第28話【第六章】

【第六章】


「はい、はい……。ご主人は午後八時には戻られるのですね? かしこまりました。ではその時間帯にお伺いいたします。夜分に申し訳ありませんが……」


 谷ヶ崎先生が、瑠衣の母親と電話で話している。アポを取って、瑠衣の自宅に乗り込むつもりらしい。

 どうやら瑠衣の両親も、昨日の瑠衣の暴力沙汰について危惧しているらしく、学校の先生と話し合いの場を持てるならとあっさり了解してくれた。

 問題は――。


「あたいも! あたいも連れてってください、先生!」

「わたくしも参りますわ。部長として、部員の危機に黙ってはいられませんもの」

「じゃ、あたしも行こうかなー。仲間外れは嫌だし」


 以上、朔実・潤子・美幸の発言だ。


「ちょっと皆! 夜遅くになるのよ? まあ、皆を車でご自宅に送り届けるっていうのは苦じゃないけど、いくら何でもこの人数で瑠衣さんのご自宅に押し掛けるのは――」


 先生が難色を示すのは当然だ。ここは先生に任せて、生徒である僕たちは素直にいつも通り部活をやって、帰宅するべきではあるまいか。


 いつもの俺ならそう思っただろう。だが、今の俺は『いつもの』ではない。

 愛川瑠衣の幸せを願い、達成する。その思いを胸に秘めた一人の男子高校生だ。座して先生任せにすることなど、端から考えてはいない。


 そう思って腰に手を当てた、その時だった。

 何かが、俺の学ランの袖に触れた。そっと見てみると、瑠衣の白くてか細い指が、その先で俺の袖を掴んでいる。


 すっと視線を上げる。

 その先にあったのは、瑠衣の丸くて大きな瞳だ。涙の膜が張っているのがはっきり分かる。

 しかし、口は真一文字に結ばれており、決して自分は退かないと主張しているようだった。


 何について退かないのか? 尋ねるまでもない。

 瑠衣は、俺に同伴を求めているのだ。

 俺はその手を、そっと自分の掌で包み込んだ。昨日、瑠衣が駅の警備員室でそうしてくれたように。


「茂樹くんの同伴をお望みなのね、瑠衣さん?」


 先生が尋ねてくる。気づいた時には、皆の視線が俺と瑠衣に集中していた。それでも、瑠衣は俺の袖から手を離そうとはしない。

 ぴたりと動きを止めてしまった皆の中で、先生だけがうんうんと頷いていた。


「先生だけじゃ心細いわよね、瑠衣さん。分かるわ、その気持ち。お姫様をエスコートする王子様がいないとねえ」

「王子様……って、まさか俺ですか?」

「あなた以外に男性っていないでしょ、この場に」

「そ、そりゃあそうですけど」

「決まりね。茂樹くんは先生と一緒に瑠衣さんのご自宅に伺いましょう。それまでは作戦会議ね。この時期には惜しいけど、今日の部活は個人錬にして、各自自宅で呼吸の確認と楽譜の再チェックをよろしく。さ、瑠衣さんと茂樹くんはこっちへ」


 先生が腕を伸ばす。その先にあるのは音楽準備室だ。どうやら先生を含めた三人で、作戦会議といくらしい。


 俺は急に、胸にぽっかり穴が空いたような、そしてその穴を冷風が通り抜けていくような感覚に囚われた。

 これはきっと不安だ。瑠衣の役に立てるかどうか――守ってあげられるかどうか、自信がないのだ。さっきまでの決意が、一瞬で不安に切り替わってしまった。

 

 俺は思わず俯きそうになったが、しかし、すんでのところで持ちこたえた。

 今までだって、俺は合唱部の皆を助けてきたじゃないか。朔実も、美幸も、潤子も。

 だったら、瑠衣に関してだけ失敗する、すなわち助けてあげられないという理屈はあるまい。


 気づいた時には、俺は言葉を発していた。


「俺も瑠衣さんのお宅に伺います。目撃者ですし、僅かとはいえご両親と面識もありますから」


 そう告げると、先生は満足げに頷き、今日の部活の解散を申し出た。


         ※


「先生、どうせ今日の部活をやめるなら、別に音楽準備室に来ることもなかったんじゃ……」

「あら、ご不満かしら、王子様?」

「王子様はやめてください」

「あら、ごめんなさい。でもここの方が、三年十組より狭くて落ち着くと思ったのよ。飲食はできないけどね」


 狭い空間で話し合うことに俺が困った、というか落ち着かなくなった理由。

 それは単純に、瑠衣との物理的距離が縮まるからだ。

 ドキドキが止まらなくなってしまう。辛うじて冷静に物事を考えるように努めているが、時折ふわりと柔らかな香りが瑠衣の方から漂ってきて、俺の脳みそを揺さぶる。


「あ、そうそう。ちょっと資料を借りてくるから、二人共ここで待ってて頂戴」

「え?」

「瑠衣さんのご両親と真っ向勝負するんですもの、理論武装は必要でしょ?」


 そう言うと、先生はパイプ椅子から立ち上がって颯爽と音楽準備室を後にしてしまった。


 一体どこへ、何を借りに行ったのだろう? って、そんなことより。


「……」

「……」


 俺は非常に気まずい状況に置かれていた。

 先生が退室するや否や、残された俺と瑠衣の間に話すネタがなくなってしまったのだ。


 恋愛経験の微少な俺に、一体何を話せと言うのか? 桃太郎の産まれた桃のように、有難く話題が流れてくることなんてないんだぞ。

 さらに言えば、俺が感じているのは緊張だけではなかった。今までも心の中で垣間見えていた、胸が跳ねるような感覚だ。

 それが今、まさに手の届くところにある、という幻想に陥っている。


 いや、本当にこれは幻想か? もしかして、俺は本気で瑠衣のことが好きで、その想いを伝える絶好の機会に恵まれているんじゃないか?


 俺はちらり、と眼球だけを動かして瑠衣の方を見遣った。

 瑠衣のつぶらな瞳が再び視界に入る。かと思われた直後、瑠衣の方から片腕を俺に伸ばしてきた。完全な奇襲だ。

 

 ぱしっ、と軽い音を立てて、瑠衣の手が俺の学ランの肘あたりを掴む。


「え? あ、あの、瑠衣、さん……?」

「呼ばないで」


 いや、そう言われても。


「私に『さん』なんかつけないで。瑠衣って呼んでほしい」

「で、でもそれって、呼び捨てってことじゃ……」


 胃袋の内側で汗をかくような思いで、俺は瑠衣の言わんとすることの理解に努めた。

 でも、異性を呼び捨てに? それって幼馴染か、あるいは恋人同士にだけ許される禁断のフレーズではないのか。


 俺の脳内はさっきから疑問で溢れかえり、もうこめかみのあたりから零れ落ちそうだった。しかし、俺は危ないところで助かった。

 先生が意気揚々と帰ってきたからだ。


「お待たせ、二人共!」

「ど、どうも……」


 ふう、どうなることかと思ったぜ。

 だが、先生はこの部屋に満ちた摩訶不思議な雰囲気を確かに感じ取ったようだ。


「むむ、リア充っぽい色素が漂ってるわね」

「何なんですかそれ!」


 色素が漂うって、よっぽど危険な物質じゃないのか。

 それはさておき。


「図書室に行って、知識を頭に叩き込んできたわ。瑠衣さん、これはあなたのご両親にもお話しようと思ってることなんだけれど、聞いてくれるかしら?」


 瑠衣は答えず、しかししっかりと頷いてみせた。


「心理学のコーナーを読み漁っていたんだけれど、先生が思うに――」


         ※


「――というわけなのよ」


 先生の解説は解りやすく、また、的を射たものでもあった。浅学な俺に言えたことではないけれど。

 解説に要した時間は約三十分。これなら瑠衣の両親も、集中して聞いていられるだろう。


 俺も瑠衣も、先生の説明途中に口を挟むことはなかった。だが瑠衣は、大きく頷いたり、眉間に皺を寄せたりして、先生の言葉に常に反応していた。

 当たっているか否かはどうあれ、どうやら先生が頭に積み込んできた知識は、範囲としては瑠衣の心境と見事に被っていたらしい。


 既に外は橙色から群青色に変わりきっていて、目的の時刻が迫っていることを示していた。


「瑠衣さんのご自宅までは、車で大体四十分くらいね。それまでどこかで何か食べましょうか。先生が奢るから。千円以内ならね」


 そう言ってパチリとウィンクをキメる先生。やたら様になっているな。

 俺は家に連絡するべく、退室して携帯を取り出した。家の固定電話の番号を入力する。


 いや、待てよ。

 ここで母に、どうして遅くなるのかを説明するのは面倒だ。だったら聡美に連絡するか。

 俺はアドレス帳をスクロールさせ、聡美の携帯番号を選択した。


《もしもーし、兄ちゃん?》

「ああ、聡美。突然悪い、今日は帰りが遅くなるんだ。父さんと母さんにも言っといてくれ」

《何かあったの?》

「何もなかったら今頃家に帰り着いてるよ」

《ふぅん?》


 しまった。聡美の好奇心を刺激してしまったか。これでは根掘り葉掘り詰問されても仕方あるまい。

 と、思ったものの、聡美の反応はドライだった。


《ま、兄ちゃんにもいろいろあるんだろうけど、取り敢えず気をつけてね》

「お、おう。サンキュ」

《それと、頑張って! ファイトだよ!》

「は?」


 それがどういう意味なのかを尋ねようとしたところで、通話は向こうから切られてしまった。


「頑張ってって、何をだよ?」

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