5章
第15話 一と十(はじめと終わり)
「我慢強過ぎるでしょ」と、呻くように呟く秋桜に、
「ええ」と、ちゃんと返事をした筈だけど、吐き出す息に紛れてしまいそうな小声で一郎が答えた。
その日、大樹達探索班が外出した直後だった。
王の秘書役、十松一郎が倒れた。
既に起き上がれる状態ではない彼を、老人と女子供で布団に寝かせた。
既に呼吸が浅くなり始めている。死の直前だ。意識を保っているのが不思議なくらいの重症だった。
目が黄色い。
「肝臓?」
「肝臓癌が始まりで、全身に転移しています。」
誰が見たって黄疸だ。
もっとよく見ていればと、秋桜は思う。
駅ビルにはドラックストアも入っていた。
救うことは出来ない。医師もいない。看護師の自分ではどうにもならないし、恐らく余命宣告も受けていたはずだ。
どうにもならない。
でも‼
市販薬だが、痛み止めはある。
全身に癌が転移したなら、恐らく苦しかった筈だ、痛かった筈だ。
緩和ケアくらいなら出来たのに、と思う。
市販薬は、処方箋なしで買える分安全マージンをとってある。万が一の事故に備えてだが、この場合用法容量関係ない。
死なないぎりぎりまで薬を使えば、少しは楽にしてやれたのにと思っていると、
「氷の世界になる寸前まで、モルヒネ最大限に使ってました。何の薬も効かなかったと思いますよ」と、察した一郎に微笑まれた。
余計…悔しい…
命は平等ではない。生と死は紙一重で、助かったり助からなかったりする。
病院で働いていたんだ。分かっている。
でも…
悔しい…
唇を噛みしめる秋桜に、
「あなたは大樹さんに似てますね」と、一郎が笑った。
「え?王様に?」
「ええ。割り切ってそうで割り切っていない。優しくて無茶なところが似ています。
夏来さんもそうですね。」
「女王様も?」
「ええ…2人とも……優しくて……」
意識を持っていかれかけて、一郎の目から光が消えかけて、戻る。
死の世界に呼ばれている。
話すのも辛いだろう。
文字通り死にかけながら、
「大樹さんの回りには優しい人ばかりが集まる」と、呟く。
「私は…あと少し生きたいです。せめて大樹さんが戻ってくるまで…謝り…たいのです…」
「謝る?」
「ええ。…あなたにも、夏来さんにも、謝りたい。私が呪ったようなものですから…」
「呪い?」
「ええ…」
自分の命が、持って数か月と知っていた。
妻もこの世にはいない。子も大きくなった。
ならば残りを燃やし尽くそうと、モルヒネを飲みながら研究に明け暮れていた。
誰にも打ち明けなかった。
最期は予想外の展開だったが…
目の前で、『聖人』が生まれる瞬間を見た。
研究者として申し分ない最期は、巻き込まれた人物にはただの呪いだ。
あの優し過ぎる不器用な『聖人』を、支えることはもう出来ない。
役割だけを押し付けて勝手に逝く自分を申し訳なく思った。
「あなたも夏来さんも、この世界を維持していくための共犯者にしてしまいました。苦しい役を押し付けて先に逝きます。
大樹さんにも…謝りたい、の、…です…」
疲れ過ぎたのか、そのまま黙った。
一郎は浅く速い息を繰り返す。
そして…
途切れた。
「嘘…だろ…」
帰ったら側近が亡くなっていた。
声も出せない大樹は、ただ立ち尽くした。
一郎の亡骸は布団に寝かされたままで、周囲を人々が囲んでいる。
秋桜と夏来もいる。
皆悲しそうだ。一郎は博識で面倒見もよい。皆に愛されていたし、何よりこの氷原の王国初の犠牲者だ。
悲しいのは当然で、でも?
「ごめん。どうにもならなかった。」
悔し気な言葉とともに、秋桜が遺言を伝えてくれた。
呪い…
確かに呪いだ。
大樹は一郎を頼りにしている。父や祖父に抱く感情に近い。尊敬し、自分を導く存在として、その喪失感は限りない。
けれど…
今も他人からどう見えるか、考えている。
素直に感情を表せない、どうすれば『王』らしいか考えてしまうあたり、間違いなく呪いだ。
秋桜も夏来も悲しんでいるが、彼女らも与えられた役割をどこかで意識してしまうだろう。
素直に喜ぶことも悲しむことも出来なくなって、いつも空気が薄い気がする。
呪いだ…
相応しい動きがわからない。ただ感情に任せて泣き叫ぶわけにもいかない。
呆然と立ち尽くす大樹は、つまり限界だったのだろう。
後から来た空也が、
「おい‼しっかりしろよ、王様‼」と、元気づけるつもりだろうが、荒々しく背中を叩いた。
たったそれだけで糸が切れた。
膝からその場に崩れた青年の口から洩れた言葉は?
「もう、いいや…」
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