君だけを濡らす雨が降る

狂フラフープ

君だけを濡らす雨が降る


 そうして人類は永遠の眠りについた。 

 後の始末は人の産んだ最も善きもの、グンヒルド嬢に託される。

 故郷より遠く離れたこの地で我らをいつまでも語り継いでほしい。

 完璧な淑女と讃えられた空鯨は、その墓標に永遠に寄り添うと決めた。


 ◇


 水溜まりに浮く石を、雨が食む。その雨を僕たちが飲む。そして僕たちを鮫が食らう。世界はそうやって回っていく。

 けれど僕らが雨の全てを飲み干さないように、僕らも残らず鮫に食われてやる道理もない。だから僕らはひづめで大地を切り付け、風にたてがみを鳴らして新天地へ向かう。

 幾つもの山を越え、瀬を踏み、原を渡った。

 随分と駆けたが、それでもまだ旅は続く。

 この辺りは地下を大量の雨水が流れていて、だから常に低い低い地鳴りの音と細かな揺れが辺りを満たしているのだという。

 この音と振動が良く利く鮫の鼻を誤魔化してくれるのだ、と群れ長が言う。

 錆で半分閉ざされた眼が、けれど誰より真実を見通す慧眼であることを、群れの誰もが知っている。

 長居さえしなければ、雲に紛れる鮫たちも僕らを見失う。

 揺れる寝床にはもう慣れた。止まない地鳴りも、とにかく腹が空くのも、一日中歩き通すのももうつらくはない。

 それでも眠れず寝床を抜け出したのは、二つの月の連なりが、まるで優雅に踊っているように見えたからだ。

「眠れないの?」

 群れから離れて空を見上げる僕に気付いたのか、背後から声がした。

 群れの少し年上の牝だ。物陰から這い出す小柄な身体が、月光に濡れて飴のように見えた。

「月が、」

 僕は言いかけて、自分の抱いた気持ちをどう言葉にしていいのか迷う。

 答えが出てくるより先に、月から視線を戻した彼女が怪訝な顔で尋ねる。

「何もおかしなところはないけれど」

 僕は口をつぐんで、いいんだ、と向こうに聞こえているかもわからない声で呟いた。

 父だけが分かってくれた。

 その父は死に、一房のたてがみだけを遺した。

「どうして鮫が増えたのかな」

 首筋の触腕で探り当てた小石を、月に目掛けて大きく放り投げる。

「鮫だけじゃないわ。とび水母くらげも増えてる。地虫たちはどこに行ってしまったのかしら」

 独り言への飴色の娘の応えが、風に乗って届く。けれど僕の意識は既に、同じ風が運んできた血の臭いに奪われていた。

 僕は彼女を促し、それぞれ高所へ駆け上がって辺りを見張る。

 血臭はやがて、峠の尾根から姿を見せた。


 仲間ではない。きっと別の群れの個体だ。

 足を引きずる遠い影は、こちらまで辿り着くことも出来ず、道半ばに倒れ伏す。

 僕らは駆け寄りながら、彼が一目見てもう助からないと悟るような、凄惨な傷を負っていることに気が付いていった。

「鮫だ。あいつらここに案内させるために、あえて生かしたまま逃がしたんだ」

 鼻の利かない自分たちにさえわかる血の匂いは、鮫の鼻ならどれ程の距離から嗅ぎつけられるだろうか。

 血の痕の続く方向の空を見上げる。雲はもうすぐそこまで迫っている。

 手分けして群れの皆を叩き起こし、幼子や疲れの隠せない年寄りを連れ僕らは地鳴りの寝床を後にした。

 先駆けを買って出た僕に、世話役たちは一も二も無く役目を命じた。

 本来ならもっと年長の者の役回りだが、群れにはもう十分な数の大人がいない。


「向こうの、雲のない盆地は?」

 月も大きく傾いだ頃。群れに戻った僕が尋ねたとき、群れ長は首を振り、珍しく自らの言葉で否定した。

「あれは禁忌の庭だ。鮫は雨霧の中しか動けぬが、我々とて雲から離れれば長くは生きられない。見ろ。涸れ谷だ。川に雨が流れ込まぬと、ああなる。こんなものはここにしかない」

