働く私とそうじゃない君

立花僚

第1話 大山分室

『不正受給は厳しいペナルティがあります』

『本人確認のためフルネームで声をかけさせていただきます』

『各種講座を受けることができます』


 壁という壁、ついたて、窓に貼られた文言。それらは来所する人々を支えるものであり、時に厳しく律するものでもある。その文字数の分来所者がどれほど影響を受けているのかはわからないが、こういう文言というのは貼らずにはいられない。私たちが何度口を酸っぱくして言っても聞いてくれない時は聞いてくれないのだから、視覚に対しても訴えていくしかないのだろう。

 狭い所内は、いわゆる分室であり本部は1時間ほど離れたところに存在する。本部?いや、本所か。葛城公共職業安定所、大山分室。週の6日を開所しており、ひっきりなしにこの近辺の人々が訪れる。若者から高齢者まで、男女問わず、およそ「労働人口」に数えられる人々のほとんどはこの分室の利用対象者だ。

 来る人のほとんどは「失業した人」。つまり仕事を辞めた、倒産した等で仕事を失った人々である。これは言い換えれば「雇用保険の受給対象者」でもあるのだが、普通に会社勤めをしてそのまま勤め上げるのであれば縁のない場所であろう。何らかの理由があって仕事を変える必要が出てきた人たちがこの大山分室を訪れる。


「土屋正樹(つちやまさき)さん」

「はーい」


 窓口に現れたのは、なんというか、軽薄そうな男だった。茶色の短髪、白のクルーネックにダメージジーンズ。ザ・若者、万歳。


「今回が初めてですね。失業手当の申請でよろしいでしょうか?」

「はい、お願いします」

「では雇用保険被保険者離職票とマイナンバーのわかるもの、あと身分証明書をお願いします」

「えっと……なんでしたっけ」


 特別早口で言ったつもりはないのだが、彼の耳には届かなかったようだ。もう一度、ゆっくりはっきりと伝える。


「雇用保険被保険者離職票です」

「……なんですかそれ」


 まあこれはよくある。こようほけんひほけんしゃりしょくひょう。まるで早口言葉のようだ。特に後半の「し」の連打は言い慣れた私であっても、よくぐちゃぐちゃっとなって「りひょくひょー」になる。

 それに漢字の塊というのはきちんと紐解いていけば理解ができるのだが、まとめて来られると一旦頭が理解を拒否することがある。この窓口であっても、ピンときていない来所者は多い。


「退職の際、人事の方か事務の方から受け取りませんでしたか?」

「これですか?」

 

 彼がブリーフケースから取り出したのは――退職金の説明書類だ。


「いえ、これではありません。たくさん数字が書いてある書類です」

「ああ、これですね」


 出てきたのは確かに雇用保険保険者離職票だ。それを元に、聞き取りを始める。


「お姉さん。名前何て言うんですか?」

「あ。申し遅れました。田中と申します」

「下の名前は?」

「……?麻衣子です」


 すると彼は私のことをじろじろと見ながら頷き始める。


「いい名前ですね。とてもよく似合ってます」

「はぁ……。ありがとうございます」


 ややセクハラ気味の発言だが、そんなものとうに慣れている。中学の頃から、どうやら人目を惹くような容姿になったらしい。別に私はなろうとしてそうなったわけではないし、私の身体が勝手になっていったのだから、かわいいとか言われても困る。そんなことを言うと周囲からの攻撃を受けるようになったので、言うのは辞めた。確かに客観的にみればこの発言は自慢にも受け取られかねないからだ。

 私としてはそんなつもりはないのに、呼んでもいないのに男の人が寄ってくる。いい人も、悪い人も。電車に乗れば明らかに不自然な距離に男の人が寄ってくるし、そのほとんどは息遣いがおかしい。クラスの人気者に告白されて、その子を好きだった子達からやっかみを受けたりもした。私は別に、男にも女にも興味はないというのに、世間はそれを許してくれないらしい。

 ともあれ、私はこういったセクハラ気味の発言には慣れている。彼らにとってはジャブ未満の発言であることも知っている。故にわざわざ動揺してあげることもないのだ。


「では手続きを進めていきます。まず退職理由からですが……自己都合退職ということでお間違いないですか?」

「はい、自分から辞めました」

「お辞めになった理由を教えていただけますか?」

「はい。喫茶店を開く準備ができたので、時期が来たなと思って辞めました」


 うん。それは困ったことになるかもしれない。


「では、すぐに喫茶店を始められるということでしょうか?」

「はい。仕事を辞めたらハローワークに行くとお金がもらえると聞いたので、開業資金の足しにしようと思って」


 うーん。時々いるんだよねぇ、こういう人。雇用保険の意味とか、失業手当の目的とか、そういうのを取り違えている人。


「俺、いくらもらえるんですか?」


 私はつい後ろ頭を搔いてしまう。来所者に威圧感を与えてしまう良くない癖だ。だが今回はねぇ……。何から説明したものか。


「コーヒーだけじゃなくて、紅茶も、ジュースも、ハーブティーもやるんです。グループで来た人みんなが好きな飲み物を楽しめるお店にしようと思ってるんですよ」


 こんなところで夢を語られてもしょうがない。ここに在るのはルールと数字と現実だけだ。あくまで通過点であり、ここを経たどこか遠くで夢を語ってくれればそれでいい。


「麻衣子さんにもぜひ来てもらいたいんです。もうチラシも作ってて……」

 

