夏の終わりのナポリタン

野村絽麻子

夏の終わりのナポリタン

 車のエアコンを強く効かせたままオーディオのボリュームを上げる。ハンドルを握る手の指先でリズムをとった。右折待ちの列の先頭はいまだに少し緊張感があるものだ。

 信号が色を変え、アクセルを踏むタイミングで、ふと、対向車線の運転手に見覚えがある事に気がついた。カチ、カチ、と規則正しいウインカーの音を聴きながら交差点を通り過ぎて、それからやっと、あれが「コウくん」だったと理解した。



 コウくんは母の彼氏だった。ある夏の日の夕暮れに、めずらしく機嫌良く帰宅した母から「彼氏連れてきたよ」と紹介されたのだから間違いなかったのだけど、幼い私が「彼氏」が何かを理解するには少しばかり早過ぎた。

 ヒョロリと背が高く、眼鏡の奥の目は眩しげに瞬いていた。気弱そうに微笑みながら私に合わせてしゃがみ込み、「よろしくね、はるかちゃん」と言う声は何故だか少し寂しそうに聞こえた。六畳と四畳半きりのアパートの部屋はコウくんにはあきらかに狭く、身体を持て余している様はいつか動物園で見たキリンに似ていた。私はすっかりコウくんに懐いた。


 今にして思えば不思議なことで、コウくんはなんと学生だった。水商売をしていた母と一体どんな接点があったのかは謎だが、とにかくコウくんが居ると母の機嫌は良いし、ご飯も出てくる。袋から転がり出てくるコンビニのおにぎりじゃなくて、ちゃんと炒めたり茹でたりしてお皿に盛られた夕飯が並ぶ食卓は、私の頬と心を桃色に染め上げた。

 だいたい昼過ぎに母が起きてきて、絵本を眺めるかお絵描きしている私の頭をポンと撫でてから煙草に火をつける。買い置きの菓子パンをつまんだり、母が部屋を何となく片付けたり、顔に薄化粧を施したりしているとアパートのドアがノックされ、コウくんが「美弥子さん、こんにちは」と現れる。

 そうすると怠そうにしていた母は電源が入ったように顔を輝かせ、上機嫌になり、鼻唄など歌いながら夕飯を作る。その間コウくんは私のお絵描きや絵本を見てはコメントしたり、一緒にオセロをしてくれた。

 コウくんはオセロが強かった。私とオセロをする時はそこそこ手加減をしてくれたものの、偶に母と対戦する際には慎重に、なおかつ確実にゲームに勝った。熟考するときのコウくんの癖で、握り込んだ手の第二関節のところでコツコツと床を叩き始める。それが始まると何故だか嬉しくなり、母と私は目を合わせて微笑み合った。

 コウくんに勝てなくても母はとても嬉しそうに「さすが大学生は違う」とコウくんを誉めそやしたし、「勝利のご褒美」と言ってはコウくんの頬にキスをした。そんな時コウくんは申し訳なさそうに私の両目を手で覆うのが常だった。


 母の得意料理のナポリタンを好きになったのもコウくんの影響だった。それまでナポリタンは、私の苦手としている玉ねぎとピーマンが入った酸っぱい味の麺で、申し訳程度にウインナーを齧ってお終いで、「せっかく作ってやったのに」と母に怒られるまでがワンセットになっていた。

 そのナポリタンをフォークで勢いよくぐるぐると巻き取って、大きな渦を口に放り込んだ時のコウくんの嬉しそうな顔は、私にとって衝撃だった。目尻を下げ、いかにも美味しそうに咀嚼して、もごもごした状態のまま破顔する。

「旨い」

「そうでしょ。生のトマトが入ってんのよ」

「うん、旨い」

 すぐさま新しい渦をフォークに巻き付けて、これもまた口に放り込む。

 何だかたまらなくなって、真似してフォークに渦を作る。玉ねぎもピーマンも真っ赤な麺も一緒くたになったそれを一息に口の中へ押し込むと、ピーマンの苦味や玉ねぎの風味よりもトマトの味わいの方が強く、口の中いっぱいに広がった。

「うまいっ」

 母は目を丸くした。

「あんた、ナポリタン食べないんじゃなかったっけ」

 もごもごしたままコウくんが笑った。

「だって旨いもんなぁ」

「うん、うまいっ」

 私とコウくんは、うまい、うまいと合唱しながらナポリタンを平らげて、「まったくこの人たちは」と嬉しそうに呟く母の声を耳にした。


 真っ赤なランドセルもコウくんが用意してくれた。貧乏学生のはずのコウくんがどうやって手に入れたものか、今もってなお謎だ。

 その頃たぶん、母とコウくんの恋は終わりかけていたのだろう。数日とおかずにやって来ていたコウくんの訪問は頻度が落ちていて、私の夕飯はコンビニの袋から出てくる事が増えていた。

 冬の力ない日差しを背負ってドアを開けたコウくんが、マフラーを幾重にも巻いたまま「これ」と差し出した大きな箱には、ランドセルを背負って嬉しそうに笑う兎と虎が描かれていた。

「ランドセルっ!」

 春からの入学を控えてもランドセル入手の宛てがなかったため、小学生になれないのではというのがその頃の私の悩み事で、十日ほど前、ひょっこり顔を出したコウくんにそれを打ち明けたばかりだった。

