伊島糸雨


 兄は盆暗だった。

 父と母が早くに死んで、親戚連中がだんまりを決め込む中、兄が家の仕事を継いだ。山間の小さな街で、工芸品の人形をつくるのが代々続く家業だった。土地の性質故か家はわずかに角度がついて、神社の夏祭りでもらったビー玉を置けば、畳の上をひとりで転がった。

「おまえはいい。こんなとこ、とっとと出てけ」

 それが働き始めて以降の兄の口癖で、別に手先が器用でも要領がいいでもないのに、手伝おうとする私を邪魔くさそうに追い払い、残ったわずかな職人たちと黙々作業を続けていた。

 兄は私を大学まで通わせた。推薦や奨学金など、私も努力はしたけれど、私が街から出て行こうとするのを兄は一度も止めなかった。「早くどっか行っちまえ」最後の一年、それが兄の口癖だった。

 都内で就職し、細々と生活を続ける間も、兄は滅多に連絡を寄越さなかった。盆の頃に短い手紙を一枚送るのみで、声など何年も聞かなかった。唯一の家族を忘れることはなかったけれど、私は徐々に兄という存在から離れていった。


『元気してるか』

 二十代も半ばを過ぎた頃、毎年手紙が届く頃に、突然兄から電話があった。兄の声は私の記憶とほとんど変わらないように思えた。「久しぶり。私は元気」そう答えると兄は一言『そうか』と言って話を終えた。

 その夏の終わりに、兄の訃報を聞いた。

 必要以上に大きな葬儀で、親類縁者は兄が由緒正しかった家を■けたのだと口々に囁いた。私の存在はないのと同然に扱われた。ひどく蒸し暑く、土と汗の匂いが絡まり合って、どろりと肌に張り付いていた。首を括って自死した兄を、弔問者たちは忌むように見て去っていった。私に電話をかける前、『助けてくれないか』と方々の家にかけていたのだと、風の噂で耳にした。

 空き家となった実家の管理は、私が手をこまねいているうちに親戚が預かることとなった。異論などあろうはずもなく、私は黙って一切の過ぎゆくのを見送った。

 元の日々に帰り、兄のことからも家のことからも遠ざかって二年が経つ間に、親戚がひとり、またひとりと亡くなっていった。交流などまるでないのに、律儀に喪中の葉書だけは投函された。死因のおおよそは病気や事故で、考え得る限りある種の必然性を主張できる経過を伴ってはいたようだが、それ以上のことについては誰もが口を閉ざした。

 義姉あねから帰省の誘いがあった時には、「ようやく私の番か」と本気で思っていた。

 几帳面に折り畳まれた紙には、最近は盆の頃も一人で寂しいから、墓参りがてら一緒に過ごさないか、という旨のことが流麗な筆跡で記されていた。私はその文字を見つめながら、実家の暗がりにぶら下がる虚ろな兄の姿と、縁側の陽だまりからそれを見上げる義姉あねの背中を想像した。返事は書かなかった。正しく届く自信がなかったからだ。

 陽炎の揺らぐ無人の駅舎に、蜘蛛の巣の残骸がへばりついていた。用を失ってなお、それは呪いのように残留し、飛び込むものを絡めとるのだろうと思う。夏の日差しの陰に隠れて、密かに腐り朽ちていく。誰が気にするでもなく、わずかに■く家のように。

 バスに乗り換えて狭い山道を進んで行くと、川沿いに故郷の街はある。周囲を山に囲まれ田畑が点々と連なる光景を見るのはおよそ十年ぶりのことだった。郷愁はないが、記憶の奥底からはあの匂いがふっと立ち上った。木々と畳に、土と汗。わずかな酸味の残る、蠢くものの匂い。人の気配はほとんどなかったが、その臭気だけはそこら中に漂っていた。

 街中から逸れて山を少し登っていけば、木々の合間にぽっかりと開けた空間があり、薄ぼけた塀に囲まれた横長の日本家屋が現れる。鳥の囀りと蝉の騒めきだけが、いやに重く耳に届いた。

 顎を伝う汗を拭って視線を巡らせると、門戸はすでに開け放たれて、近づけばすぐに庭が見えた。連なる飛び石の先、縁側は日当たりがよく、幼い私と兄はよくそこで昼寝をした。ふとそんなことを思い出し、記憶の幻像に目を奪われて──気づくのが、少し遅れた。

