春と友情

各務あやめ

第1話

 4月。新学期が始まった。

 新しいクラスの名簿が掲示された廊下では、ざわざわと多くの生徒が群がっていた。友達と一緒のクラスになれて手を取り合って喜ぶ生徒や逆に落胆している生徒。

 安堂李絵は息を呑んで掲示を見た。しかし次の瞬間、大きなため息をついた。

 咲と違うクラスになっちゃた……。

 李絵たちの中学は、2年生から3年生になる時にクラス替えをしない。つまりこれから2年間、咲と違う教室で生活しなければいけない。それに咲とは部活も違うし、クラスが離れてしまえばもう接点がない。

 李絵はとっさに咲の姿を探した。せめて一緒に悲しいね、と言い合いたかったし、クラスが離れても友達だと確認し合いたかった。

 しかし、辺りを見回しても、親友の姿はどこにもない。まだ登校していない……? それとも、もう新しいクラスの教室へ行ってしまった?

 他に話せるような親しい友達もいない。後でスマホで連絡すればいいか、と思うけれど、どこか煮え切らない気分だった。

 どうやら私は新しい友達を作るしかなさうだ。ちょっと勇気がいるけれど、まずは近くの席になった人に話かけて、友達になってみよう。

 そんなことを考えながら、新しい教室へと向かう。

 教室の前に立つと、生徒たちの声が扉越しに聞こえてきた。きゃははは、と笑っている。わずかな緊張と期待が心を包むのを感じる。ゆっくりと、教室の扉を開いた。

「こーんにーちはー! 私は蒔田ひなり! あなたの名前はー?!」

 突然の声に、思わずぎょっとする。ショートヘアで健康的に日焼けした肌の活発そうな女子だった。

 李絵は人見知りだ。初対面の人を前にすると、反射的に体が固まってしまう。この時も、ああ名前を聞かれているのか、とワンテンポ遅れて反応した。

「あ、安堂李絵です……」

「リエちゃんね! これからよろしくー!」

 よろしくね、と李絵が返す前に、彼女は別の友達のところへ行ってしまった。どうやらクラスの人全員に自己紹介をしているようなのだと気づく。

 ああいう人はいいな。きっとすぐに新しい友達を作れるんだろうな。

 入ったばかりの新鮮な教室を見渡す。もうすでにほぼ全員が揃っていて、3、4人くらいずつのグループの島がいくつも作られていた。

 新しい友達を作ろう、と意気込んでいたついさっきの自分が嘘みたいに思えてしまう。賑やかな教室の中で、たった一人でいる自分が、孤立しているように感じた。自分と周りに透明な壁があるように感じて、すうぅっ、と心がしぼんでいくようだった。

 咲と会って話したい。

 学校が終わったら、咲に連絡しよう。咲も友達は多い方じゃない。私と同じで、人見知りだ。クラスが変わって寂しいと感じているのは私だけではないはず。クラスが違っても、友達は続けられるはずだ。

 そう、思った。


 学期始めは、午前中で学校は終わる。今日も昼前に帰れるようだ。

 帰りの会が終わり、教室がざわざわと騒がしい。李絵は荷物をまとめ、教室を出ようとした。

「あの、安堂李絵さんだよね?」

 声をかけられ、李絵は足を止めた。声の主を振り返るが、見覚えのない顔だ。

 李絵は首をかしげる。

「えっと……。あなたは?」

「あ、僕は狩野慎吾。よろしくね」

 丁寧な言葉遣いをするのだな、と思った。自分のことを「僕」と呼ぶあたり、落ち着いた性格の持ち主なのだろう。

 眼鏡をかけた、真面目そうな男子だ。色白で背が高いが、どこか気弱な印象を与える。

「あの、どうして私の名前を知ってるの?」

「ああ、ごめん。安堂さんのことは色々聞いてるんだ」

「え、き、聞いてるって?」

「あれ、安堂さんこそ聞いてないの?」

 狩野君は意外そうに目を丸めた。

 話が見えてこない。誰かが私のことをこの人に伝えているのだろうか。でも、一体、誰が?