 鮫が飢えるより、先に僕らが渇いて死ぬ。

 後に続いた群れ長の厳めしい言葉を、僕はそう理解して口を閉ざす。

 次の出発を命じる世話役の言葉を、上手く聞き取れなかった。

 雨の響きが駆け寄ってきたから。

 落ちてきた雨粒が大地を叩き、きんきんと甲高く響く雨の足音は密度を増す。音はやがて連なり、ひとつの大きな轟音と化す。

 連なる雨滴が、壁になって群れへ割り入った。

 世話役の次の言葉を、今度は一切聞き取れなかったが、彼が何と言ったかはすぐに分かった。世話役の口は鮫だ、と叫ぶ形で大きく開かれていた。

 分断された二つの群れは各々別の方向へと駆けだした。

 群れを追う黒く大きな雲塊が、形を変えてまるで僕らに触腕を伸ばしている。不自然に突出した雲脚は、襲撃の前触れだ。

 暴れ狂う雨滴が岩を削り、欠けた石を食らう。

 雨の中に取り残されれば、食らわれるのは石だけではない。

 遥か頭上で涎を垂らす鮫たちが僕らが足を止めるのを待ち侘びている。 

 獲物を探して雨が幾筋も大地を舐め、雨に溺れる度に僕らは疲弊していく。

 生温かい雨に飲み込まれ自分の足元さえも不確かな視界の中、懸命に走る。 転べば終わりだ。足を緩めても死ぬ。

 早く雨脚から抜け出ねばならないのに、どちらに走れば外へと続いているのかさえ分からない。

 雨を泳いで奴らが来る。大きな鰭で雨を蹴り、巨大な顎が牙を剥く。鮫が僕らを狩りに降る。

 何か巨大なものが通り過ぎる風音と、一瞬の地面の揺れ。振り返ったときには隣で走っていた誰かの躯幹の半分が消えていた。

 息を呑み、濃密な雨にむせて、半狂乱で駆けに駆ける。

 いつの間に群れからはぐれていたかなど、考える余裕もなかった。

 限界を超えて走り続け、霞む視界の中で自分を目指して伸びてくる雲の腕が、少しずつ細くなっていることに気が付いた。

 雲のない空へ雲塊を伸ばすには、さしもの鮫とて限界があるのだ。雲のない方へ、ただそれだけを考えて足を動かし続ける。

 いつまで続くかも知れぬ逃奔の終わりのことを考えたとき、それは見渡す限り視界の先を横切っていた。

 平時なら近付くことも躊躇うような高さの崖だ。崖の下には、平らかな地面が広がっている。

 崖を駆け下りる他に逃げ道はなく、覚悟は不思議なほどにすぐ決まった。

 半ば転がるように崖下に辿り着き、慌てて跳ね起きて駆ける。

 雨を泳ぐ鮫が崖を戻れぬわけもあるまいに、雨はそれ以上追ってこなかった。

 自分が立っているのが群れ長が禁忌の庭と呼んだ土地だと気付いたのは、乱れた息が整って、帰り道を失くした己の何処とも知れぬ行先に途方に暮れてからのことだ。


 とにかくまずは崖に沿って、登れる場所を探しながら歩くことにする。

 歩き始めてすぐに、群れ長の言葉の意味を理解した。

 この土地には地面に窪みがあっても、雨が満たしていない。生き物の気配もない。ただただ、どこまでも乾いた大地が続くばかりだ。

 切り立った崖は一向に途切れない。喉が渇くあまり、一旦飲み水が見つかるまで低地を目指そうと崖を離れた。

 思い返せば、それが間違いだったように思う。

 一向に見つからない雨溜まりにむきになるあまり、絶えず視界に収めるようにしていた崖さえ見えぬ所までさ迷い歩いた。

 そんなものはここにはないのだと悟る頃には、渇きが切実に命を脅かす段階に達している実感があった。

 雨雲は遥か遠い。帰り道が分かったとして、今の重い足取りでは庭の外まで辿り着かずに野垂れ死ぬに違いない。そう思えばもう、立っている気力さえ捻り出せない。

 休もうと思った。

 膝をつき、倒れ込んで地に頬をつける。

 ひと眠りして、先のことはそれから考えよう。今眠ればもう二度と立ち上がれないであろうことは頭の隅で分かっていても、誘惑には抗い難い。

 地面に、倒れ伏した距離だからこそ気付く痕跡があった。

 石が雨に食われて、真新しい断面を晒している。ごく最近、この場所を水が流れたことの証拠だ。

 そして、何かが視界の端で動いた。

 落ちるのではなく、風も無いのに横へ動く、生き物の動きだ。

 水があり、生き物がいる。遠巻きに僕を見張っている。実を結んだ希望が萎えた足に力を戻す。

 間違いなく、何かの気配がある。ひとつではなくふたつ、みっつ、無数の気配に気が付かなかったのは何故だろう。

 あの坂を上り切れば、視界が開けてきっと彼らの姿が目に映るだろう。きっと水場もあるはずだ。

 朦朧とした頭で足を引きずり、ぼんやりとした希望に最後の力を注ぎ込んだ。

 歩く。

 引きずるように歩く。

 視界が開けたとき、それは視界の中に姿を晒した。生き物でなく、けれど八本の足と鋏を持った石で出来た動く何か。いくつかのそれが僕を見ている。

 水場などどこにもなかった。

 ついに足から力が抜け、崩れ落ちた僕を石の何かが取り囲む。

 僕を覗き込む何かたちが、一斉に空を仰いた。

 見上げた空を横切って、視界を覆うほどの大きさの、少しだけ鮫に似たそれは、土砂降りの雨でなく、晴れた空を泳いでいる。

 

