第2話
私は、この電話に出るべきなのだろうか。
スマホの振動は、なかなか終わらなかった。すぐに終わってしまえば、気づかなかったふりをすることだってできるのに。早く止まって、早く、はやく、はやく。お願いだから、私にそんなことを要求してこないで。
しばらくして、振動は止まった。体からふっと力が抜け、自分が無意識の内に体を強張らせていたことに気づいた。けれど次の瞬間、今度は動揺にも恐怖にも似つかない感情が李絵を襲ってきた。
私は咲に彼氏がいることを知ってしまったけれど、咲はきっとそれを知らない。私は気づかないふりをして、今まで通りの態度を続けることもできるのだ。
だけど一瞬そう考えて李絵はやめた。そうするのは咲にとっては楽かもしれないけれど、私にとっては、とてつもなくつらい。私はもうこれまでのように咲に接することはできない。
再び電話が鳴った。また咲だ。
今度はさっきのように動揺することはなかった。李絵はただ、静かにスマホが震えるのを見ていた。
李絵は咲のことが嫌いになったわけではない。自分が嫌になったのだ。
しばらくして、観念したようにスマホの震えが止まる。
李絵はスマホの電源を切ろうと電源ボタンに指を滑らせた。するとボタンを押す直前に、また電話が来た。
きっと咲だろう。そんなに急ぎの用でもあるのだろうか。
けれど予想は外れた。スマホの画面に映っていたのは、ただの数字の羅列だけだった。
一体誰からだろう。不審に思ったが、なんとなく出なければいけないような気が直観的にした。
慎重に、電話に出る。
「……はい」
「安堂さん?安堂さんだね?!」
その声を聞いた途端、李絵は驚きのあまりスマホを取り落としそうになった。
「狩野君……?!」
その時、李絵は分かってしまった。嫌でも分かってしまった。
咲だ。咲が番号を教えたんだ。
全身を這うように寒気が襲う。吐き気がするほどだった。
咲は知ったのだ。李絵が狩野君の存在に気付いたことに。そして電話をかけてきた。しかし何度かけても李絵は出ない。
そこで咲は恋人に相談した。親友が電話に出てくれない。あなたからかけてみてほしい、と。狩野君はそれに応じた。
この場で、電話を切ってしまいたいと思った。
せっかく、せっかくクラスが離れたと思ったのに。せっかく、もうこれで話さなくて済むと思ったのに。もう、嫌なのに。
こんなのずるい。自分の彼氏を出してくるなんて。これじゃあ、私には何もできない。
「安堂さん、安堂さん」
「……咲が、いるでしょ」
長い間泣いていたせいで、声がかすれていた。え、と狩野君がもらす。
「いるんでしょ、咲がそこに。お願い、代わって」
がさがさと、向こうの音が聞こえる。咲はすぐに出た。
「李絵」
咲の声は、李絵の反応を慎重にうかがうように小さかった。まるで、自分が罪を犯したとでも思っているようだった。
当たり前だろう。彼氏ができたら報告しよう、と私達は話していたんだから。咲はそれを破ったんだから。李絵が怒っていると彼女は思っているのだろう。
でも、それは違う。怒りの感情など、李絵の中では皆無に等しかった。別の感情の方が、怒りなんかよりもはるかに大きかったからだ。
「お願い、全部なかったことにして」
李絵が言うと、咲が息を呑んだのが分かった。彼女が何かを言おうとしたのを、遮るつもりで続ける。
「私、咲のことが好きだよ。でも、自分のことは今日、嫌いになった。私、最低な人間だ」
「李絵」
あなたには何も言わせない、絶対に、何も言わせない。
もう決めた。李絵の心をずるずると黒い何かが覆った。
やけくそではなかった。自分のことをこれ以上嫌いにならないためだった。それを自覚しながらも、それがどれほど身勝手な行為なのかは自覚していなかった。自分のために、全部話して、終わりにしようと決めていた。
「私、咲は私と同じレベルなんだとずっと思ってた。この意味、分かる?私達はブスで、地味で、男にモテない。自分達は勉強ができて頭がいいから、友達少なくてもモテなくてもいいんです、っていう顔して生きてる」
「李絵! 何言って」
「私」
今日で、全部終わりだ。咲との仲はこれで終わりだ。そう思いながら、言う。
「私、でも気づいたんだ。咲は私と違うよ。私はモテないしセンスないけど、咲はきちんとモテるし可愛いんだ」
もう建前なんかいらない。
「私、咲のことを見くびってた。本当に最低な人間だよ! 咲はもう、もう私なんかと友達でいる必要なんてないんだよ!」
「……李絵、お願い、そんなこと言わないで」
咲の声は震えていた。
「李絵、私、李絵と直接会って話したい。きちんと謝らせて」
「もういいよ、なんでそんなの」
「私」
咲の声がそこで一度途切れた。こんなに怯えたような彼女の声は初めてだった。
「私、今、李絵の家の前にいるの!お願いだから、出てきて!!」
え、という声が、喉元までせり上がった。
李絵はゆっくりと、部屋のカーテンを開け、地面を見下ろした。
そこには、制服姿の咲と狩野君が立っていた。
―嘘。
体が硬直する。一体いつからいたの?