「──ぁ」

 目が合って、喜色を孕んだ声が漏れる。

 煩いほどの生命の音を払うように、その一音は奇妙に澄んで鼓膜を震わせた。

 団扇を煽ぐ手が止まる。労苦を知らない真白い首筋を、細く骨の浮いた指が、となぞり、人目を気にするように、ゆるく纏めた色濃い黒髪にそっと触れる。

 離れているはずなのに──存在しない百合の香が、噎せ返るほどに強く匂った。

「いらっしゃい。待ってたよ」

 耳朶をくすぐる涼やかな声。気がつくと、数歩先には私より少しだけ背の高いひとがあって、ちょうど軒下の影に重なる場所で、婉然と笑う。

 私は目を逸らして、一言「……はい」とだけ。

 視界の端、電気の消えた薄暗い部屋の中で、ぎし、と何かが揺れた気がした。



「写真はね、良くない、って言って、ぜんぶ捨てられちゃったの。ひどいよね」

 汗をかいた麦茶を出しながら、義姉あねはそう言って眉を下げた。兄の遺品の話を振ってのことだ。

「良くない、というと……」

「自死した人の写ったものは、悪いものを呼び寄せる、って。だからね、遺品も残ってないの。ごめんね」

 義姉あねは申し訳ないという風に頭を下げた。「……いえ、別に欲しいものもありませんから」私は何も知らされていない。自分から関わろうともしなかったから、当然のことといえばそれ以上のことはないけれど。

「長旅で疲れたでしょう。荷物置いて、居間で休んで」

 昼は食べたか、と聞かれて首を横に振ると、すぐに何か用意すると言って義姉あねは台所へ引っ込んでいった。

 家の間取りや家具の配置は、私がいた頃とほとんど変わらない。いくつか消えた物もありはしたが、生前の兄か遺品整理にきた親戚が、売りに出したか捨てたのだろう。テレビは元より置いていないし、Wi-Fiもここには通していない。電波も時々圏外になるので、あまりあてにはしていなかった。

 日中の明るい時間は電灯も要らないような場所だ。窓を開けて蚊取り線香でも焚いておけば、昼の間もそれなりに快適に過ごしていられる。

 食器や調理器具の擦れる音が微かに聞こえ、ややあって義姉あねが盆で素麺を運んできた。箸とつゆを並べ、「お待たせ」と笑顔を向ける。

「いただきます」小声で口にして箸を持ち上げた。

「召し上がれ」食べ終わるまで、義姉あねは黙って私を見つめていた。


 食後から夕方にかけて、私と義姉あねは同じ空間にいながらじっと黙して時を過ごした。私も義姉あねも、互いに何かを問うたり語ったりしようとはしなかった。近況を尋ねるでもなく、自身のことを話すでもなく……兄のことさえ、私たちは一度たりとも口にしなかった。暗黙の了解があったとは思えない。ただ、義姉あねは庭をぼうっと見つめる中で、時折こちらを振り向いては、意味ありげな笑みを浮かべた。

 楽しげでいて、けれどどこか憂いを帯びたその微笑みを、誘うようだと思う。

 妖艶は■国の得手と言うが、ここにあるのは■いだ家と家を■けたひとの妹だけだ。

 誘惑によって得をするものは、どこにもない。

 山の稜線に日が沈み、茅蜩ひぐらしの音が空気を震わせる頃になって、夕食の支度をすると義姉あねは縁側から立ち上がった。手伝おうかと言ってはみたものの、案の定「ううん、大丈夫。ゆっくりしてて」と置いていかれた。

 手持ち無沙汰の間は、家の中を歩いて回った。電球の交換をしていないのか、使用しない場所にはもう電気を通していないのか、底のない暗闇が口を開けている場所もいくつかあり、そこは避けてかつての自室だけをしばし覗いた。私の部屋は現在義姉あねが使っているようで、一瞬迷いはしたが、ちょっとだけと言い訳をして足を踏み入れた。

 畳部屋には、古めかしい箪笥だけがぽつりと置かれていた。箪笥の上には小さな木箱が載っていて、覗くと色とりどりのビー玉がいくつも入っている。幼少の時、夏祭りの折に兄がとってくれたのが嬉しくて、なんとなく大切にしまいこんでいたものだ。家を出る時には流石に置いていったが、まだ残っているとは思わなかった。

 殺風景な部屋だった。私の生活の面影がビー玉に宿るのみで、義姉の私物は箪笥の他には何もない。布団は押し入れの中だろうが、生活の匂いもほとんどしなかった。義姉あねから香るあの花の匂いも、何も……。

 足の裏、畳のざらつきに混じって、身体が■ぐ。家のほんの些細な■きなど以前は気にもならなかったのに、今はどうしてか、気持ちが悪い。慣れない角度に平衡感覚がおかしくなってしまったのだろうか。

 兄の部屋には鍵がかかっていて、中を見ることはできなかった。居間に戻り、近くの川で採れたという魚の塩焼きやらをテーブルにのせる義姉あねにそれとなく尋ねても、「ごめんね、私もそれは気になってて……遺品整理にきた人たちがやったんだと思うけど、鍵は見つからないし連絡も取れなくて……」と困ったように首を■げるのみだった。

 一日の終わり、不確かな夜の闇を前にしても義姉あねは縁側に腰掛けていた。視線は上を向いて、空へと注がれている。「お先に失礼します。今日はありがとうございました」側に寄って声をかけると、彼女はちら、とこちらを見上げて「一緒に過ごせて嬉しかった。おやすみなさい」とにこやかに言った。私が以前の自室を使い、義姉あねは居間で寝ることになっていた。

