【短編】土人形は踊る

渡 光紀(ワタリ ミツキ)

土人形は踊る

 「うぅ、神様……」

 とてつもない腹痛に襲われた時に、普段神様なんて信じていないのについ祈ってしまうのはなんでなんだろうか。僕はできるだけ腹痛以外に意識を向けようとそんなことを考えていた。しかし腹痛はそんなことはお構いなしに僕の脳みそを痛みで埋め尽くしてくる。しかも頭も痛い。でも、こちらはまだ理由がはっきりしているだけ耐えられる。単なる飲みすぎだ。

 「んぎぃ……」

 全身の力を肛門に集中させる。しかし、反応はない。お腹は痛いのに出てくれない。僕は腹痛の犯人探しに脳みその容量を費やした。

 「枝豆、から揚げ、焼き鳥、塩だれキュウリ、冷やしトマト、雑炊……」

 今日は大学の仲間と飲み会だった。毎度のことながら終電を逃し朝方に帰宅をした。朝5時からトイレにこもって神頼みとはなかなか自堕落な生活だと自分でも思う。段々気持ち悪くもなってきた。酒に強くないくせに毎回飲みすぎて、二度と酒は飲まないと誓うのにそんなことは次の日には忘れている。まったく嫌になる。

 「あ、みたらし団子」

 3時に飲み会はお開きになり、そこから一時間ほど歩いてやっと最寄り駅についた。まだ始発前の駅前で、リアカーに和菓子を載せて売っているおばあさんからみたらし団子を買って食べた。それがこの強烈な腹痛の原因ではないかと思った。そもそも買って食べた時点ではまだ酔いが回っていて気が付かなかったが、始発前の駅前で和菓子を売っていること自体が不自然極まりない。もしかしたら、なにか食べてはいけないとんでもないものを食べてしまったのではないかと不安が込み上げてきた。そしてさっきとは違う気持ち悪さで僕はとっさに立ち上がり、便器に顔をうずめた。

 僕は、一通り吐き終えて、これ以上トイレにいても状況が好転することは無いと思い寝てしまうことにした。僕はトイレのドアを開くと同時に右足を踏み出した。

 「シャリ」

 僕の右足は砂の上にあった。砂を踏みしめたシャリという音が確かに耳に届いたし、目の前には広大な砂漠が広がっていた。僕は踏み出した右足をトイレの中に戻しドアを閉めた。僕はその場に胡坐の形で座り込み、右足の裏を確かめた。そこには確かに、砂漠の薄だいだい色の砂がついていた。天井を見つめ、一度大きく深呼吸した。僕はもう一度、今度はゆっくりドアを開けた。そこはさっきと何も変わらず砂漠で、自分でつけた足跡もしっかりと残っていた。

 僕は確信した。これは夢だ。頬っぺたを引っ張ってみて痛かったけどこれは夢だ。引っ張っても痛いタイプの夢なんだろう。きっと明晰夢とやらをみられるようになったのだ。たぶん本物の自分は今頃ベッドに倒れ込んでいるだろう。そう思うと気持ちが楽になった。僕はひとまず砂漠に出てみることにした。

 一歩二歩と砂漠に足を踏み入れた。照り付ける太陽は出ているのに、はだしの足からは熱さを感じなかった。Tシャツに短パンという本物の砂漠に出たらおそらく5分と持たないような格好だが、これは夢だ。さらに何歩か進んだ。景色は一向に変わらない辺り一面の金世界だった。後ろを振り返るとそこにあったはずのドアが跡形もなく消えていた。少し怖くなった。

 「大丈夫、これは夢だ」

 僕は自分に言い聞かせるように声に出した。僕はしばらくこの広大な砂漠を歩き続けた。しかし一向に、同じ景色の繰り返しだった。ピラミッドの1つや2つあってもいいじゃないかと自分の夢に悪態をついた。