 私とは対照的に眉を顰めた母は、タバコの煙を長く吐き出してからそれを流しでもみ消した。

「なによ、それ」

「なにって、必要でしょう」

「どうしたわけ?」

「どうって」

 箱を開けて良いものかと様子を伺っていた私に、いつかのようにしゃがみ込んだコウくんが手を伸ばす。私に向かって笑ってみせてから、蓋を開けて、薄紙に包まれた真っ赤なランドセルを取り出した。艶のある、大きくて立派なランドセルだ。

「背負ってごらん」

「……いいの?」

「もちろん。はるかちゃんのだよ」

 次の煙草に火をつける母を横目に見ながら、それでも誘惑には勝てず、恐る恐ると腕を通す。背負ってみるとランドセルは思いのほか軽くて、私は口角が上がってしまうのを止められなかった。コウくんも嬉しそうにふんわり笑った。私の頭を柔らかくポンポンと撫でる。

「父親にでもなったつもり?」

 母の鋭い声に、口から出かけていた「ありがとう」が押し戻される。

「でも、」

「施しができて嬉しい?」

「そんなんじゃないよ。だって、はるかちゃんは小学校に通わせなくちゃ」

「うるさい! 航太になんか分かるわけない!」

 叫び出した母との対話は不可能だ。それを、私もコウくんもよく理解するほどには関係は煮詰まっていた。

 ランドセルを背負って小学校に通い始めた時にはもう、コウくんがアパートのドアをノックすることはなくなっていた。私は時折、桜の木の影にコウくんの姿を探したけれど、どこにも見つけることは出来なかった。



 それから、母の「彼氏」は何人か現れたものの、コウくんのように私の存在を認めてくれる「彼氏」は見当たらなかった。どちらかと言うと邪険にされるケースが多く、必然的に十七で当時の恋人の部屋に転がり込むようにして家を出た。

 お弁当屋さんでアルバイトをしながら高校だけは出て、そのままその店に雇い入れてもらってから、少しして母の入院を知った。

 病室で顔を合わせた細面で気の弱そうなオジサンに、母は「娘」とひと言だけ私を紹介した。憮然とした態度。煙草が吸えなくて機嫌が悪いか、もしかしたら彼女なりに座りが悪い気持ちがあるのだろう。

 パジャマやタオルなど、洗濯物を引き受けて病室を出る。コインランドリーの空いている洗濯乾燥機に洗濯物を突っ込んでしまうとしばらくやる事もなくて、病室に戻る気にも到底なれない。


 行動を決め兼ねて近くのベンチに腰掛けると、「あの、」と声をかけられた。座る場所が悪かったかと反射的に腰を浮かしながら視線を向ければ、そこには、運転中に車の中で見かけたコウくんが座って居た。

「……はるかちゃん、だよね?」

「コウくん!」

 ふんわりとした柔らかな口調。眼鏡の奥で綻ぶ目元。優しいキリンに似た長身のコウくんが、遠慮がちにベンチからこちらを見ていた。私は嬉しさと懐かしさで弾けそうになりながら、立ち上がって隣の席へと移動する。顔の皺がいくらか増えて、肌が少し荒れて、でも照れたように頭をかく仕草は変わらない。

「大きくなったね」

 コウくんも、と言いかけてそれは何だか変だと思い、へへぇと不器用に笑うだけになる。病院のコインランドリーに私服で居ると言うことは、たぶん、患者ではないだろう。私のように身内が入院してるとか? そう思ったのと同じタイミングでコウくんが口を開く。

「もしかして、美弥子さん?」

「うん。入院してるけど、大したことないみたい」

「そっか」

「だいたいあのひと、お酒飲み過ぎなんだよ」

「それはあるね」

「煙草もやめないし」

 空気が解けて飴色になるようで、私は聞かれてもいないことをどんどん喋った。

 高校を出てお弁当屋さんで働いていること、母の前の彼氏にお尻を触られたのが嫌で家を飛び出したこと、今は年上の彼氏と暮らしていること、将来はふたりでナポリタンの美味しい小さな店を持ちたいと思っていること。

 どの話にもコウくんは丁寧に頷いて、ひとつひとつ大事そうに聴いてくれた。

「そうだ。いつかはランドセルをありがとう」

 言いそびれていたお礼を十年以上ぶりに口にすると、何故だか唐突に涙がバタバタと溢れ落ちた。

 コウくんは驚く様子もなくて、膝に乗せていたトートバッグからタオルハンカチを出して渡してくれた。知らない柔軟剤の匂いは甘く涙腺に染みた。それと同時に、きっとコウくんには今お嫁さんがいるんだなと悟る。

「コウくん、いま、幸せ?」

 鼻を啜りながら聞いた言葉に、コウくんは面白そうにこちらを向いた。質問には答えず、けれど静かに口元が弧を描いた。

 それから、いつかのようにコウくんの手がゆるゆるとやって来て、私の頭をポンポンと柔らかく撫でた。

「はるかちゃんも、幸せになるんだよ」

 大きな手のひらが温かい。いつも、こうやって誰かに勇気づけて欲しいと思っていたのだ。やっとそう気付く。

「何せ一時は親子だったからね、僕たちは。君の幸せをずっと願っているよ」

 うん、うん、と子供のように素直に頷きながら、胸の中が温かなもので満たされていくのを感じた。

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