 夕食前の違和感もあって、横になるにはいささか勇気が要った。しかしいざ床に就いてみると、気を張っていたのもあってか、すぐに目蓋が重くなった。義姉あねが敷いてくれた布団は見覚えのあるものだったが、劣化も少なく十分以上の役割を果たしていた。

 意識が落ちる寸前、何かが転がるような音が聞こえた。翌朝目を覚ますと、部屋の隅にビー玉が二つ、身を寄せ合うようにして落ちていた。



 二泊三日の予定で、中日は墓参りに行こうと義姉あねが言った。兄の墓は実家に続く道の中程にあり、付近の家を含め代々の死者が弔われている。

「ここに来るのも久しぶりでしょう」

 枝葉の陰翳に埋もれた墓石を前にして義姉あねが言った。「寂しがってるかも」

「最後に来たのは中学生の時ですけど……寂しいとかは、ちょっと」わからないです、という言葉は尻すぼみに消えていく。「それもそうだね」義姉あねはそう言って笑った。

 木々が風に揺られて、密談にも似た葉の囁きがあたりを満たす。義姉あねは屈み込んで花と水を替え、そのまま手を合わせた。私はちょうどうなじを見下ろす形になり、しっとりと汗ばんだ曲線に張り付く髪を見つめた。

「お祈り、した?」

「まぁ──はい」

 よいしょ、と立ち上がった義姉あねに頷きを返す。それ以外に言葉の選びようもなかった。

「他にも墓参りに来た人はいたんですか」

「いないよ。あなただけ。他の人はやることだけやって、すぐに帰っちゃったから」

 家に戻り、縁側に並び座ると、義姉あねは嬉しそうに言った。「だから、ありがとう、って感じ」

「私の台詞です、それは……」私は言葉に詰まり、けれどどうにかして絞り出す。「私は、何もしなかったから」

 ざわ、と風が鳴ったような気がした。

 俯いた私を、影が覆う。その形は奇妙に大きく、鼓動に合わせて脈打つようでもある。「うん、そうだね」声はねぶるように耳奥を這い、擦り合う腕は血の気を欠いて冷えきっている。

 はっとして見上げた先、義姉あねのその微笑みは拐かすように謎めいて、私はふと考える。

 この人は私を、どこへいざなって行くのだろう。

 義姉は言う。

「誰も、あの人のことを助けてはくれなかったよね」


 最初から、わかっていたことだ。

 何かを抱えた兄へ、何もしなかったということ。

 歪みから目を逸らして、一人きりの均衡に縋ったこと。

 この義姉ヒトを、今の今まで放っておいたということ。

 兄にすべてを押しつけ不均衡の■きをそのままにして、

 転がり落ちるビー玉を、ただ見下ろしていたということ。

 義姉あねはきっと、私の罪を知っている。義姉あねはずっとここにいて、この不安定な家で兄の側に寄り添い続け、兄が壊れていくのも、死んでゆくのも、ずっとぜんぶを見つめ続けた。

 だから私は、最初からこう問うべきだった。義姉あねからの手紙を見た日、不幸にも・・・・死んでいった親類縁者を思い返し、「次は私だ」と考えたそのままに。

 私を恨まないんですか、と。

「恨む? あなたを?」義姉あねはさも可笑しいという風にくすりと笑う。まるで道理が理解できないとでもいうように、首を■げて。「そんなわけないじゃない。だって──」

「あの人、妹のことだけは大切にしていたから」

 脳髄を犯すような花の香りが、柔らかな感触と共に私を包む。すべらかな枝に似た細指が背筋を這い回り、ほのかな汗の匂いと共に黒の長髪が頬に触れる。


 兄は盆暗だった。

 慣れないことをして、必死になって、ひとりで勝手に■いて。

 誰の助けも得られずに、わずかな■斜をころころと転がり落ちていく。

 けれど、愚かだったのは私の方だ。天秤のもう一方に、自分の身を賭けることすらできなかった。だから今ここにいる。兄が遺したもの・・・・・・・を前にして。

 真昼の日差しが虚ろに翳る。落日の残照が地を這い、影を伸ばして、私たちを覆い隠す。

「なら、それなら」

 生温い吐息に震えながら、私は義姉あねに問いかける。

「どうして、兄は私を遠ざけたの」

「どうして、皆は兄を疎んだの」

 兄の『助けて』は、いったいどこから来ていたの?

 ぎし、と背後で何かが揺れる。転がり落ちたビー玉が、ころころと転がり落ちていく。

 兄が結婚していたなんて、私は知らなかったのだ。


「──さあ」

 薄墨の光の中で義姉あねが囁く。蕩けるような静かな声で、どこかで均衡を欠いた音で。

「私には、わからないかな」

 一切が暗闇に閉ざされて、匂いと音が影に消えてなお、ひとつだけはっきりしていることがある。

 遺された感覚が捉えている。兄がずっと感じ続けた、ささやかな不均衡を。

 義姉あねがいる。だから、今ならしっかりと理解している。


 この家は私が生まれる前からずっと、ほんの少しだけ、■いている。

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