お願い、と咲の声が聞こえた。咲は泣いていた。
「―お願い、李絵」
電話の声に合わせて窓越しの咲の口が動くのが見えた。
咲の姿を見て、今までの記憶が頭を巡っていった。
たわいもない会話で、一緒に笑ったこと。夜遅くまで時間を忘れるくらい夢中で電話で話したこと。全部、本当に楽しかった。
その瞬間、李絵の心の中にあった黒いものが、すうー、と消えていった。李絵は駆け出していた
階段を、踏み外してしまいそうになるくらい速く駆け下り、玄関へ向かう。鍵を開けるのが、もどかしかった。
「咲!」
走って、走って。
李絵は、咲に抱きついた。
「李……絵」
強く、強く抱きしめる。お互いに、もう訳が分からなくなるくらい、泣いていた。
「咲、ごめん、ごめんね、さき」
うううう、と咲が泣いていた。
私、と咲が涙を流しながら話す。
「私、李絵とはもう終わりになっちゃうのかと思って、本当に不安で。でも裏切ったのは私だし、今更謝るのも卑怯な気がして。でも」
咲が顔を上げる。ぐしゃぐしゃになった顔でも、しっかりと、李絵を見つめて言った。
「でも、卑怯だとか思う以上に、李絵と友達でい続けていたいと思った。……本当に、ごめんなさい」
李絵は咲の顔を見た。ついさっきまで、私はこの子を切り捨てようとしていたのだ。
でも、ようやく気づいた。それがとても、愚かなことだったということに。
李絵は言う。
「でも私、全部話しちゃったよ。今まで思ってたこと、全部。本当にひどいことを言った」
後ろめたさでいっぱいになる。親友に向ける顔がなくなって、うつむいた。
ブスだとか、モテないだとか。本当に、ひどいことを。
すると咲は言った。
「李絵は、可愛いよ」
びっくりして、李絵は顔を上げた。
初めて、だった。面と向かって、可愛いと言われるなんて。
本当だよ、と咲が言う。ゆっくりと、諭すように、言う。
「嘘なんかじゃない。あなたはもっと、自分に自信を持っていいんだよ。自分を蔑むことなんてしなくていい。誰が何と言おうと、あなたはあなたでいいんだから」
一語一語が、李絵の心に突き刺さった。
私は、私のままでいい。本当に? 今の、私で?
咲が叫ぶように言う。はっきりと、言った。
「李絵は、私の友達なんだから! 李絵のことは、私が一番わかってるの!」
友達。
ああ、そうだ。
今更ながらに思う。
誰が何と言おうと……。目の前のこの子は、私の友達だ。
「李絵。……ありがとう」
涙が止まったと思ったら、今度は笑いが止まらなくなった。
本当に、良かった。
咲が、友達でいてくれて。本当に良かった。
心から、そう思った。
「りーえー! 早くしないと遅刻しちゃうよー!」
スマホから、咲の声が聞こえてくる。李絵は大急ぎで制服の袖に腕を通しながら机に置いたスマホに向かって叫ぶように聞いた。
「ごめーん、今何時ー?」
「8時! ヤバいよ!」
それはヤバい。
慌てて荷物をまとめて、階段を走って降りる。玄関を開けると、咲と狩野君が待っててくれていた。
「走るよ! 全速力で!」
「うん!」
3人で、猛スピードで走る。咲が言った。
「新しいクラス、もう慣れた?」
「あー、どうだろう。まあまあ慣れてきたけど、友達がまだできなくて」
李絵が答えると、咲が驚いたように言った。
「何言ってるの。李絵には狩野がいるじゃん」
「え?」
反射的に、隣の狩野君を振り返る。狩野君は、ははっ、と笑った。
「そうだよ、安堂さん。僕のこと忘れちゃ駄目だよ」
「でも、狩野君は咲の彼氏じゃ」
何言ってるの! と咲が言う。
「そりゃ、狩野は私の彼氏だけど、同時に李絵の友達でもあるんだよ! 仲良くしなさい!」
狩野君を見る。狩野君も言った。
「安堂さん。これから、よろしくね」
嬉しさがこみあげてきた。私も、言う。
「うん! よろしくね!」
教室の扉の前に立つ。扉越しに、クラスメイトの笑い声が聞こえる。
李絵は扉を開ける。もう、あの日のように怯えることはなかった。
友達が、いるから。友達が、どれほど自分を支えてくれているか、気づいたから。
だからもう、怖くない。
春と友情 各務あやめ @ao1tsuki
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