 頭に浮かんだ考えはただひとつ。

 なんて綺麗なひとだろう。

 伸ばした触腕は空に届かず、意識はそれきり落ちていく。


 ◇


「目が覚めた?」

 誰かが僕を覗き込んでいる。

 次第に意識がはっきりして、声の主が地鳴りの寝床で話したあの飴色の娘だと気付いた。

「きみが、助けてくれた?」

「あなたを禁忌の庭の入り口で見つけて、運んできたのはわたし。別の何かが、あなたをそこまで運んできたのよ。――石で出来た、へんな生き物が」

 飴色の娘の答えに僕は寝床から跳ね起きようとして、力の入らない足が身体を支え損ねた。

「落ち着いて。群れ長が話してくれるそうよ」

 介添えされて立ち上がると、辺りの様子が良く分かった。

 ほとんどが地面に伏せ、動き回るものは僅かにすぎない。少なくない数が怪我を負っていて、何より姿が見えないものが一番多い。

「他の皆は? 見張りに出ているの?」

「……居ないわ。鮫に食べられた」

 聞いて思わず立ち止まってしまった僕から、彼女は言葉なく目を逸らした。

 僕が群れの一部だと思っていたものが、今の群れの全てなのだ。

 数えるほどまでに減った世話役たちの間を抜けて、僕は群れ長の前に立った。

「……よくぞ戻った」

 群れ長の言葉に驚く。

 自分のような若輩が労われることにも、世話役がそれを咎めないことにも。

 だが考えて気付く。自分は生き残った残り僅かな若者なのだ。

「奇妙な石の獣に助けられたと聞きました」

 群れ長が頷く。

「石蜘蛛であろう。禁忌の庭に蠢く、命無き獣。庭で迷う者を、助けることもある」

「あの。他にも見ました。石蜘蛛以外に、雨もないのに空を泳ぐ、大きな、とても大きな、」

――そして、とても美しいひと

 言おうとして、ひづめもたてがみもない相手を何故そう思ったのか自分で自分を理解できなかった。言葉はそこで途切れた。

 群れ長は錆びた目を細め、

「空掴み、あるいは空鯨。雨を憎み、雲を食らう。石蜘蛛たちの神だ」

 あの土地のことは忘れよ、とでも言うように声音を変える。

 僕にはそれが容れ難かった。

「禁忌の庭で、雨水の流れた痕跡を見ました」

 群れ長の言葉を遮り割り込んだことに、世話役たちが目に見えてざわつく。

「伝承と違って、あの土地には雨が降るのかもしれません。禁忌の庭を、探りに行かせてください」

 長は肯定するでも否定するでもない。沈黙し、僕の目を見る。

 そしてただひとこと言う。

「お前に、物見を命じる」


 庭に降る雨をこの目で見ることがきっと、死に瀕した群れの活路となる。

 たらふく石を食らった雨を飲めるだけ飲み貯めて、半ば黙認されて禁忌の庭へ足を踏み入れた。

 しばらく進むと、石蜘蛛たちはすぐに姿を見せた。

 友好的ではあるが、あまり刺激するべきではない。頭ではそう思いつつ、助けて貰った礼を言っていないことを思い出す。

 伝わるまいとは思いながらも感謝を示すと、二匹の石蜘蛛がこちらを真似するように、同じ動きをした。

 挨拶だと思われたのかもしれない。

 困ったことに、再び歩き出しても彼らの距離感は縮まったままで、傍から見れば僕が彼らを案内しているようにさえ見えただろう。