 土屋はブリーフケースから名刺サイズの紙を取り出す。『喫茶solo屋』。コーヒー・紅茶・ハーブティー・緑茶・ジュース、多種多様のドリンクをご提供します、か。住所は――このすぐ近く。

 賄賂という扱いにはならないとは思うが素直に受け取るわけにもいかないので、あえて触れずにそのままにしておく。もう相当準備は進んでいるようだ。


「どうですか?」


 何がどうですか、だ。来所者一人一人に親身になって対応するのは責務だが、来所者の夢にまで思いを馳せる必要はないだろう。がんばってください。それだけだ。

 それよりも、まずはこの流れを修正しなくてはならない。


「田中、とお呼びください」


 語気を強めに。切り捨てるように告げる。


「はい、気をつけます」


 思いのほか聞き分けがいいのか、今はそういう態度をとっているだけなのか。土屋は一応、しゅんとした態度を見せる。


「まず、今回の手続きは失業手当の受給に関するものです」

「はい」

「失業手当とは、次の仕事が決まるまでの生活を保障するための制度です。次の仕事を探すのと、明日の生活費を工面するのとを両立することは難しいですから。生活費を気にすることなく、安心して次の仕事を探してもらうための制度となります」

「はい」


 先ほどとは打って変わって、やけに素直に話を聞いている。つい顔をじろじろと見てしまったが、それなりに顔が整っていてジャニーズ系と言えなくも……ないかもしれない。わからないけれど。言動も相まってそれなりに女遊びはしてきていることを想像させる。


「土屋さんの場合はすぐに喫茶店を開業されるとのことですので、対象にはなりません」


 うんうん、と頷く土屋。つかの間の沈黙。


「土屋さん?」

「はい、聞いてますよ」

「ですから、土屋さんは対象になりません」

「なんのですか」


 なんのですか?ですって?

 この男、見た目と同じで中身まで軽くて空っぽなのかしら。


「ごめんなさい。麻衣子さんの声が綺麗で、つい聞き惚れてしまいました。真面目に説明してくださる仕草も綺麗だし、つい」


 常套句だ。瞳が綺麗、声が綺麗、手つきが綺麗。身体のパーツで区切って褒めるには理由がある。ただ漠然と「かわいい」と言われても何も響かない。では「顔がかわいい」と言われても誰しも自分の顔やスタイルにはコンプレックスがあるものだ。褒められて一旦は嬉しいものの、後々考えてみると「本当にかわいいと思って言っているのだろうか?」と疑う気持ちになってしまうこともままある。

 だがパーツごとで褒めればそういった”地雷”を踏むことは少ない。この手の軽薄な男たちは地雷を踏まないためにそう言った口説き方をする。少なくとも、私はそう思っている。


「ですから、田中と。それから、きちんと話を聞いていただけないようであればやる気がないと認められますが、よろしいですか?」

「いえ、話を聞く気はあるんです。でも田中さんが綺麗だったので」


 はぁ?


「では私が綺麗なのが悪いと、そうおっしゃいますか」

「いいえ違います。田中さんが綺麗なのは良いことです」


 それはまあ、その。良いことなのかもしれないけど」


「では何が違うのですか」

「聞いていなかったのは俺が田中さんに集中していたからです。きちんと話を聞くので、もう一度お願いします」


 集中していた、ねぇ。よくもまあそんな文言がペラペラとでてくるものね。

 と、思ってすぐ。少しムキになっている自分に気付く。私としたことが、こんな軽薄な男に翻弄されるなんてほんと不覚。


「要するにですね。土屋さんは失業手当の対象になりません」

「どうしてですか」

「土屋さんは仕事を辞めてすぐに次の仕事、今回の場合は喫茶店の仕事に就くことになるからです」

「でも、お金欲しいです」


 そんなの誰でも一緒だろうが!と言いそうになるのをぐっとこらえる。いかんいかん。まだムキになっている。


「失業手当はあくまで、次の仕事が見つかるまで、決まるまでの給付です。土屋さんは次の仕事が決まっているので支給できません」

「……つまり仕事が決まってなければいいってことですか?」

「……はい?」


 嫌な予感がする。

 何かとんでもないことを言い出しそうな、そんな予感。


「実は、まだメニューに自信がないんですよね」

「はぁ」


 ほら始まった。


「もうちょっと品数絞った方がいいかなとか、あとそもそも味も心配でして」


 さあ、ここからどう展開する。


「だからもうちょっと開業を先延ばしにしようと思うんですよね」


 来ると思った。


「だから麻衣子さん。手伝ってもらえませんか?」


 ……うん?


「俺、開業先延ばしにします!頑張って給付貰うんで、麻衣子さんメニュー作り手伝ってください!」


 これは面倒なのが来た。私は後ろ頭をガシガシと搔きむしる。

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