第29話


         ※


 ここが戦場か……。

 愛川邸を見ながら俺は胸中で唸り声を上げた。ファミレスで軽食をとり、午後八時五分過ぎに瑠衣の自宅を訪れた時のことだ。


 もちろん、戦場だなんて喩えはお門違いだ。昨日、駅に瑠衣を迎えに来た時の彼女の両親は慌てていた。それは瑠衣を心配してのことだ。

 つまり、瑠衣はきちんと両親に愛されているということであり、喧嘩や対立などの家庭内トラブルとは無縁に思える。


 愛川邸はちょっとした高級住宅街にあり、道路も家々も柔らかなベージュ色の光に照らされていた。一戸建ての家が多く、ちょっと外国にでもやって来た気分。

 ゆっくりと車庫に車を入れた先生と瑠衣に続き、俺は降車して、改めて愛川邸を眺めた。


 品のいい邸宅だ。それほど広大な敷地はないが、芝生の整えられた庭や、手の込んだ花々があり、正面に建つ二階建ての家屋を美麗に演出していた。


「さ、行くわよ茂樹くん」

「あっ、はい」


 俺は観察をやめて、先生と瑠衣についていく。先生がインターフォンを鳴らすと、教会の鐘の音のような響きが広がった。

 はあい、という声と共に現れたのは、瑠衣の両親だった。二人そろってのご登場である。しかも昨日同様、きっちりスーツを着込んでいる。敵対する意志はなさそうだ。

 まあ、問題があるのはこの両親だけではないから、安心はできないのだけれど。


 先生の挨拶に続き、俺は瑠衣の部活仲間だと紹介された。突然話題の矛先がこちらを向いたものだから、内心ではどきりとした。が、なんとか顔の皮一枚下で動揺を悟られまいとした。

 それが上手くいったかどうか? 知る由もない。


「さあ、こんなところではなんですから、どうぞ中へ」

「失礼致します」

「お邪魔します……」


 母親に促されて、先生と俺はゆっくりと玄関に足を踏み入れた。瑠衣が最後に入ってきて、玄関扉を閉める。


 そのまま瑠衣の両親についていくと、そこには広めの客間があった。やや高めの天井に、入り口の対角線上には品のいいフラワーアレンジメントが配されている。

 俺たち三人が同じソファに腰を下ろすのを見計らい、母親が紅茶を淹れてきてくれた。


 母親が俺たちの向かいのソファに着席する。それから軽く頷き合い、父親が口火を切った。


「この度は、うちの瑠衣がご心配とご迷惑をおかけし、大変申し訳ありません」

「ああ、いえいえ。それをカバーするのもわたくし共教職員の責務ですから」


 いつになく固い口調で答える先生。まあ、当然と言えば当然か。


「そこで、わたくしの一存で、勝手ながら瑠衣さんのお心について調べさせていただきました。と申しましても、保健教員との相談と、学術論文の精読に留まりますが」


 ここが普通の教室だったら、俺はひょんな声を上げているところだ。

 学術論文の精読? そんな高度なことをしていたのか、この先生は。しかも、俺と瑠衣が音楽準備室で待機していたあの僅かな時間で。


「うちの瑠衣に、何か問題でも……?」


 母親が不安げに尋ねてくる。すると、さっきと同じ現象が起こった。

 俺の隣に座っていた瑠衣が、俺の学ランの袖をきゅっと握ってきたのだ。


 一瞥すると、瑠衣は正面に顔を向けたまま、しきりに瞬きを繰り返していた。

 不安なのだろうか? だとしたら、せめて手を握るくらいのことはしてあげたいが、ご両親の手前、そういうわけにもいかない。


 そんな俺たちの葛藤をよそに、先生はこう言った。


「瑠衣さんは幼い頃から、ほとんど手のかからないお子さんだったのではないですか? 言うことをきちんと守って、誰にも迷惑をかけないように気配りができるような」

「え、ええ、それはそうですが……」


 父親が首肯する。先生も頷いてみせてから続ける。


「そしてわがままを言ったり、駄々をこねたりすることも少なかった。ですね? お母様」

「は、はい……」


 父親と違って母親はびくびくしていた。先生をメドゥーサか何かとでも思っているのだろうか。

 そんな二人の前で、先生はすっと息を吸った。


「それが、今回の事件の元凶です」

「……は?」


 先生の言葉が意外だったのか、母親は喉から間抜けな音を出した。父親も眉根に皺を寄せている。これはファミレスや移動中の車内でも、先生は俺や瑠衣に話してくれなかったことだ。


