みを返した。
「ええ。谷ヶ崎先生、波川先生、わたくしたちは今回のコンクールに参加致しますわ」
元から残留組だった俺、瑠衣、朔実の三人は目を丸くした。
各々思うところはあっただろう。だが、真っ先に俺の脳裏に浮かんだのは、まだ潤子・美幸の二人と共に歌っていくことができる、ということだ。
自分の胸中でどんな感情が渦巻いているのか、よく分からない。喜びなのか、興奮なのか、希望なのか。
一つ言えるのは、その感情が何にせよ、ポジティヴなものであるということだ。
俺は威勢よく雄叫びを上げる。……ところだったのだが、先手を打たれた。
「いよっしゃあああああああ!!」
「ちょっと朔実さん、騒いではいけませんわ。お客様がいらしているのに……」
「え? あっ、すいません……」
波川先生は目を細め、微笑みながらそこに立っていた。
「ああ、お茶であればすぐ淹れますが」
「構わないでおくれ、谷ヶ崎くん。いや、谷ヶ崎先生。私は単に情報を伝えに来ただけですからな。皆さんの健闘を祈っておりますぞ。では」
再びシルクハットを取ってお辞儀をする波川先生。
「おっと、そうだった。夏海くん! ここまで案内してくれてありがとう。感謝するよ。君はこれからどうするつもりかね? ご自宅までのタクシー代を差し上げるくらいのことはできるが」
「ああいえ、そんな! バス停もすぐそこにありますし、どうぞお気遣いなく」
「そうか、分かった。では、私たちはこれで失礼するよ。これからも、素敵な歌を聞かせておくれ」
そう言って、波川先生は去っていった。
※
翌々日の月曜日。
俺は呼び出しを喰らっていた。いや、そんな嫌な言い方をする必要はないな。何せ、俺に連絡を寄越したのは瑠衣だったのだから。
しかし、何事だ?
不思議に思いながらも、俺はいつもと同じ時間帯の電車とバスで登校した。
「三年十組で待つ、か」
状況を確認し、ゆっくり階段を上っていく。外は天気雨で、晴れているのか降っているのか判断しにくい状態だ。
三年十組の扉の前に立った俺は、念のためノックを三回。それからいつも通りに、お疲れ様です、と言いながら扉を開けた。
「おはよう、茂樹くん」
「ああ、おはよう、瑠衣さん」
反射的に返答する。そこにいたのは、いつもと同じセーラー服姿の瑠衣だった。
「どうしたんだい? 俺、誰かに呼び出されるなんて珍しいんだけど」
すると、瑠衣は露骨に顔を顰めた。じりじりと首筋から赤くなっていく。
「あっ、ごめんごめん! 別に迷惑だとか、そんなことを言いたいんじゃなくて、えっと……」
「別にいいよ。そこが茂樹くんの個性っていうか、今までどんな人生を歩んできたか、っていうかけがえのないものだと思うから」
「そ、そうかな」
「うん。過去のない人間を、私は好きになったりしないと思うんだ」
「ふぅん」
冷静な口調でそう告げられ、俺は何気なく返答した。
いや、待てよ。今瑠衣は何て言った? フレーズの中に、好き、という言葉が含まれてはいなかったか?
俺の胸中に、たちまち暗雲が立ち込めた。
そうか、瑠衣には好きな人がいるのか。逆に言えば、こうして落ち込むということは、俺は瑠衣に好意を抱いていたのか。
全く、とんだ朴念仁だな。自覚がなかったなんて。
「茂樹くん。茂樹くん?」
「あっ、はいっ」
思わず姿勢を正す俺に向かい、瑠衣はじとっとした視線を向けた。
「何考えてるの?」
「いや、瑠衣さんに好きな人がいるみたいだから、その……。俺の出る幕じゃないな、と思って。俺、瑠衣さんのこと好きだったんだけど」
最早やけっぱちだった。当たって砕けろというやつだ。
フラれるならいっそ、清々しく斬り捨てられた方がいい。
だが、瑠衣は長い溜息をつくばかりだった。
俺が目を上げると、瑠衣はパチパチと瞬きをして語り出した。
「いい、茂樹くん? その人はね、自信がなくてもがいてるの。そして、いっつも誰かを助けようとする。彼一人では上手くいかなかったかもしれないけど、周囲の人たちに力を貸してもらえる厚い人望がある。そしてこれが決定打だけど――」
俺はごくり、と唾を飲んだ。
「その人は今、私の目の前に立ってる」
「えっ、嘘? ど、どこに――」
そう言って振り返ろうとした俺に、鋭いビンタが見舞われた。もちろん瑠衣が繰り出したものだ。
「な、何するんだよ!」
「それはこっちの台詞! せっかく頑張って告白したのに、茂樹くんが気づいてくれないんだもの……」
「え?」
もういい分かった、と言い放ち、瑠衣はぎゅっと目を閉じて叫んだ。
「私は茂樹くんのことが好きなの!!」
くらり、と身体の重心が揺れた。瑠衣が俺のことを、す、好きだって?
「う、あ」
衝撃のあまりよろめいた。足がもつれて背中側が重力に引っ張られる。
「あっ、ちょっと茂樹くん!」
瑠衣が腕を差し伸べるのと、俺が自力で体勢を立て直すのは同時。
結果、俺と瑠衣は真正面から抱き合う格好になってしまった。
ちょうどその時、陽気な声が三年十組の沈黙を完全にぶち壊した。
「お疲れ様でーっす! って今から朝練する人なんていねえよな」
朔実だ。
「あら朔実さん、おはようございます。まさかわたくしより早く朝練に来る人がいるなんて」
潤子だ。
「ふあーぁ、おはよーっと。ん? なに固まってんの?」
美幸だ。
俺と瑠衣の秘密の会合のはずが、他の合唱部員全員に明らかになってしまった。
しかも抱き合った状態で、ってどういうことだ……?
その後、谷ヶ崎先生が仲裁に入るまで、俺たち霞坂高校合唱部は、完全にその活動を停止することになった。
THE END
ガールズ・カルテット!+俺 岩井喬 @i1g37310
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