 さらにしばらく歩いていると目の前にピラミッドのような建造物が二つ現れた。僕はさらなる確信を得た。明晰夢をみる人多くは自分の夢を思うがままにコントロールできると聞いたことがある。僕はピラミッドの近くまで行き、観察を始めた。

 「ねえ、また来たよ」

 「また、遊んでもらおう」

 「今度こそ、うまくいくかな」

 「えへへ、楽しみだね」

 「みんなに、知らせてくる」

 僕はどこからか唐突に聞こえてきた子供の声に驚き、あたりを見渡した。しかし、誰も見当たらない。

 「ねえ、ねえ」

 僕は、Tシャツの裾を下方向に引っ張られた。

 「はっ!!」

 僕は、思わず声を上げた。僕のTシャツを引っ張っていたのは、人間ではなく、おそらく土から作られたであろう人形だった。僕はその姿に見覚えがあった。土偶だ。終電を逃して家まで歩いて帰る道すがら博物館の近くに貼ってあった縄文時代展のポスターにあった姿とそっくりだった。

 「ねえ、ねえ、僕たちと遊ぼ」

 その人形は言った。

 「僕たち?」

 「うん、僕たちと遊ぼ!」

 僕は急に多数の視線を感じ鳥肌が立った。周りを見るとそこには無数の人形たちがいた。その見た目はそれぞれ違っているがどれもどこかで見たことある見た目をしていた。

 「お兄さんまた来てくれたの」

 「僕たち待ってたんだよ」

 「早くいこうよ」

 最初に話しかけてきた人形に手を引かれ、大勢の人形に囲まれながらしばらく進むと目の前に巨大なジャングルが現れた。砂漠の中にジャングルがあることに疑問はあったが何でもありなのが夢の醍醐味だ。それにしても、そのジャングルは唐突にその場に存在していた。砂漠からグラデーションをもってジャングルになっていくのではなく、明確に砂漠とジャングルの境界線があり二つは全く違う世界にあるようだった。

 「ねえ、どこに向かってるの」

 僕は尋ねた。すると人形たちは口々に言った。

 「楽しいところ」

 「みんなでいっぱい遊べるところだよ」

 「僕たちのおうちにいくんだよ」

 僕は目の前にあるジャングルに言い表せない不快、不安、恐怖を感じた。どこか吸い込まれてしまいそうな魔力めいたものを感じ取っていたのかもしれない。しかし、人形たちはみんなで鼻歌のようなものを歌いながら、ジャングルへと入っていく。僕は少し躊躇しつつも、人形たちに手を引かれジャングルの中に入っていった。

 ジャングルに入ると再び全身に鳥肌が立った。僕が後ろを振り返ると、そこにはどこまでも続くジャングルが広がっていた。僕等がいた砂漠は跡形もなくどこかへ消えていた。ジャングルはとても静かだった。自然に囲まれているおかげか空気がとても澄んでいるように感じた。

 「あそこが僕たちのおうちだよ」

 先頭の方を歩いていた人形がそう言った。指さす先を見ると石で作られた古びた寺院のような建物があった。大きく立派な建物であったが、コケやツタに覆われすっかり朽ち果ててしまった印象だった。

 「この建物は君たちが造ったの?」

 僕はふと湧いてきた疑問を口にした。

 「ううん、貰ったの」

 「誰に?」

「おばば様、僕たちを作ってくれたのもおばば様なんだよ」

 「作った?君たちを?」

 「うん、そうだよ」

「おばば様は今どこにいるの?」

 「わかんない、でもね、いつも贈り物くれるの!」

 もともとここには人間がいたんだろうか、朽ちた寺院を見て思った。

 「ねえねえ、あっちで水浴びして遊ぼうよ」

 人形たちが指さす先には大きな湖が広がっていた。そこはジャングルの中に唐突に現れ、水面がキラキラと輝いていた。水はどこまでも澄んでいて、池の底まではっきりと透けて見えた。