「僕は咲からいつも聞いてるよ。安堂さんは、咲の親友なんだよね」

 狩野君が話す。

 ああ、咲がか。なるほどね。李絵は一瞬納得しかけるが、頭で何かが引っ掛かった。

「な、なんで咲が、狩野君に私のことを?」

「え、安堂さん、本当に何も聞いてないの?」

「聞いてないって、何を?」

 話しながら、ふと李絵の頭を嫌な予感がかすめた。

 いけない。これ以上聞いてはいけない。咄嗟にそう思ったけれど、遅かった。

「僕、咲と付き合ってるんだ」

 さらりと、自然な口調で、狩野君は言った。

 瞬間、李絵の意識から音というものが消えた。

 ぐらあん、と頭が揺れる。それと同時に、さあーっ、と体の芯が冷えていく。

 嘘。嘘、嘘。

「あ、安堂さん?大丈夫?」

 急に黙った李絵を心配したのだろう、狩野君が李絵の顔を覗き込んできた。

 大丈夫、と短く答える。

「ほ、本当に?顔色、悪いよ?」

「大丈夫だよ。じゃあね」

 李絵はそう言い、足早に教室を去った。

 狩野君が李絵を呼び止める声が聞こえたような気がしたが、止まれなかった。少し気を緩めれば涙が出てきそうだった。

 校門を出て、走って家に向かう。

 ―咲に彼氏がいた。

 ごたごたに乱れていく頭の中を、過去の記憶が通っていく。

 3、4か月も前のことではない。鮮明に李絵はそれを覚えていた。


「ねえ、李絵って彼氏とかいいるのー?」

 ある日の会話で、咲はそう突然聞いてきた。

 彼氏なんて、一部の子だけが味わえる特権だ。李絵たちのクラスでも彼氏がいる子なんて1人、2人くらいしかいない。そういう子たちは大抵すごく可愛くて、友達もたくさんいる。勉強ができるとか真面目だとかとかそういう「大人から褒められること」ができなくても、周りの目を引くような生まれ持った幸運の華やかさでモテるのだ。李絵たちは勉強はできても、美人な訳ではない。クラスの中心にいるそういう目立つ子達を羨ましいと思いつつ、自分には無理だと諦めている。そう言うと聞こえが悪いけれど、他に自分を保つものが李絵たちにはあるということだ。そしてそれは多分、いつでも気軽に話せる女友達だ。

 だから、恋愛話など自分達には無縁だと思っていたし、二人の間ではその時までほとんどしたことがなかったから、李絵は咲がそう言ってきたことに少し驚いた。

「いるわけないじゃん、どうしたの急に」

「別にー。ちょっと聞いてみただけ」

「そう言う咲はどうなの」

 李絵が聞くと、咲はえへへ、となぜか照れたように笑った。その反応を見て、李絵は、はっと気づいた。

「もしかして咲、彼氏できたのっ?!」

「んなわけないないじゃんっ!」

 咲はおかしそうにきゃははっ、と笑った。なーんだ、と李絵は落胆する。

「とうとう私達にも春が来たと思ったのに」

「コミュ力低い私達には無理に決まってるでしょー」

「やめてよ、悲しくなるじゃん」

「そもそもこの学校には惚れるような男子は皆無だけどね」

 それ言えてる、と李絵が返すと、咲は笑いながら肩を組んできた。

「ま、もしも天地がひっくり返って私達に彼氏ができるなんてことになったら、その時はお祝いしようよ」

「いいね、約束だよ」

 鼻にかけた赤い淵の眼鏡の奥で、咲の目が笑っていた。そうやって二人で話しているのが楽しかった。


 でも、よく考えてみるとおかしかった。

 あの時咲が突然恋愛話を持ちかけてきたこと。彼氏ができたのかと李絵が聞いた時になぜか照れたような素振りを見せたこと。

 咲はあの時、本当は彼氏ができて、そのことを李絵に話そうとしたのではなかったのだろうか。話そうとして、でも李絵と会話をしている内に隠そうと気が変わったのではないだろうか。

 咲が彼氏のことを自分に黙っていたことじゃない。咲に彼氏ができていたこと自体に、李絵はショックを受けていた。

 荒くなった息を止めないまま、李絵は玄関の鍵を開け、2階の自室に走った。電気もつけないでベットに勢い良く倒れ込み、顔を突っ伏す。

 こんな感情は初めてだった。心がかき乱されているのがわかる。早くこの混乱から抜け出したくて、うわあぁん、と叫びながら側にあった枕を床に叩きつけた。力いっぱい投げたつもりだったのに、枕は静かに落ちただけで、頭が熱くなるほどイラつきが沸き上がってくる。感情のやり場がなくなって、体を丸めてシーツに顔をうずめると、目から涙が溢れてきた。

 李絵はその体勢のまま、涙を流し続けた。ただただ、泣いていた。


 どれくらいの間そうしていたのだろう。目が腫れて、鼻が赤くなっているのが鏡を見なくてもわかる。少し心が落ち着いてきて、顔を洗おうと身を起こした時、机の上のスマホが震えた。どうやら電話のようだった。

 誰だろう、と思って画面を見る。それを確認した瞬間、李絵の中で収まりかけていた感情が、再び暴れ出した。

 反射的に悲鳴を上げてしまいそうになる。もう嫌、嫌、やめて。

 電話の差出人は、咲だった。


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