第30話
「これはどういうことですか、先生?」
あまりにも態度のでかい闖入者を睨みながら、父親が唸るような声を上げる。
しかし先生も、すぐには答えられない。この三人の出現は、流石に予期していなかったのだろう。
「あなたたち、聞いていたの?」
「はい。瑠衣さんが、ご両親の愛情を受けられなくなるのではと危惧している、というあたりから」
ううむ、立派な盗み聞きだな。だが、それを明かした潤子に悪びれる様子は一切ない。それどころか、真摯な眼差しで室内の五人をじゅんぐりに見つめている。
「ご両親と比べて、同級生や先輩・後輩関係というのは脆いものです。しかし、わたくしたちに瑠衣さんを責めたり、虐めたりするつもりは一切ございません。それは、瑠衣さん本人が誰よりもご承知のはずです」
「だっ、だから何だと言うのよ……?」
掠れ声で尋ねてくる母親を前に、潤子はこう言った。
「つまりはこういうことです。わたくしたちが瑠衣さんを大切な仲間だと認識し続けるということ。その限りにおいて、瑠衣さんはご両親に愛想を尽かされることはない。そう申し上げているのです」
なにせ、親子の絆は友人関係よりも強固ですからね。
潤子ははっきりと断言し、その両脇に控えた朔実と美幸は腕を組んでうんうんと頷いている。
その言葉に、瑠衣が口を開いた。
「それは、茂樹くんも同じ? あなたも私のことを、大切な仲間だと思ってくれる?」
「もちろんだ」
俺は即答していた。
その言葉が終わるや否や、瑠衣の両目からぶわり、と水滴が浮き上がった。そして、ソファの上で俺に向かってぎゅっとハグを繰り出してきた。
「あ、ちょっ、瑠衣さん!? こんな、ご両親の前で……!」
「よかった……。私は決して見捨てられるようなことはないのね。本当に、本当によかった……!」
瑠衣の背後から彼女の肩に両手を載せる人物がいる。谷ヶ崎先生だ。
「そうよ。だから今は思いっきり甘えなさい。誰にでも、好きなように」
いや、ちょっと待て。好きなように甘えろ、って、流石にこの場ではあり得なくないか?
繰り返すようだが、ここは愛川邸、しかも一人娘である瑠衣の両親の眼前でのことである。
「よかった……。私、ずっと心のどこかで不安に思ってて、いつか皆に見放されるんじゃないか、って……」
「そ、それはないよ」
俺は妙に甲高い声で言った。声が裏返っていたかもしれない。
「皆が瑠衣の味方なんだ。大丈夫だよ。今すぐ皆を信用しろとは言わないけれど、ゆっくり時間をかけて付き合っていこう。ね?」
「……」
言葉にならない返答を寄越す瑠衣。
あれ? でも『付き合っていこう』という言葉は要らぬ誤解を招く発言だったんじゃないか?
「そうか! 瑠衣も想い人に巡り合えたんだな! お父さんは応援するぞ!」
「瑠衣、末永く幸せにね。茂樹さん、瑠衣をよろしくお願いします」
「えぇえ、いや、ちょっとちょっと!」
俺はプロポーズした覚えは一切ないんだが……。
すると、先生は満面の笑みを浮かべながらこう言った。
「責任重大ね、茂樹くん?」
まったく、何が何やら……。
※
それから三週間が経過した。
合唱部員は皆、心に秘めていた懸念事項を解決し、あとは定演へと突っ走るだけである。
今日は月曜日。今週の土曜日が定演本番だ。
放課後、体育館を貸し切りにしてどんちゃん騒ぎ……じゃなかった、歌唱を行う。
ステージに立つのは俺たち合唱部員五人と、谷ヶ崎先生だ。
あとは、即興での乱入ステージも計画に入っている。誰が何を歌いだすか、お楽しみというわけだ。
これはいかにも青春らしい、高校生らしいイベントだと言えるだろう。歌を披露する側の人間としては、緊張と興奮で心臓がはちきれんばかりだった。
しかし、何事にも例外にあたる人物というのは存在する。今回は春山茂樹、つまり俺だ。
「うぅ~ん……」
五人で声を合わせる途中、先生がくるり、と手を翻して演奏を止める。
「どうしても難しいわね、この三十三小節目から四十二小節目まで」
俺はふっと息をつきつつ、楽譜を見下ろす。
確かに、ここは音程の上下が非常に激しい部分だ。俺たちは、六人そろって顔を顰める。
この曲は数年前に発表された宗教曲である。
宗教曲というのは、イエス・キリストや聖母マリアを賛美するために、何百年も前から書かれてきたジャンルの曲だ。
ヨーロッパの礼拝堂とか、石造りの建物で歌われるのが似合いの楽曲。