 「お兄さんも早くおいでよ」

 「気持ちいいよ」

 僕は、土からできた人形たちが水に入って大丈夫なのかと心配になった。しかし人形たちはそんなことお構いなしにどんどん水に入っていった。水浴びをするなんて何年ぶりだろうか、中学生のころ家の近くの川で遊んで以来だろうか。僕は久々の水遊びにテンションが上がってきた。Tシャツを脱ぎ捨てて僕は湖に飛び込んでいった。

 「ぷっはあ、気持ちいい」

 僕は思わず声に出して言った。水は冷たすぎず程よくひんやりとしていて、皮膚がきゅっと引き締まる感覚が気持ちよかった。僕は仰向けに浮かんだ。こんな時間を過ごしたのは何年ぶりだろう。大学受験に、就職活動に、まだまだ若者とはいえども、気が付けば正体不明の巨大な不安に追い掛け回されて、ゆっくりと意味があるかどうかわからないような時間を過ごす事が出来なくなっていた。

 「うわっつ」

 突然顔に水を掛けられた。周りを見ると、いたずら小僧の顔をした人形たちが遊んでほしいと体全体でアピールしてきているようだった。

 「やったな、こら」

 ここでの僕は少年だった。僕は思いっきり水をかけ返した。すると彼らは短い腕を懸命に使って僕を囲い込み、全方位から水を浴びせた。僕もむきになって応戦した。無邪気な時間が流れていた。

 「ぷは、あー、もう降参、降参」

 僕は、人形たちの猛攻についに白旗を上げ、湖からあがった。どこまでも気持ちのいい空が広がっていた。雲一つない空は純粋なスカイブルーだった。僕が湖のほとりの草むらに寝転がると人形たちもぞろぞろと陸に上がってきて、僕を囲うように仰向けに寝た。太陽はちょうど真上を過ぎて下り始めたところだった。

 何分間、いや何時間こうしていただろう。20分と言われても2時間と言われても驚きはない。人形たちの一人が起き上がって、僕に近づいてきた。

 「ねえ、ねえ、お絵かきしようよ」

 その人形は言った。すると周りで寝転んでいたほかの人形たちも起き上がり、次の遊びをしようと寝転んでいる僕をゆすった。僕はまだ、ゆっくりと寝転んでいたかったが人形たちはどんどん激しく、僕をゆすってきたので僕は起き上がり言った。

 「お絵かきって何するの?」

 人形たちは口々に言う。

 「お絵かきだよ」

 「僕たちの体にたくさん模様描くの」

 「かっこよくなるんだよ」

 人形たちは僕の手をつかみ、再びジャングルの中にある朽ちた寺院の前まで連れていった。すると人形たちは、バケツのような形状の土器に入った様々な色の液体を持ってきた。それぞれの液体からそれぞれ異なる、どこかスパイシーな香りが漂ってきた。人形たちはそれぞれ、木の枝や、葉っぱ、猫じゃらしのような植物や自らの手を駆使して自分や周りの体に思い思いの模様を描き始めた。僕はこのスパイシーな香りがする液体を体に塗りたくることに少し躊躇していた。

 「ねえ、ねえ、お兄さんはお絵かきしないの?」

 「僕たちが描いてあげるよ」

 二人の人形が僕の背中にぐるぐると模様を描き始めた。液体が触れる一瞬の冷たさとくすぐったさで体が震えた。僕は、右手を黄色い液体に、左手を赤い液体に突っ込み、顔を洗うように両手で顔に擦り付けた。これもまた久々の感覚だった。どろどろになって遊んだり、絵の具でいろんなところに絵を描いてしまったり。そんなことも気づけば成長と共にしなくなる。そんな懐かしい感覚を思い出した僕はまた、違う色の液体に両手を突っ込み体中に塗りたくった。

