第10話 秋
人は環境やストレスで、様々な身体症状を見せる。
例えば、首が右にだけ回らなくなった女子高生がいた。
骨や筋に異常はない。整形外科的には訳が分からない。
しかし、アプローチの方法を変えると、意外な原因が潜んでいた。
首が回らなくなった頃、学校で席替えがあった。彼女が苦手としているクラスメイトが右隣りになったのだ。顔を見たくない、視界にも入れたくないあまり、通常の生活でも首がそちらにだけ動かせなくなった。
つまり、これもそういうケースなのかな?
ぼんやりと秋桜は思う。
周囲の人々が、熱に浮かされたように連呼する。
「王様‼」
「王様‼」と。
秋月秋桜(アキヅキアキオ)、25歳、女性。看護大学を出て、総合病院の外科のナースとなって4年目になる。
救急外来ではないから、あまり緊急手術などはない外科で、その日入院患者が急変した。明け方からオペとなり、1時間余りで成功、秋桜は1人手術室に残り後片付けを担当した。
秋桜の勤める病院は、都会の敷地のなさに対応するため、ひたすら高層化した病院だった。手術室は余計な人の出入りを避けて、最上階である13階に位置している。
そして、あの地震に遭遇した。
常軌を逸した揺れだった。跳ね上げられるような縦揺れに、シェイカーの中のような横揺れが続き、重たいはずの手術室の機材までもが動き回る。
正直『死』を覚悟して、意識を手放し…
次に目が覚めたのは、異常な寒さの中だった。
ペラペラの手術着では対応出来ない。春なのにコートが欲しい。そんなものは持っていないが、いっそ毛皮のコートが欲しいと思った。
「うん、…ダイジョブだな。」
打ち身はあるが、骨折などはしていない。
自分の体を点検してから、秋桜は固く閉ざされた自動ドアに向かう。いくら巨大な地震だろうが、病院には自家発電がある。
だから、全く想定していなかったが、
「え?」
外へのドアは開かなかった。
センサーは赤に変わっているし、反応している。電源が喪失したわけでもない。
意味が分からない。
「嘘でしょ‼ちょっと‼誰か‼」
叫んでも反応はないし、このままだと確実に凍死する恐怖から秋桜はドアと格闘し、30分ほどの悪戦苦闘の末、自動なはずのドアを全体重かけて引き開ける。
バリン‼と奇妙な音がした。
「……」
言葉が出ない。ドアは凍り付いていたのだから。
いや、13階全体が凍り付いている。
「確か…第6でも緊急手術が行われていたはず…」
呟いて駆け出した秋桜が見たものは?
衝撃的な光景だった。
まだ、秋桜自身津波だったとは気づいていないが、ドアは何者かに吹き飛ばされて壊れていた。医師も看護師も、そして手術中だった患者さえも、奥側の壁に固まっている(流された?)。
その形で凍り付いていた。全身に氷がついているから、水を被ったとわかる。
もう確かめる必要もなく、亡くなっていた。
「一体…」
何が起こったか想像する。地震の後は津波だが、でもここは13階だ。あり得ない。でも…
「‼」
急に思い出したのは、緊急手術を終えた患者のこと。連れて行った病棟の看護師、先に帰っていった同僚達。
秋桜は走って、階段を降りようとした。
しかし、降りられない。13階から数段降りた地点まで、びっちり氷が覆っている。
濁って見えないのが幸いだった。つまり、ここより下の階は?
ハッとして窓から覗いた、秋桜の前にあるのは一面の氷原だ。
「海面が上がって、凍り付いてるの?」
本来なら茫然自失すべきかもしれない。
けれどさすが看護師と言うか、理系脳の秋桜はまずは出来ることをする。
自分が閉じ込められた第1手術室は、水が通っていない。乾いた織布を回収し、脱脂綿その他も回収。
手術着に着替えるためのロッカーは水を被っていなかったから、同僚の男性医師のスニーカーを拝借する。中にサイズが合うまで布を詰め、即席の防寒靴にした。
ずぼらな医師が掛けっぱなしにしていたダウンコートも拝借する。
匂いが気になるが…
贅沢は言えない。
こうして秋桜は町に出たのだ。
遠く見える唯一残った高層ビル、サンシャイン60を目指して。
別に正義感に駆られたわけじゃない。
どう見ても普通の青年だ。自分と年も大差ないと思われる王様の化けの皮を剥ぎたいとか、それも思わない。
ただ真実が知りたい秋桜は、大樹と一郎を付けていた。
今1つ威厳の足りない、大木大樹と名乗った王は、
「女性と子供はこのビル内を捜索して下さい。生き残りはいないか、衣類、食料、必要と思われるものは何でも。
男性は外に行きましょう。無理は決してしないで下さい。あと、単独行動も厳禁です。
水の入らなかったビルがないか、氷の上に残った部分に使えるものはないか、捜索しましょう」と、つたないながらも指示を出す。
「夕方、ここで集合しましょう。じゃあ、解散。」
「おーっ‼」
人々は数人ずつでグループを作り、氷原の捜索に乗り出したのだ。
女性だからビルに残るべき秋桜も、王と、執事らしい初老の男性とのコンビを追いかける。
しかし、
「お出でよ。」
ビルから離れ、他人の目がなくなった途端、苦笑いの王様が手招きした。
どうやらかなり早くから尾行に気づいていたらしい。
「って言うか、下手過ぎだよ、尾行。丸分かりだった」と笑った、こちらが彼の素らしかった。
「俺、大木大樹。しがないカメラマンだ。」
「私は十松一郎、大学教授です。」
「秋月秋桜。」
「付けてきたって事は、君は奇妙なロジックにはハマっていないんだろ?」
歩きながら、一郎に説明を受けた。
聖人待望。
アジア人特有の思考回路だ。
時々氷上に突き出たビルを探る。中はぎっちり氷だった。
生存者は…いない…
「秋桜さんは、何をしてた人?」と尋ねられ、
「…」
言うべきか、秋桜は言葉に詰まる。
この状況で『看護師』と告白するのは、ひどく得策ではない気がする。
かといって、黙っているのは後ろめたくもある秋桜に、
「まあ、いつかその気になったら教えてよ」と、王と呼ばれる青年は鷹揚に流した。
それが王の器なのか、わからない。
ただ世界のために苦しみを背負い込むつもりらしい彼に、『協力する』と言おうと思った。
秋桜は周囲の人と違い、『聖人待望』に縛られていない。
けれど、ある意味空気を読んで、今あるなけなしの平穏を守らねばならないと思った時だ。
「あのさ、私…」
「あ、ちょっと待ってよ。あそこにも折れなかったビルがある。」
大樹が示す先に、氷原の上に1階分程度、頭を出したビルが見えた。
疲れているだろうに、身軽にそこに飛び乗った彼は、屋上にあるドアをこじ開ける。
息をのむ。世界が動き出した。
「一郎さん‼秋桜さん‼」
大声で叫んだ。
「人を呼んで来て‼このビル水が入っていない‼」
奇跡が起こった。
窓が1つも割れることなく、空間のまま残った建物が氷の下に存在する。
「俺は先に探索しとく‼早く、みんなを‼」
「わかりました‼」
「あ、うん。」
「お願いします‼」
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