事実、そういう場所での歌唱を想定して作曲されているのが基本だ。
その作り方は現在も継承されており、今俺たちが挑戦しているのも、斬新な構造ながら立派な宗教曲だ。
場面ごとに現れるカッコよいメロディーライン。それは、歌う側も聞く側も大いに盛り上がる。
しかし同時に、それは歌う側に高度なテクニックを必要とする。
潤子と美幸は慣れているようだし、朔実も瑠衣も合唱経験者だ。見事にそのテクニックを乗り越えている。問題は誰あろう、俺の実力不足だ。
「お腹から息を出すのよ。背中に空気を通すようなイメージがいいわ」
「はっ、はい!」
と、聞かされるのは簡単だが、いざやろうとすると苦労する。それでも俺の練習に付き合ってくれた部員四人と先生には感謝するしかない。
「ちょっとごめんね」
潤子は片膝を立てる姿勢で、俺の腹部と背部を両の掌を挟み込む。
こんなに力を込めて触れられると、流石に恥ずかしい。瑠衣にハグされた時ほどではないが。
「じゃあ、深呼吸してみて。うん、そうそう。ちゃんとお腹に空気は入るようになったわね」
「ありがとうございます」
「次は息を吐き出す時のイメージね。腹筋を下から巻いていくのを想像して。腹から息を出す、っていうのはそういうことなの」
俺がこくりと頷くと、ちょうど先生がぱちん、と掌を打ち合わせた。
「さて、今日までの時点で、皆楽曲についての理解は深まったと思う。これからは曲をどんどん歌い込んでいきましょう! 茂樹くん、ミスを許されるのは今日までだから、頑張ってね」
「はいっ!」
合唱の基礎訓練のみならず、俺は楽曲の暗記もしなければならない。
そして楽曲にも難しいところがある。俺は唯一の低音なので、今更できません、と嘆いているわけにもいかないし、実際に失敗は許されない。
そしてその難しいところとは、音程が急に高くなるところ。通称『跳躍』。これが、短時間に何度も現れる。それこそが、この曲の最難関ポイントだ。
腹筋に力を込め、跳躍のための息を温存。ワンテンポ早く息を流し出し、バランスを取りながら声を飛ばしていく。
できる限り、遠くを目指して息を放出。そこに言葉と音階を載せていく。
一回なら、流石にできるようになってきた。だがこのフレーズには、跳躍は三回存在する。
俺は夜遅くまで残り、先輩や先生の指導を受けることで、弱点の克服を誓った。
「そう言えば……」
最近瑠衣と話をしていない。まあ、無理もないか。
朝練のため、俺の登校時刻は他の皆より早くなった。それに、誰よりも練習したため下校時間も遅れることになったのだ。
これでは、瑠衣に会えるはずもない。練習時間中は当然、歌っているから話すどころではないし。
ただ幸いなのは、本番間近のこの期において、皆のモチベーションが高いこと。
思えば入学から三ヶ月、部員たちは四者四様の方法で、自らに降りかかった問題や心配事を克服しつつある。
きっと大丈夫だ。もちろん、俺が合唱未経験である、という点を除けばの話だが。
本番前日の放課後。俺を含めた合唱部員は、全員三年十組から追い出された。
「明日は本番よ! 早く寝て、朝食がっつり食べて、エネルギーを充電すること! これは顧問としての命令よ!」
はい、解散解散! と言って手をひらひらさせる谷ヶ崎先生。
まあ、言うことはもっともだけどな。
※
電車通学なのは、俺と瑠衣の二人。残り三人は学校から自転車で、駅とは逆方向へ帰途についている。
俺はドキドキしてはいたものの、それは瑠衣のせいではなく、明日の定演が上手くいくかどうか、という心配のせいだ。
俺が改札を通ろうとした時、背後から声を掛けられた。
「茂樹くん!」
声の主を見て、俺ははっとした。いや、瑠衣もまた電車通学であることは理解していたのだけれど。
「茂樹くん、歩くの早いんだね」
「あっ、ごめん。何か話すことが――」
「明日は頑張ろうね、茂樹くん」
俺の言葉を最後まで言わせずに、瑠衣はそう言ってほほ笑んだ。
「それじゃ、定演の成功を祈って!」
瑠衣が突き出したのは、右腕を上げた。握りこぶしを作っている。
「うん、お互い最善を尽くそう」
俺も右手を上げ、グーの形で瑠衣と手を合わせた。それから見送りの気持ちを載せて、別なホームへ駆けていく瑠衣の背中をしばし見つめ続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます