白昼夢

夏蜜

白昼夢

 梅雨の明けた七月下旬の天候は、それまでの鬱陶しい雨空を徹底的に追いやったような晴天が続いた。アスファルトはボイルした鍋に近い熱を吐き、陽炎の向こうでは家並や木立が揺らいでいる。

 私は差していた日傘を肩に挟んで、ミニトランクからハンカチを取り出した。首筋を軽く拭うものの、頭髪から噴き出す汗はワンピースへも滲みていてとどまることを知らない。風は一切吹かず、真昼の太陽が人通りのない路上をジリジリと焼きつけた。都会とは違う田舎特有の静止した日陰が、行き場ない暑さを和らげている。

 駅からしばらく歩き続け、今さらながらタクシーを使わなかったことを後悔した。中学生の時以来、帰ろうともしなかった町の景観は、記憶よりも遥かにひとつひとつが遠い。郵便局の角を曲がり、駄菓子屋があって、小学校と中学校が斜向かいに建っていて、石段を昇った先にかつて住んでいた借家と、モミジアオイの咲く馴染みの家がある。頭の中では地図を描けているのに、私はまだ郵便局の建物にすら辿り着けていない。

 遠景にばかり気をとられている私の前を、どこからやって来たのか二頭の蝶が戯れていた。小ぶりな白い羽を器用に羽ばたかせる紋白蝶は、互いに絡み合いながら路上を過ってゆく。手を差し伸べると、蝶たちは指の間をするりとすり抜け、目で追うより早くまたどこかへ姿を消してしまう。途端に強い日差しに対して眩暈を覚えた私は、いったん道を逸れて、より陰の濃いほうへ足を向けた。

 路地を折れた先に草木の生い茂った場所を見つけ、ひと休みしようとして中央のベンチにふらふらと寄りかかった。公園は見渡す限り緑一色であり、頭上は枝葉で覆われながらも真っ青な空が葉群れを通して垣間見える。瞼を閉じると蝉の声がひときわ鮮明に聞こえてきて、ついに私は寝転んでしばらくそうしていた。都会での生活疲れがどっと抜けてくるようである。

 傍らに気配を感じてうっすら瞼を開けると、いつからいたのか見知った顔が間近にあった。彼女は心配そうな面持ちで私を見下ろし、何かしら反応を示すのを辛抱強く待っているふうである。私はどう応えたらよいのか迷ったあげく、小さく口を動かして名前を呼んだ。

「……あおい」

 その瞬間、彼女の表情には安堵の色が浮かぶと同時に、私の頬に冷たい感覚が押し当てられた。暑さに耐えかねて横になっていた私は思わず短い悲鳴をあげて上体を起こす。葵衣の手には水滴を帯びた缶ジュースが二本握られており、視線を共有した彼女はようやく笑顔になって隣に腰を下ろした。

 プルタブを引くと軽快な音が響き、二人で缶ジュースに口を付けた。葵衣はよほど喉が渇いているのか、ごくごくと炭酸ジュースを一気飲みする。ああ、彼女もこんな真夏日には暑く感じるんだな、と私は素朴な感情を抱く。汗など少しも滲ませない姿からは信じられない光景だ。私は喉の奥で気泡が次々と消えるのを楽しみ、暑さ負けした体をいくらか涼しくした。

 私と葵衣は特に言葉を交わすわけでもなく、間延びした昼の緑陰に居座っていた。彼女はスクールバッグから取り出した小説に読み耽って、輪郭の綺麗な横顔を木漏れ日に晒している。セーラー服から覗く手足は夏だというのに日焼けもせず、はっとするような白い肌は、この季節と逆行した耀きを奇妙に放った。

 木漏れ日は絶え間なく降り注ぎ、ゆったりとした時間が流れてゆく。少しばかり葉擦れが聞こえ、葵衣は不意に顔を上げた。彼女は私が見つめていることに気付いたのか、こちらへ振り向いて微笑みを寄越す。私は奥へ進むほど深い琥珀色の瞳に魅せられ、しばらく見合っていた。

 どこからともなく紋白蝶が現れ、私たちの間を過ろうとする。先ほど見掛けたつがいが辺りに潜んでいたらしい。葵衣はおもむろに手を伸ばして片方を呼び寄せようとした。だが、蝶は彼女から逃れるように不規則に動き回って、一向に止まる素振りを見せない。やがて、つがいは私たちの側から離れて、気ままに飛び交いながら緑の陰に紛れた。私は慰めようとして、いつまでも名残惜しむように掲げたその手を両手で包み込んだ。確かに包んだはずなのに、葵衣の姿はすでになく、恐る恐る開いた両手には鱗粉が広がっているだけであった――。


 自分の知らないうちに、私は目に涙を溜めていた。まだ白昼夢から覚めやらず、残念そうに空を見上げる美しい横顔を、未だ眺めているような気分だった。鈍く回転する頭を起こし周りを見渡しても、ベンチには自分以外いないのだと改めて確認する。蝉がけたたましく鳴き出し、周囲は熱気に満ちた。私はしばらく呆然としていたが、急に何もかもが取るに足らないことのように思え、薬指にはめていた結婚指輪を叢に投げ捨てた。あんなに未練がましく着けていたのに、手放した今はむしろ清々した気持ちになっている。

 ふと足元を何かが掠めた。一頭の紋白蝶が白詰草の絨毯で楽しげに飛び回っている。私はそっと手を伸ばして、遊び終わるのをじっくり待った。蝶は気分を変えてくれたのか、逃げることもなくやっと指先に止まってくれる。

「……私、あの日から貴女のことをずっと心の奥に仕舞ったままだった。倍も歳をとるまで思い出そうともしなかったの。ごめん、ごめんなさい」

 葵衣はベンチにいる私の隣でゆっくりと首を横に振った。私はその穏やかに自分を映す、琥珀色の眼差しを求めていたのだ。もう一方の蝶が彼女の掌から飛び立ち、片割れを伴って仲良く絨毯を駆け始める。葵衣はその姿を微笑みながら眺め、私に寄り添った。

「さあ、一緒に帰りましょう」

 私は葵衣の手を強く握ると前方へ駆け出した。

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