第9話 氷原の王

 大樹も、他の生き残り達も知らないことだが…

 極ジャンプの津波は既存の尺度では測りきれない。

 地球が回転して起こる津波なのだ。

 海の全てが掘り起こされるような、高さより量が凄まじい。

 沿岸部を襲った津波は日本の中央にある山々さえ超え、逆側からの津波とぶつかっている。

 運のよかった場所など1つもなく、世界中余すことなく波に洗われた。

 更に今、かつて極東と呼ばれたこの国は…

 その全てが凍り付こうとしている。

  

 その朝、歴史学者である十松一郎(ジュウマツイチロウ)は大学の研究室に籠っていた。

 すでに老齢に差し掛かっている彼は、妻とは死別、子供達も独立しており一人暮らし。生来が研究バカであり、学生時代のように大学に泊まり込む日々を過ごしていた。

 その日も、手に入れたばかりの資料を読み込む内に朝になり…

 あの災害に遭遇したのだ。

 凄まじい揺れの中溜めた資料が降り注ぐ。本とはいえ当たれば痛い。何度も死を覚悟した。

 それでも辛うじて生き残った一郎が見たのは、青い壁だ。

 大学は小高い場所にあった。

 狭い敷地を生かすため高層化された構内の、比較的高い場所に研究室があった。

 近くの窓が割れなかった(偶然だ)。

 いくつかの幸運が重なり直接波を被らなかった一郎は、直後始まった寒冷化をも乗り越えられた。手近にあった、それこそカーテンまでむしり取って暖をとり、見る間に凍り付く世界を眺めた。

 彼のいた場所は氷原の上に残り、初めは構内で生き残りを探した。しかし、その全てが地震による圧死、そこを生き残れても急激な寒冷化による凍死を遂げていると確認し、一郎は外に出たのだ。

 一面平面となった東京。

 1つだけそびえ立つ、ビルが見える。

 導かれるように、そこへ。


 「わざわざ降りてきてくれたのですか、王様?こちらからお迎えに上がったのに。」

 常軌を逸した言葉を平然と吐いた、初老の男の目に狂気はなかった。

 「遠慮するなよ、息上がってんじゃんか。」

 大樹と一郎。2人が出会ったのは30階付近で、年齢の差と、上りと下りの差だったのだろう、より地上側に近い。

 意外にも肝の太い対応を見せた大樹に、

 「これはこれは、お気遣いありがたく…」と、更に下手な演技を重ねた一郎は、しかし耐え切れず少し笑った。

 「すみませんね。おかしなことに巻き込んで。」

 「いや、いいよ。でも、説明してくれ。一体何が起きているかを。」

 「私も推測ですが…」

 大学の東洋史の教授だという一郎によれば、東アジアには『聖人待望』という思想がある。

 敵に攻め込まれたり、災害に見舞われたり、日々の生活が苦しければ苦しい程、現状をごまかそうと発揮される。

 唯一1人の『聖人』を求め、彼(または彼女)の為ならまだ頑張れる、我慢出来ると自らをごまかす。

 「なんで俺が聖人なんだよ?」

 頭を掻きながら事態を飲み込もうとする大樹に、

 「おそらく1番高いところにいたせいですね」と、一郎。

 一郎自身も経験している。

 大学から遠く見えるビルに向かって、歩いて、歩いて、その屋上に人影を見つけた時、何故だろう、救われたような気がした。

 いつか昼になっている。高く上った太陽を背に揺れていた影に希望を見出し…

 「王様だ。」

 「大王だ」と、周囲の人の声を聞く。

 自分の心の動きも含めて、やっと合点する。

 これは『聖人待望』だ、と。

 15階まで下りた時、

 「すいません、12階が出口です」と、一郎が言い出した。

 「大樹君には申し訳ないと思っていますが…

 どんな災害が起きたのか、何がどうなっているのか、私達にもわかりません。

 しかし、生き残った人々がこの先も頑張れる格好の手段として、私はこの状況を利用すべきと思います。

 責任を押し付けて申し訳ない。けれど、おそらくは家族も友人もなくし、何もないままここにいる皆さんの、あなたは支えになれると思う。

 本当に、重ね重ね申し訳ない。でも、大樹君、あなたにこの世界の王になってもらいたく、」

 「わかったよ。」

 拒否権などなかった。

 ため息は我慢できなかった。大きく息を吐きながらも、それでも大樹は引き受ける。混沌の世界の王であることを選んだ。

 あの日、小和が逝った。

 友人達はそれを切っ掛けに生き方を変えた。

 だいぶ遅れてきた、これは大樹の切っ掛けだった。

 「この先は王様です。私のことは十松とお呼び下さい。」

 「わかった。」

 何が出来るかわからない。

 ただ、生きるために。

 「待たせたな、みんな。

 俺が王、大木大樹だ。」

 不器用な、不自然な言い様で、大樹は民の前に立つ。

 「疲れているし、腹も減っていると思うが、今だけは協力してくれ。今から手分けして、生存者と物資を探そうと思う。」

 意外にもまともな提案に、心のうちは不安に揺れていた、民衆は互いの顔を見合わせ、

 「おーっ‼」

 「おーっ‼」

 どよめきが起きた。

 大樹は『氷原の王』となる。




 


 

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