 ここまで近付かれたなら、いっそ彼らに雨のことを聞いた方が手っ取り早いかもしれない。どうにか意思疎通が出来ないか試しているうち、僕は石蜘蛛についても詳しくなった。

 改めて見た彼らは僕らよりすこし小さい。

 背中に個体によって異なる斑点がある。

 それから、石蜘蛛が集まる場所には、近くに必ずとあるものがあることに気が付いた。石蜘蛛よりさらに小さな生き物の、石の巣のような何か。

 けれど肝心の小さな生き物は影も形もない。石の巣はとても古びて、今にも崩れそうにある。触腕で触れようとすると、石蜘蛛たちに怒られてしまった。

 石蜘蛛は奇妙な振舞いをする。

 触れようとすれば怒るくせに、僕がその奇妙な石の巣をじっと見るのを、石蜘蛛は喜んでいるようにさえ思えた。

 中でもとりわけ石蜘蛛が喜ぶのは、奇妙な模様が刻まれた石だ。

 模様を形作る線には明らかな決まりがあって、けれど決して自然にはこんな模様は生まれないだろう。これはきっと石蜘蛛たちが、何かの意味を込めた模様だ。

「これは、誰かのお墓?」

 石蜘蛛は答えない。

 綺麗な模様を、目印にしようと思った。


 いざ群れで禁忌の庭を通り抜けるとなれば、怪我を負った仲間や年寄りが抜けられない崖や難所を避けられるよう、出来る限り先まで把握しなければならない。模様を覚えるには自分でその模様を刻んでみるのが一番いい。

 そんな理屈を考えた。

 本当のところ、僕はこの奇妙に美しい模様がどうしても気に入って、自分で刻めるようになりたかった。

 いくつか真似して地面に描いた模様を、石蜘蛛が隣から覗き込んでいることに気がついた。

 同じ模様を、石蜘蛛は一目見て分かるほどずっときれいに、正確に描いてみせた。

 そんな石蜘蛛の様子がとても得意げに見えたこと。

 僕はそれが悔しかったのかもしれない。

 自分の首に巻き付けたものを取り外して、僕は石蜘蛛たちに見せびらかした。

 美しく編み込まれ結ばれた、たてがみの束。 

「これ、母さんが編んだ父さんのたてがみ」

 なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。

「父さんは群れで一番きれいなたてがみをしてた。それを、母さんが結んで、編み込んだんだ」

 群れの仲間相手にだって、こんなことはしたことがないのに。どうして自分は言葉も通じぬ相手に自慢などしているのだろう。

 この奇妙な友人が、宝物を、羨んでくれると期待した。

 自分がきれいだと思うものをきれいだと思ってくれるのではないかと、そう思わずにはいられなかった。

 言葉も通じぬ石蜘蛛たちの間は、居心地が良かった。

 石蜘蛛が寝転んだ僕のたてがみを梳かし、編み上げていく。

「父さんのみたいに、きれいじゃないだろ?」

 自分はこんなに饒舌だったのか驚くほど僕は喋った。

「血の繋がった本当の子供じゃないんだ。子供でもない僕を育てる父さんは、群れの皆から変わり者だって言われてた。でも父さんは言ってたんだ。世界の全ては移り変わるから、いつまでも同じものを愛し続けることはできないって」