 気が付くとあたりがだんだん薄暗くなってきた。さっきまで自分たちのすぐ上にあると思っていた太陽は、もうすっかり目線の高さぐらいまで落ちてきていた。僕は水浴びに、お絵かきとすっかり疲れ果てて、朽ちた寺院の石段に座り込んで空を眺めていた。人形たちはせかせかとジャングルから、枝を拾い集め、火を起こし焚火の支度をし、さらには湖から大量の淡水魚を採って戻ってきた。僕は、人形たちがどうやって魚を捕まえたのか、そしてそもそも魚を食べるのか不思議に思っていた。

のんびりとした時間が流れている。人形たちは夜ご飯の準備をすると言ってせかせかと働いていた。僕は自分の体からスパイシーな液体の匂いが混ざり合って本格派カレーのようになった香りを感じながらボーと全体を眺めていた。随分と長い夢だなと思った。でも、まだしばらくはこの夢の中に居たいと思った。別に、現実が嫌なわけじゃない。それなりに飲みに行く友達もいて、大学もいくつか単位は落としたけど何とか四年で卒業できそうで、食品メーカーへの就職も決まっている。それでも、現実をただ現実的に生きていくことが息苦しくなる時がある。気が付くと息継ぎの仕方が分からなくなって、そのままおぼれて、暗闇に沈んでいってしまいそうな感覚に襲われそうになる時がある。このままでいいのかと。だから、今はひとまず、この夢の中でこのままでいたいと思った。

「準備、できたよー」

人形の一人が呼びに来た。

 「うん。今、行くよ」

 僕はそう答え、焚火を囲っている彼らの輪に加わった。

 木の枝で肉体を貫かれた淡水魚たちが、焚火の周りに均等に並べられ、火にかけられていた。銀色の表面が金色になったところで、淡水魚を火から取り出し、そのままかぶりついた。軽く塩だけで味付けされたその淡水魚の味は、小さい頃両親と行ったキャンプで摑み取りをした鮎を思い出させた。かぶりついた勢いのまま一匹を骨まで食べつくし、もう一匹食べた。食事は淡水魚だけだったけどそれで満足だった。

 「美味しい? 美味しい?」

 人形たちが聞いてきた。

 「めっちゃうまいよ」

 僕は答えた。彼らも幸せそうに、骨も木の枝を気にせずに丸々飲み込むような形で、大量にあった淡水魚たちをあっという間に食べきった。

 「ねえ、踊ろうよ」

 「踊ろう、踊ろう」

 「みんなで、踊ろう」

 人形たちは、どこから出してきたのか、様々な民族楽器風の太鼓やら笛やらをかき鳴らし、焚火の周りを踊り始めた。僕は彼らが躍っている姿を周りから眺めていた。すると人形の一人が僕に向けていった。

 「お兄さんも一緒に踊ろう」

 僕は素直に、人形たちに手を引かれ彼らの輪に加わった。焚火のせいか高揚感のせいか、体がぽかぽかとしてくる感覚が気持ちよかった。踊りってこんなに楽しいんだ。子供のころはお祭りのたびに盆踊りを踊っていたのに、いつからか踊らなくなり、人の前で踊るなんて恥ずかしいことだと思うようになった。でも、今は違った。解放だ、これは解放なんだ。踊ることで僕は現実から解き放たれて自由になれるんだ。そう思った。

 腹も満たされて、踊り疲れた僕は人形たちがくれたホットミルクの味がする飲み物をすすりながら焚火の燃え盛る炎に見とれていた。僕がうとうとしてくると、決まって人形たちがこぞって僕の顔を覗き込むようにこちらを見てきた。僕はその視線にゾクッとして目が覚め、しばらくするとまた、うとうとすることを繰り返していた。しかし、次第に眠気が限界に達してきた。僕は、もうほとんど目が開けられず、意識も次第に遠のいていく。そんな中かすかに残った意識で人形たちが話している声を聴いていた。それは僕に向けて話していたのかどうなのか僕の意識はそれを判断できるほど晴れてはいなかった。