「どういうことですかな、それは?」


 地雷が仕掛けられているジャングルを行くような雰囲気で、父親が尋ねる。

 それに対して先生は、飽くまでも淡々と答えた。


「瑠衣さんがあまりにもいい子でいようとしすぎたから、ひいては我慢をしすぎたから、それが暴力衝動となって今回の事件に発展した。それがわたくしや保健・看護教員の一致した見解です」


 これには両親も顔を見合わせた。俺も瑠衣を一瞥する。

 そうだったのか。我慢のし過ぎで……って待てよ。だったら両親にも自覚があるはずではないのか? 厳しく教育しすぎた、とか。

 だが、瑠衣の両親はおどおどと互いに視線を交わすばかりだ。


 瑠衣の胸中で、何が起こっていたというのだろう?

 今ここにいる人間の中で、冷静沈着なのは谷ヶ崎先生ただ一人。それも、今まで俺が見たことのないような鋭い目つきをしている。


 すると、俺たちの呼吸の合間を縫うようにして、先生はこう言った。


「愛川瑠衣さん。もしかして、あなたは幸せ過ぎたんじゃないかしら?」

「……えっ?」


 その声を漏らしたのは瑠衣本人だ。


「快適な住空間、理解のあるご両親、失われることのない笑顔。それは素晴らしいもので、誰にも奪うことの許されない、かけがえのないものだわ。でも、あなたはそれに満足する一方で、もしかしたらどこかでそれらがなくなってしまうのではないかと心配し始めた。違う?」


 無言で瑠衣はこくり、と頷いた。


「そんな、瑠衣ちゃん!」


 母親が立ち上がり、テーブルを回り込んで瑠衣の下へやって来た。


「母さんたちがあなたを見捨てるとでも思ったの? それとも、借金を抱えて大変な目に遭うと思った?」

「そうだぞ、瑠衣!」


 父親もその場で立ち上がる。


「父さんたちが突然事故で死んでしまうとでも考えていたのか? そんな、縁起でもない!」

「そう言って否定なさるのは、いかがなものでしょう?」

「何ですって?」


 父親の顔に、徐々に血が上り始める。


「どういうことですかな、先生?」

「私はあなた方、瑠衣さんのご両親を責めるつもりはありません。しかし、可能性が皆無ではない。そう申し上げたいのです」


 先生もまた立ち上がった。


「事故も事件も疾病も、いつどこから襲ってくるか分かりません。普通の人間なら、そんなことはあり得ないと一蹴するところでしょう。しかし、可能性が零ではない以上、考え込んでしまう人間というのは一定数存在するのです」

「それがうちの瑠衣ちゃんだと……?」

「仰る通りです、お母様」


 それに、と先生は付け加えた。


「瑠衣さんの場合、失われるのを最も恐れているのは、ご両親の愛情です」

「愛、情……?」


 父親が呆然と呟く。


「左様です。先述した通り、瑠衣さんは大変恵まれた環境で育てられてきた。だからこそ、それが失われた時のことが恐ろしくてならないのでしょう」


 もし私が間違っていたら言ってね。

 先生はそう言ったけれど、瑠衣は俯いたまま。否定しようがないのだろう。


「う、失われるって言っても、どうやって……?」


 呆然と呟く母親に向かい、先生はかぶりを振った。


「それは分かりませんし、瑠衣さん自身も具体的に想像しているわけではないでしょうね。しかし、その恐れが皆無ではないということは申し上げておくべきかと」

「じゃあ……じゃあ我々は瑠衣のために何ができる? どうすれば瑠衣の心の平安を取り戻せるんです?」


 父親が、ずいっとテーブルの上に身を乗り出して尋ねた。もちろん先生は動じない。


「然るべき医療機関に相談することです。心療内科や精神科、NPOなどでも活動は活発です。こちらに、市内の関係機関のリストがあります。これを参照して――」

「ちょっと待ったあああああああ!!」


 突然響いた大声に、五人全員がドアの方を振り返った。

 バン! と勢いよく開かれたドアの向こうには、三人の制服姿の女子高生。

 言うまでもなく、朔実・潤子・美幸である。


「ちょっとあんたたち! なんでここにいんのよ!」


 先生は今までの冷静な態度をかなぐり捨て、三人を怒鳴りつけた。


「まあいろいろあって、ついて来させていただきましたの。わたくしたちが、瑠衣さんのお力になる機会がないものかと思いまして」


 最も落ち着いた態度の潤子が、淡々と説明する。


「あたいらも一枚噛ませてもらうぜ! 可愛い後輩のピンチだからな!」

「面倒事は嫌いだけど、部員が減ったら大変だからねー」


 朔実と美幸もそれぞれ持論を展開する。

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