 誰もが違うものを恐れて、同じものを愛そうとする。

 けれど、愛したものが変わっていくことを、僕らは受け入れなければならない。

 話すうち、忘れていた父の言葉が記憶の底からいくつも掘り起こされていく。

 異質なものに囲まれているはずなのに、自分は初めからここに居るべきだったとさえ思う。


 そして、空鯨が姿を現した。

 気が付いたことがある。石蜘蛛は、空鯨の身体の一部なのかもしれない。

 少なくとも、空鯨と石蜘蛛たちは繋がっている。

 石蜘蛛は時々、さっきまで別の個体とやっていたことを、他の個体が当たり前に引き継いだりする。

 石蜘蛛が空鯨と同じ動きをするとき、真似ではなく全く同じ拍子に動く。

 小さく奇妙な友人との心の繋がりが、本当は鮫よりも大きな空鯨との触れ合いだったと知って、僕はひどくおかしな気分になった。

 それから空鯨と石蜘蛛は、僕を石の森へと連れていった。


 奇妙に林立する石の巣の連なりを、僕は美しいと思った。

 石の巣には数え切れない数の模様が刻まれている。現実の光景を写し取った模様がある。空想としか思えない光景を描いた模様がある。

 彼らの姿は、模様の中に何度も現れた。石の森に棲む小さな生き物。二つ脚でまっすぐに立つ、空鯨の大事なひとたち。

 心地良い繰り返しと変化、この模様に、どれだけの心が込められているだろう。

 これを刻んだ彼らのことを考える。



 群れと禁忌の地を何度か行き来して、僕は多くを見て多くを知る。

 石の森はいくつかあって、空鯨はその間を絶えず飛び回っている。

 禁忌の森で雨を見た。

 空鯨が雲を食らうのは、石の森を雨から守るためなのだ。

 つまり石の森から離れた位置を通れば、それだけ雨に出くわすことのできる機会は増える。通りやすく、石の森から外れた通り道を僕は探した。

 石で出来た石蜘蛛は、雨に打たれれば食われてしまう。

 背中の斑点が雨に食われた痕であることに、僕は雨に食われる石蜘蛛を見てようやく気付いた。

 降り注ぐ雨の中、彼らは意外なほどに素早く動けるのに、逃げもしないのを不思議に思った。

 彼らにとって、石の森は自分自身より大切なものなのだ。

 僕は思わず彼らを庇い、彼らの傘になってそのことを知った。

 これで彼らは雨に食われずに済むだろうか。そう思って石蜘蛛を窺った僕の足をその鋏が弱々しく引いた。自分よりも、森を守ってくれ。そう懇願するかのように。

 けれど石の森はあまりに大きく、あまりに多い。

 空鯨は必死に雲を食らうけれど、今この瞬間にも雨は石を食らい続け、遠くで食われた森が、周囲を巻き込み崩れる音が響く。

 声を持たない石蜘蛛たちが、けれどその鋏で、視線で、痛いほどに悲しみを語っている。言葉にならない声だけが、僕の喉からこぼれ出る。

 時は無情に進む。

 雲が食われ、雨は止んだ。

 石の森は崩れて元には戻らない。

 石蜘蛛たちは何も出来ず、ただ壊れた森を取り囲み佇んでいる。漂う空鯨はまるで、親からはぐれて途方に暮れる子供のようだった。

 空を覆う大きな体が不思議なくらいに小さく見える。

 泣くことも出来ずに言いつけを守る、ちっぽけで無力な子供に見える。


 ◇


 幾度目かに群れへ戻ったとき。

 群れの様子は明らかに浮足立ち、尋ねた世話役は出立の準備だと答えた。

「群れはこれより禁忌の庭を抜ける。喜べ。群れが生き延びればお前の手柄だ」

 あまりに急な話に僕が立ち呆けている間にも、事は驚くほど手早く前へ進んでいった。

 世話役の指示の下、群れの全てが一糸乱れぬ行進を始める。

