第31話


         ※


 こうして迎えた、体育館での定期演奏会。

 今日は土曜日で、生徒たちは皆が休日ということになっているが、全校生徒のほとんどが体育館に集まってくれた。

 入場は無料。六月にしては珍しく快晴だったことが、皆の足運びを軽やかにしたのかも知れない。


 その二時間ほど前。

 俺たちは最後の練習を行っていた。これはただの練習ではない。体育館での響き具合を確かめるのに必要な、経験値を獲得するための最終確認も兼ねている。同時に、緊張を和らげるためのものでもある。


「もっともっと声飛ばしていいよー、お腹重視してー。まだ聞こえないよー」


 谷ヶ崎先生はステージから最も離れた出入口近くで、仁王立ちの姿勢で指示を出す。

 声量が必要なのは分かっていた。だが、ここまでとは。


 加えて、聴衆を入れて歌うと、その僅かなざわめきで俺たちの声が相殺されてしまう恐れもある。

 これで大丈夫なのだろうか? いや、ここは自分たちのやって来たことを信じるしかない。不安になればなるほど楽しくなくなるし、その心の動きは聴衆にも伝わってしまう。

 せめて堂々と歌うことだけはしっかりしなければ。


「オッケー。練習は終わりにしましょう。皆、昼食を食べて。あと水分補給!」


 皆が返答する中、俺はステージから飛び降りて先生の下に駆け寄った。


「先生! 三十小節目の跳躍なんですけど!」


 俺は、というか俺たちは、最終確認に余念がなかった。だが一番跳躍を気にしていたのは俺だと思う。

 先生は俺の言わんとすることを理解したのか、真剣な顔でこう言った。


「そうね。上手くいく時と、そうでない時があるわね」

「やっぱり……」

「どうしてもずり上がるように聞こえてしまう傾向はあるかも」


 先生は、俯く俺の背中をとん、と叩いた。


「はいはい、そう悲観的な顔をしない! 上手くいく時は確かにあるし、その割合も増えてきてるわ。だから楽しく、歌いたいように歌いなさい」

「歌いたいように……?」

「あなたは歌うのが好きだったけど、地声が低いことを気に病んで合唱から距離を取ってきた。でも、あなたは私たちの合唱部に入ってくれたし、そこで何度も褒められてきた。そうよね?」

「それは買い被りすぎです」


 今度は先生が俯き、腰に手を遣ってかぶりを振った。


「ここは素直に喜んでほしいんだけどなあ……。まあ、そういう慎重で堅実なところは、あなたの美徳でもあるけれど。ねえ、瑠衣さん?」

「は?」


 突然出てきた名前に、俺はさっと振り返った。いつの間にか、瑠衣が俺の背後に立っていた。ちゃっかり話を聞いていたようだ。その顔は、僅かに紅潮している。


「あ、あのね、茂樹くん。私、最初にあなたの声を聞いた時から、ずっと好きだったの。だから、楽しんで歌ってほしい。これは先生と私が考えたことなんだけどね」

「そ、そうなんだ」


 俺も俺で、じりじりと顔が赤くなっていくのを感じていた。

 だが、それは焦りからではないし、心理的圧力をかけられたからでもない。


 瑠衣が。あの瑠衣が俺を励ましてくれている。俺の声を好きだと言ってくれている。

 俺には上手い言葉が見つからなかったけれど、分かった、だか、そうだね、だかもごもご口を動かした。本当は『ありがとう』と一声かけられればそれで済んだことなのに。


「あ、あのっ、先生、私のメゾソプラノはどうでしたか?」


 ぐいっと顔を先生に近づける瑠衣。

 ああ、きっとこれは、この話題はここまでだという意志表示だな。

 俺は自分の弁当を手にした。頭頂部から水蒸気が上がっているんじゃないかと思いながらも、ゆっくりとシートに腰を下ろし、食べていく。


 母には申し訳ないが、あまり味が感じられなかった。

 こんなに緊張したのは、本当に生まれて初めてだ。


         ※


 そして現在。

 俺はさっきの、流れに沿って通しで練習したのを思い出しながら、舞台袖の階段を上がった。

 既に拍手は巻き起こっており、皆がどれほど今回の俺たちの定演を楽しみにしてくれていたかが分かる。下手なミスは許されない。


 が、ここで俺は脳みそを高速回転させた。

 そうやって失敗を恐れるから不安になってしまうのではないか?


