PIANO

花邦イチ

PIANO

 昼間でも薄暗い廊下で、僕は恐る恐る耳をそばだてた。

盗み聞きをしようと思ったわけではない。

学校で配布されたプリントを渡そうとリビングへ下りてみたら、僅かに開いたドアの向こうから荒々しい声が聞こえたのだ。

こんな時間から電話越しに息巻く母に対して、どうしようもない不安が迫り来るのを感じた。

「あの人は自分から家族を捨てたんですよ、それでもまだかばいますか」

我が家ではタブーの話題をわざわざ持ち出すような相手とは、一体誰なのか。

いつも以上に威圧的な口ぶりに、ただならぬ事態であることを瞬時に悟った。鼓動が激しくなり、爪が食い込むほど自分の左手首をきつく握っていた。

世間体を気にする母からはひどく嫌がられた癖だが、今はこうでもしなければ心臓が張り裂けてしまいそうなのだ。

「私が何をしたって言うんですか、お義母さん」

怒鳴りながらも時折声を詰まらせる。

僕は合点がいった。それと同時に、ある種冷めた諦めのような感情も生まれた。

きっとに伝わることは未来永劫ない。

温かに接してもらったことも、まともに目線を合わせてもらったこともなかった。ましてや可愛がってもらうなどもってのほかだ。

愛人と駆け落ちした父を咎めず、あろうことかその責任を全て母に擦り付け追い詰めた張本人。


父方の祖母だ。


冷たい床にしゃがみ込み、溜め息とともにうなだれた。きっと今夜も母から恨みと怒りの的にされるのだろう。

やり場のない寂しさと虚しさが込み上げてきて、爪が食い込んだままの手首を他人事のように見つめていた。


母にとって、僕は愛する対象ではなくストレスの捌け口であった。

それをこんなにもあっさりと受け入れているのは、忍耐と引き換えに愛してもらえるなどと、浅はかにも淡い期待を抱いていたからに過ぎない。

母と二人きりになったこの二年半は、あまりにも残酷で歪な関係を作り出してしまったのだ。


こんな時いつも思い浮かぶのはピアノのことだ。

どれほど傷つけられても、ピアノを弾いている時間だけは心を守ることができた。

かつては母方の祖父の家にあったものを、6歳の誕生日プレゼントにねだった。

ピアノを習い初める時であったため、祖父は新しいのを買ってやると言った。だが、僕はこの年季が入っている方が良いと、珍しく我がままを通したことをよく覚えている。


初めて押した一音は言葉を発するかのように鳴り、今でも忘れることができないほどだ。

その音色のひときわつつしみ深く異様なまでの荘厳さは、一度聴いただけで誰もが心酔するだろう。

高校の友人や女子から寄せられる好意なんかより、ずっと刺激的で心を満たしてくれた。

もう泣くことのできなくなった僕の代わりに、ピアノは音を与え言葉となってくれた。

誰にも知られたくない我が家の醜い有り様を、これほどまでに分かち合えた存在が他にあっただろうか。


家の外では秋の終わりが近付いている。

玄関の方から聞こえる透き間風の音は侘しく、まとわりつく冷気に足が強ばる。

何十分もこうしていたのだから無理もない。


ふと、誰もいないはずの二階から、かすかにピアノの音が聞こえた気がした。

風のせいだろうか。

部屋へ戻ろうと立ち上がった時だった。


「子どもを殺して私も死のうと思ったんですよ」


心臓を打ち砕かれた。

喉の奥から絞り出したような叫びは僕にとどめを刺したのだ。

古い痣に血が滲むほど爪を立てても、もはや痛みなどない。一瞬にして沸き上がった激情も次の瞬間には静まり返った。辛うじて残っていた自尊心は跡形もなく消え、もうどんな言葉も耳には入らなかった。

プリントを廊下に残し、力なく階段を上る。

自室のドアにもたれ掛かると、硬く冷たい木の感触が迎えてくれた。


こんなことなら立ち聞きなどしなければ良かったのだ。

母にとって僕がそんなものでしかなかったと、認められなかったことが悔しくてたまらない。

わかっていたことではないか。

期待なんかしたところで、こうなることは大いに予想できたはずなのだから。

吸い寄せられるように、茫然とピアノへ近付く。

蓋を開けると、古めかしい匂いが空っぽになった体を満たすかのように深く入り込む。

鍵盤に指を這わせた。

指先から伝わる熱情がうごめきながら脳の深部に押し寄せる。




無くした僕の心を


探してくれるだろうか。










しん、と鳴り始めるピアノ



空虚で陰鬱な部屋に小さな希望を灯した





一つ また一つ 音はゆっくり呼吸をする


鍵盤が密かに足音を立てながら


秩序のない宙を踏む






僕の指ではない


このピアノが語るのだ


僕が決して口にすることのできない言葉を





徐々に加速し、脈打つようにうねる









“passionato”


情熱的に




許されない秘密を分かち合うように


誰にも知られないように


全てをむさぼ


全てを注げ





混沌はとめどなく流れ込む





命の欠片を拾いあつめても


過ぎ行く時を手繰たぐり寄せても











ああ 









まことに お前の心は




ここにはない











最後の音が吐息となって消えた



そして、忌まわしい現実へと引き戻した。








まともに立っていられないほどの疲労感に襲われ、引きずり込まれるようにしてベッドに倒れ込んだ。










白い木造の部屋がまぶしい。

優しい陽光が窓から差し込み、床は水のように揺らめく鏡であった。

風はさやかに奏で、体の隅々にまで平安をもたらしてくれる。


ここは見知らぬところだった。






次の瞬間、ハッと息を飲んだ。




目の前に、どす黒い血にまみれたグランドピアノが立っていたのだ。


風が止んだ。

音も消えた。




すると、声ではない音が地の底から静かに重く鳴り響いた。






お前には何が見える


何が見える


私を見ろ


見ろ


これはお前だ


お前自身なのだ







声が鳴りやむと、目の前が急に歪み始めた。

目に見えるもの全てが崩れるのと同時に、足元が水面みなもに変わる。天井と床が一気にひっくり返り、為す術もなかった。


そして、僕は小さな水泡のようなものに包まれた。










まぶたが重い。

辺りが薄暗いのは日が落ちかけているせいか。

意識がなくなってからのことが考えられないほど、あのピアノの光景が恐ろしかった。

我に返ると手は汗ばみ小刻みに震えていた。

気だるい体を起こし、覚束ない足取りでピアノにすがる。

蓋が開けられたまま静かに立っていた。

あの時のように一つの音を鳴らすと、ピアノは応えた。






愛しい








ああ、そうだ、これは幻などという不確かなものではない。

ほんの一粒にも満たない生への願望を抱いた罰なのだろうか、手首は鈍い痛みを伴い泥流のように体内を巡る。


子どものように声をあげ、床に泣き崩れた。

これでもかと言わんばかりに涙で辺りを濡らした。




僕の心の在処ありか、それはピアノだけが知っている。




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PIANO 花邦イチ @Hanakuniichi

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