 本来案内となるべき僕だけが取り残されて、老いも幼きも、病んだ者も誰もが僕の目印を案内として、前へ前へと決死行を続けた。

 振り返れば、どす黒い雲塊が禁忌の庭の境界を越えて伸びてきていた。

「鮫が動き出したな。想定の通りだ」

 禁忌の庭へ踏み込めば、渇き以外に僕らを脅かすものはないと思っていた。有り得ないことを目の前に冷静な世話役に、僕は取り乱してすがった。

「どうして、禁忌の庭に雲を伸ばすことができるんですか」

「鮫共はいつでも禁忌の庭に踏み込むことが出来たのだ。我らを摘まみ食いながら、空鯨の消耗を待ち続けていた」

 理解の追い付かない僕に、世話役は淡々と言って聞かせる。

「お前の持ち帰った情報で、鮫が行く先を塞ぐばかりで、我らを食い尽くさぬ理由に合点がいった。鮫はこの場に留まるのが目的だった。弱った空鯨を食らうために」

 世話役は荒い息を上げながら、険しい道を踏み越える。

 誰もが死に物狂いで前へ進んでいた。出立の前から、群れは迫る死の影に怯えていたと知った。

「群れ長の考えはこうだ。禁忌の庭はかつてより小さくなっている。伝承に誤りはない。禁忌の庭に雨は降らない。降るとしたら、禁忌の庭に異常が起きている証拠なのだ。今までにない鮫の群れは、空鯨の死臭を嗅いで集まったものであるということ」

 僕は立ち止まる。

 それをしばらく横目で見ていた世話役も、前へ向き直り僕を置き去りにした。

 ようやく理解が追い付いても、心はまるで追い付かない。

 僕たちの決死行は、空鯨を囮に行われるものなのだ。空鯨が食われている隙に、群れは禁忌の庭を抜ける。群れが進める計画を、僕だけが知らなかった。


「どこへいくの」

 飴色の娘が僕を呼び止める。

「空鯨のところへ? あなたは石蜘蛛でも、空鯨でもない。行けば死ぬわ」

 僕が思う以上に、仲間たちは僕を見ているのだと思う。我ながら薄情な奴だと心の内で笑う。僕を気に掛け、助け、今もこうして引き留めようとする彼女の言葉はきっと正しくて、心の底から仲間として伸ばされた優しさだった。

「それでも行かなきゃ」

 群れが空鯨を見捨てようとしているなどという考えが、まるで的外れであることくらい分かっている。

「父さんが本当の父さんじゃないって知ったとき、僕は父さんに聞いたんだ。どうして父さんは僕と一緒にいてくれるのかって」

 分かってもらえないことは、分かっている。

「父さんは言ったんだ。母さんが死んだとき、僕が父さんと同じでなくても、僕を愛そうと決めたからだって」

 飴色の娘は何も言わず、ただ悲しげな顔をした。

 その顔に後ろ足で土を浴びせて、僕は群れを後にする。


 どんよりと黒い雲が頭上を覆う。

 石の森目指して走る僕の顔を、大粒の雨が叩いた。

 行く手には黒く煙る嵐が見える。雨に食われ、動けなくなった石蜘蛛を見た。

 石の森の真上、雨を泳ぎ、雲を食らう空鯨を見た。

 空鯨に執拗に纏わりつき、食らい付く鮫の群れを見た。

 巨大な尾びれが鮫を殴りつけ、吹き飛ばされた鮫が一頭、地面に跳ねる。その間に二頭の鮫がもがく空鯨に牙を突き立てる。

 荒れ狂う雨が石の森を、その足元の石蜘蛛たちを食い散らしていた。

 駆け付けて、自分に何ができるというのか。そんな考えは傷だらけの空鯨と石蜘蛛たちを見た瞬間に消え去った。

 空鯨が泣いている。僕にはそれが許し難く、鮫たちが憎くてたまらなかった。

 石蜘蛛たちは今も食われ続ける己が身も顧みてはいない。

 せめて石の森さえ無事であれば良いと、蜘蛛糸を吐き崩れつつある森を支えている。けれどそんな形振り構わぬ石蜘蛛の糸は、守ろうとする石の森もろともに雨粒に食い荒らされ、石の森は僕の目の前で次々と崩れ落ちていく。