 緊張するなら分かる。だが、今この場で不安になるというのは、まさに百害あって一利なし、だろう。

 目が眩むような照明に対抗するように瞼を引き上げ、腹式呼吸を繰り返し、自分を落ち着かせられるように努めた。


 窓に暗幕をかけられた体育館内は薄暗かった。それでも、ステージ近くの聴衆の顔は見分けがつく。

 そして、俺ははっとした。見知った顔がいくつも見受けられたからだ。


 一番はしゃいでいるのは涼介だ。随分前から、定演に来ることを約束してくれていた。が、まさか最前列でぶんぶん腕を振り回しているとは……。彼もハイになっているらしい。

 二列目あたりに、両親と聡美の姿。口の動きで、両親が俺の名を呼んでいることは分かった。聡美はそれを注意しながら、携帯を俺に向けている。録画しているのか。うげ。


 ここで俺は、壁際のパイプ椅子に腰かけている意外な人物を見つけた。

 茶道の宗像先生だ。今までいろんな助言を貰えただけでも有難かったのに、まさか今日来てくれるとは。


 それに気づいた直後、拍手はより一層の高まりをみせた。

 俺たちが上がってきたのと反対側から、谷ヶ崎先生が登壇したのだ。白いブラウスの上から漆黒のスーツを纏い、足が長く見えるような細めのロングパンツを着用している。


 満面の笑みでステージ中央に立った先生は、深々と一礼。俺たちは石化したように落ち着き、姿勢を崩さない。

 こちらに振り返る先生の笑顔を目に焼き付け、ごくりと唾を飲んでから、俺は腹式呼吸を再開。すっと両手を掲げた先生に従い、一曲目の最初のフレーズを口にした。


         ※


 この二、三ヶ月、恐ろしいほどいろんなことがあった。

 他人の目には、そんな期間はすぐさま流れ去ってしまうような儚いものに映るだろう。


 だが俺は、俺たちは違う。

 死ぬほど努力したとか、人一倍打ち込んだとか、格好のつく言葉は使わない。

 でも、確かに何かを勝ち得た。手に入れたのだ。その思いを抱いて、俺はこの演奏会の場に立っている。

 

 そして、奇跡のような時間はあっという間に過ぎ去り、俺たちは三年十組に撤収した。

 そこに響いていたのは歌声。――ではない。


「はあ!? 覚えてねえ、だって!?」


 バン! と勢いよく机が打ち鳴らされた。犯人である朔実が、ずいっとこちらに身を乗り出してくる。


「茂樹、正気か? あんなにたくさん歌ったんだぞ! お前、よくそれを『覚えてない』の一言で片づけられるな! 何かもっと気の利いたこと言えよ!」

「えー……」


 俺はあからさまに嫌な顔をしてみせた。

 だって仕方ないだろう、本当に一瞬で時間が飛んでしまったのだから。


「まあまあ、そのくらいにしておきなさいな、朔実さん。頭が真っ白になることは誰にだってあるわよ。しかも、茂樹くんの音程はほぼ完璧だったわけだし」


 そう語る潤子に向かい、今度は俺が身を乗り出した。


「えっ、マジですか、部長!」


 完全復活を果たした部長は、丸眼鏡の向こうからウィンクを放った。

 しかし、そんな気楽な時間も長くは続かなかった。美幸の一言でピリオドになったのだ。


「部長、忘れてませんかー。あたしらの引退―」

「へ? 誰が引退するんです?」


 引退の意味もロクに考えられずに、俺は無責任な言葉を放った。


「わたくしと美幸ちゃんよ、茂樹くん。これからは、朔実さんを中心に三人で活動していってもらうことになるわ」

「……」


 言葉が、出ない。なんだ、なんなんだ? 突然先輩二人が引退だなんて、いつ決まった? 誰が決めたんだ?


 俺は周囲を見回した。一人一人の顔を窺っていく。

 朔実、潤子、美幸、そして瑠衣。って、おい待てよ。


「瑠衣、さん……?」


 瑠衣はぽろぽろと涙を零していた。

 彼女の涙を見るのは初めてではない。だが正直、今回が一番俺の胸に迫るものがあった。


「今までの慣例で、三年生は定演後には引退することになってるのよ、茂樹くん」


 思いがけない方向から声がした。今のは谷ヶ崎先生だ。音楽準備室側の扉に背中を預け、腕を組んで立っている。


「ようやくこの部に馴染んできたところ、申し訳ないんだけれどね。それが三年生二人のためにもなるのよ。彼女たちは、受験っていう怪物に立ち向かわなくてはならないから」

「そ、それは……」


 俺は喉の奥に何かがつっかえるような感覚に囚われていた。しかし、いざ理路整然と先生の口から語られてしまうと、それを飲み込む以外にできることはなかった。


 胃袋がずしり、と重くなって、そこからじわじわと痛みが広がっていくような感じ。

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