 「明日はごちそうだね」

 「楽しみだねー」

 「もう寝たね」

 「今度はうまくいったね」

 「えへへ、そうだね」


 「熱い……」

 僕は足元からくる熱気で目を覚ました。まだはっきりとしない意識の中、昨晩聴きなじんだ楽器の音色が聞こえてきた。熱い。熱い。熱い。僕は次第に強く感じる足元の熱気に耐えかねて、とうとう完全に目を覚ました。

 僕を中心に、人形たちは踊っていた。焚火の真ん中に棒を突き刺して、僕はそこに手足を縛り付けられていた。烈火のごとく燃え盛る炎は僕を足から丸々飲み込んでしまいそうな勢いだった。

 「おい、なんだこれ!」

 僕は叫んだ。しかし人形たちは僕の周りをご陽気に踊り続けるだけで何も返さない。

 「おい、助けてくれ!」

 人形たちはまだ踊り続けている。僕は叫びながらも意外に冷静な自分がいることに気が付いた。そうだ、これは夢だ。大丈夫だ。僕はそう思いなした。しかし、炎は容赦なく僕を焼こうとする。熱い。熱い。熱い。僕はできるだけ炎から離れようと、体をくねらせてなんとか炎から逃げようとした。しかし炎は容赦してはくれない。僕は体が逆に冷たくなっていくような感覚に襲われた。

 「夢なら、もう醒めてくれ! 起きろ! おい!」

 僕は上を向いて、全力で叫んだ。寝ているであろう自分に叫んだ。

 「夢じゃないよ」

 無邪気な声がした。ピラミッドで最初に僕に話しかけてきたやつだった。その言葉に呼応するように、人形たちが一気に無邪気な子供のような笑い声をあげた。僕は、怖くなってきた。これがもし夢じゃないのなら、僕はここで死ぬのか。そんなことが頭によぎった。僕はそれを即座に否定した。こんなことは夢じゃないとあり得ないと。そしてまた叫んだ。

 「おい! 起きろ! 起きてくれ! 助けてくれ! おい!」

 僕は、自分の頬を思いっきり叩いた。それでも目の前の景色は変わらなかった。夢じゃないのか。僕はまたそう思い始めた。確かに、夢にしてはずっと鮮明すぎる。砂も水も魚の味もこの熱さも。さらに言えば、僕は寝ていたんだ、夢の中で、そんなことがありえるのだろうか。

 「おい! どうするつもりだ!」

 僕は、踊りを続ける人形たちに言った。

 「ごちそうだよ!」

 「ごちそうだよ!」

 「ごちそうだよ!」

 人形たちは口々に、弾むような口調で言った。

 「おいしくなるように、頑張ったもんね!」

 「ねー!」

 人形たちは続けてそう言った。僕は人形たちに食い荒らされる自分の姿が浮かんだ。その姿がリアルにくっきりと見えた。逃げなきゃ。これは夢じゃないかもしれない。逃げなきゃ。逃げなきゃ。

 僕は、暴れた、縛り付けられた状態で頭を前後に思いっきり振り回し、全身全霊で暴れた。すると僕を縛り付けていた棒が少し前に傾いた。僕はさらに激しく、ハードロッカーさながらのヘッドバンキングでとうとう棒が完全に倒れた。焚火の中に倒れ込んだ僕は熱さを感じるよりも早く飛び上がり。一目散に駆け出した。縛られた手足は倒れた衝撃で外れたらしい。

 僕はジャングルをただただ、必死に走った。とにかく人形たちから離れようと走った。走り始めてしばらくすると、後方からの人形たちの声は聞こえなくなっていった。

 「はあ、はあ、逃げ切った」

 僕はヘロヘロになりながら、地面に座り込んだ。途端に両足からひりひりとした痛みを感じた。しばらく炙られた上に全力で走った足はもうボロボロだった。うっすらと空が明るくなってきた。