 石蜘蛛が泣いている。

 成す術なく失われゆく石の森を嘆き、己の無力を嘆いて、僕に助けを求めている。

 僕は彼らの鋏を、己のたてがみに沿わせ、促した。

 鋏が断ち切ったたてがみを、石蜘蛛が急いで一本の糸へと編み上げる。

 雨に食われない糸に支えられ、崩れ落ちる森の中で、目の前のひとつだけがどうにか持ちこたえていた。

 石の森はあまりに大きく、あまりに多い。

 僕の全てのたてがみを使っても、残った石の森を守り抜くことなどできはしなかった。

 けれどたてがみならまだ残っている。

 愛したものが変わっていくことを、大切なものが失われゆくことを、僕らは受け入れなければならない。

 父さんのたてがみを差し出した。

 動きを凍り付かせた石蜘蛛に、僕は言う。

「いいんだ」

 失ったものをいつまでも愛し続けることは、美しいことかもしれない。

 けれど永遠に、何かが好きだった頃の自分で居続けることは出来ない。

 かつて父さんが言った言葉が、今なら理解できた。

 石蜘蛛は信じられないものを見る視線を僕に向ける。

 分かってくれると、僕は石蜘蛛を信じた。

「今は、君が泣くのを見たくない」

 怯えたような手つきで、石蜘蛛の鋏がたてがみを断ち切った。

 頭上では空鯨は今も血を流し、鮫の群れは数を増している。

 空鯨に弾き飛ばされた一頭が空中で身を翻して、頭を巡らせた拍子にその血走った目が僕を捉えた。

 鮫は牙を剥き、こちらへ向かってこちらへ向かってくる。

 ここで死ぬのだと思った。

 これだけの数の鮫がいて、今まで誰も僕を狙わずにいたのが不思議なほどだ。

 僕は石蜘蛛から離れ、囮になるために走る。父さんのように。

 何度も練習したのだ。

 もっとずっと格好良くやれると思っていたけれど。怖くて足が震えて、のろまで、きっと無様な走りだろう。鳴らすたてがみだってない。

 けれど振り返れば鮫は僕を追ってくる。それでよかった。

 望んだ最後ではない。

 想像した終わりでもない。

 それでよかった。悔いはない。

 小さく離れた石蜘蛛たちに、僕は届くはずもない別れの言葉を呟いて目をつむる。

 それから、覚悟した最期の代わりに、閉じた目蓋を光と爆音が貫いた。

 足を止め目を開けても、まばゆい光がまだ視界を白く黒く閉ざし、僕は生き物が灼ける臭いだけを嗅いだ。

 雷が墜ちたのかと思うけれど、そうじゃない。耳と目を音と光から取り戻して、それが空鯨から発せられたことに僕は気が付く。

 僕と空鯨の間を遮る石の森が、大きく消し飛んでいたから。


 森に空いた大きな風穴の向こうで、空鯨がひと際大きく啼く。

 崩れ行く石の森の轟音さえ搔き消すような、長く、いつまでも続く哀しみの叫びは、けれどその終わり際、まるで美しい唄のようにも聞こえた。

 もう居なくなってしまった者たちを送り出す別れの唄に。

 空鯨に鮫たちが一斉に喰らい付く。

 唄が、拍子を変えて高らかに響く。

 群がる鮫を雷霆が焼く。眩い閃光が石の森さえもろともに、僕へ迫る鮫を刺し貫く。

 追いかけて来た石蜘蛛たちが身を挺するように幾重にも僕にしがみ付くと、石の森を盾に逃げようとする鮫を、連なる雷はもろともに容赦なく薙ぎ払った。


 全てが終わったとき、僕と石蜘蛛と、空鯨だけが残されていた。


 ◇


 操る者を失くして、散り散りになった黒雲の隙間から陽の光が差していた。

 瓦礫の中にほんの一欠け残った壁には、二つ脚でまっすぐに立つ小さな生き物。石の森の主人の模様が描かれている。

 僕をその足元に引き留めて、石蜘蛛は瓦礫から石の欠片を拾った。

 石蜘蛛は二つ脚の傍らに並べる様に、何かを刻む。出来上がったそれは、四つのひづめと、立派なたてがみをしていた。

 僕はその隣に、空を泳ぐ大きな鯨と、蜘蛛たちを描いて、群れへと戻るため石蜘蛛たちに背を向ける。 

 石蜘蛛は鋏の付いた足を大きく掲げて振り回す。

 僕は彼らの真似をする。


 それからもまた幾つもの山を越え、瀬を踏み、原を渡る。

 随分と駆けたが、それでもまだ旅は続く。


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