 僕はその場に座り込んだまま、しばらく周りの植物を眺めていた。元の世界に戻れないんじゃないか。もう僕は目を覚まさないんじゃないか。そんな不安に襲われた時だった。僕の目の前をおばあさんがリアカーを引きながら通り過ぎようとした。僕はあまりに突然の出来事に声がすぐには出なかった。

 「ま、待って」

 僕はおばあさんが目の前を過ぎたぐらいでやっと声が出た。

 「なんだい、あんた、生きてたのかい」

 おばあさんは僕の方を見ると、少しあきれたような口調で言った。

 「ここは、なんなんですか!」

 僕はそのおばあさんに向かってほとんど叫ぶように言った。

 「さあね」

 とだけ、おばあさんは言った。

 「どうして、僕がこんな目に合わなきゃいけないんですか」

 僕は、攻めてるように言った。

 「さてねぇ、たまたま運が悪かった、ただそれだけのことじゃよ、でも、あんたの心に付け入るスキがあったてことは確かだよ」

 「付け入るスキ……?」

 「そうさね、あの子たちは人間の不安を抱えちまった心を養分にしているんだよ」

 「なんでそんなことを、あんたはなんなんだよ!」

 「私があの子たちをそう生み出しちまったからだよ。だから私は、心を不安に支配された奴らをここに送り込んでるんだよ。」

 「送り込むってどういうことだよ」

 「心の不安を持った奴はたいてい酒をぐびぐび飲むんだよ。酒に酔ったやつの心を乗っ取るなんて造作もないことさ。」

 「心を喰われたらどうなる」

 「廃人になるだけさ」

 僕は息をのんだ。そして疑問を口にした。

 「どうして、僕は逃げてこれた」

 「あんたの心がまだ、現実を生きたかったってだけのことさね。真に心が闇に満たされた人はあの子らに眠らされたら最後もう目を覚まさない」

 おばあさんはおもむろに空を見た。もうすっかり夜が終わっていた。

 「ああ、今回はもう時間切れだね。また、あの子たちと遊んでおくれ、あんたはここに来たのは初めてじゃない、そしてきっとまた、ここに訪れることになるさね、その時は最後まであの子たちの相手をしてやっておくれ。でもまあ、目が覚めたらあんたは何も覚えちゃいないんだけどね」


 「痛てて……」

 猛烈な頭痛で目を覚ました。昨日の記憶がない。飲み会だったことは覚えている。どうやら飲みすぎたようだ。にしても、トイレで寝落ちとは我ながら間抜けだなと思った。立ち上がろうとすると右足の裏にひりひりとした痛みを感じた。右足には全く覚えのない破れた水ぶくれの残骸が出来ていた。全く昨日の僕はどんだけ飲んだことやら。トイレを出て、コップ一杯の水を飲み、昨日食べたであろうどこで買ったのかもわからない団子の残骸を片づけた。時計を見ると14時を過ぎたところだった。二限は覚悟していたけれど三限も見事に逃してしまった。いつもなら、四限のためだけに大学に行くのも面倒なので一日休みにしていたと思う。でも今日はなぜか大学に行かなければと思った。



 入社して5年。僕は食品メーカーで営業として働いている。ここまでは順調でも低調でもないキャリアを歩んでいる。後輩が出来て、部下が出来て、別段問題のない、かといって特段語ることもないサラリーマンライフだ。僕はこのままでいいんだろうか、そんな不安感を抱えていたのがいけなかったんだろう。久々に集まれた大学の同期との飲み会で大いに飲みすぎた僕は、吐き気を抑えながら帰りのタクシーに揺られている。友人が運転手に最寄り駅を伝えて僕を車内に押し込んでくれたおかげで何とか帰路につけている。最寄り駅近くに停車したタクシーの支払いを何とか済ませ、タクシーを降りた。駅前ではおばあさんがリアカーに和菓子を載せて売っていた。僕はみたらし団子買って家に帰った。

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