7月17日日曜日 怪しい訪問者

 こういう質問をされたことがあるだろうか。


『幽霊と人間どっちが怖い?』


 回答者によってどちらを選ぶかは知る由もないし、統計を取ったわけでもないので比率を提示することもできない。


 怖いとは恐怖であり、なにかと問われれば、自分にどれだけの危害が加えられるかの割合だと考えられる。簡単にまとめると、命に関わるかの問題ということだ。


 幽霊に殺されたという裁判結果はお目にかからない。反対に、殺人事件の話は世界中どこでも聞く。


 命に関わるのが恐怖の正体ならば、それは――人間の方が怖いと答えることになる。別段、普通のことに思える話に終息してしまう。



 スズメが電柱に止まり、ネズミみたいな口笛を鳴らす。不思議とカラスや犬などの騒音問題に発展しにくい声のくせに、よく通ると。おっと、数が集まっては大合唱になりそうだ。これは、騒音苦情が入りそうである。


 太陽は本調子まで少しばかり時間が必要で、道を歩く人々もまだ余裕が伺える。


 普段なら一時間目が始まる時刻に、万尋は自室で机に向かい合っていた。


 机に並べられた開きっぱなしの教科書や参考書、転がる赤ペンは端っこに、シャー芯の折れた先がノートの折り目から出てこない。


 そんな散らかりようの机に両ひじをついて、頭を押さえる万尋。


 顔に浮かぶ冷汗は、どうも暑さだけのせいではなさそうだ。


「この、俺が…………提出物のやり忘れていただと……⁉」


 残り五教科。その中の歴史と現代文のプリントを解き忘れていた。


「まっ、まあ、月曜日も休みだし、六時間あれば終わるだろ。最悪、答え見ながら解いたふりすれば間に合う」


 全国学生諸君も、回答を見ながら問題集を解く可能性もなくはないだろう。ひとこと助言するに、結構バレてるものだと。追加に語ると、教師もそこまでしっかりと確認してないぞ。


 どっちを信じるかは己次第。一番見ているのは自分であることだけは忘れずに。


 万尋は背筋を伸ばし、姿勢を正す。


「うんじゃあ、始めますかね」


 くるくる回転させたシャーペンを握りしめ、問題集へと――。


「にいやぁー。お客さんだって」


 扉をノック無しで開閉した万尋の妹が言った。


「お客さん? こんな朝から誰だよ。史栞とも約束してないけどな」


「にいやぁが前一緒に帰ってた、人じゃない」


「そうなると……あいつらも提出物忘れたとかか」


 万尋は同じクラスの友人達の顔を浮かべながら、部屋を出た。


 階段を下り、玄関とドアを開ける。



「???」



 自分の知り合いに彼女がいたかと、万尋は首をかしげてしまう。


 後ろで髪をまとめたポニーテール、童顔のようだが疲れが色濃く出て、それを化粧で隠している。


 黒のタンクトップと黒いデニムパンツ。漆黒でもまとっているとツッコミがいのあるブラック一色だけど、白のシースルーカーディガンがバランスを取っていた。


 彼女は万尋の疑問符を察したのか、お辞儀一つしてから、口を開く。


「休日にいきなりすみません。こちら、五宮万尋いつみやまひろさんのお宅で間違いではないですか?」


「五宮万尋は俺ですけど、なにか用事でも?」


「そうですね。私、月見那月つきみなつと申します。昨日、公園でリバースをしていたもので」


 そこまで月見つきみが言ったのを聞き、万尋は腕をポンと鳴らす。


「ああ、昨日の」


 月見が何者かを理解したが、万尋はその事実を知るなり、嫌な気がしていた。


 その理由は、昨日やたらとお礼がしたいと言われたからである。たかが水一本でお礼されるつもりは、万尋にはなかった。その他にも、昨日からストーキングされてしまっていたという心配もあった。いきなり家に訪問してきたのだから。


 最近は、SNSの普及が当たり前になり、それに比例してストーカー被害が増加している話を思い出す万尋。

 

 そこで月見が見覚えのある財布を手に握っていることに気付く。万尋が昨日から無くしている財布だ。


「そうです。これ、昨日の落としましたよね。失礼ですが中身を見せていただき、学生証にこちらの住所が載っていたので、お届けにと」


「マジですか⁉ ありがとうございます。どこにやったかと思っていたんですよ」


 万尋は、わざわざ家まで届けてくれたことに驚きを隠せず、瞠目する。


 月見から財布を受け取り、安堵の息を漏らした。


「財布ありがとうございます。要件はこれだけですか?」


 月見はニッコリと顔を柔和させて、言う。


「再び出会えたことですし、お礼をさせていただきたいと」


「結構です!」


「そう言わずに、私からのほんのお気持ちです」


 半眼で万尋は、月見に目線を飛ばした。彼女の瞳にはキラキラと悪気が一切見えない。


 しかし、どうしたものかと麻尋は頭を掻く。


「そうです! 近くの喫茶店でなにか奢るというのは、どうですか?」


「……あの、昨日の水ってコンビニで百円玉一つあれば買えますよ」


「お金の問題じゃないです! ……私、他の人に親切にしてもらう機会なんて、ほとんどないです。だから、自分も他の人に親切することはありませんでした。けど、あなたは親切にしてくれました! それなら、絶対に私はあなたに何かしなければならないのです」


 早口でまくしたてられて万尋は、話の意味がよくわからなかった。だけど、これだけは理解した。何かされたら自分もしないと気が済まない人だと。


 しかし、それなら財布を拾ってもらったことで、十二分にお返しになっている。それを万尋は口にした。


「それなら、財布拾ってもらったので、チャラですよ。中身二千円といっても学生には枯渇問題ですから」


 納得してもらうため、万尋は顔をほころばして、本心ということを表情でも伝える。


 だが、月見は全然納得してないようで、口を尖らせた。


「五宮さんが財布を落とした原因は私ですので、当然のことです」


「月見さんはなかなかストイックのようですけど、財布を無くしたのは俺の落ち度です。財布が戻ってきたのは、月見さんの親切あってのもの」


「しかし、それでは私の気が収まりません!」


 万尋は内心で、「ああ、言っちゃったよ」と呆れた気持ちを腹ました。



 人間に偽善以外の善行を積めるかと言えば、不可能ノーである。


 どれだけ人のためと言っても、そこには自分がそうしたかった、やってあげたかった、助けたかったという利己心が働く。だから偽善以外の善行もなければ、真なる正義など人間がブンブン振り回せるようなものではない。


 誰だって、自分の私善しぜんでしか、行動はできないのだ。


 そんな考えを持つ万尋に、月見は「自分の気が収まらない」と己の私善であることを明言してしまったのだ。


 万尋はため息を付いたのち、ニヤリと笑みを浮かべて、言った。


「わかりました。喫茶店で珈琲でも奢ってもらいましょう。けど、明日でもいいですか?」


「明日ですか……仕事があるので、午後六時以降なら、なんとか」


「それでオッケーです。お仕事が終わったら、またうちに足を運んでください」


「あ、ありがとうございます! また、明日うかがいます。それではお忙しい中、失礼しました」


 月見は綺麗なお辞儀をしてから、家を後にしたのだった。



 一人の残された万尋は、玄関のドアを開けながら呟く。


「変な人に絡まれたもんだ。まあ、私善しぜんを自ら口にするような人は、信じてあげてもいいというものだが」


 万尋の手から離れたドアはゆっくりと閉じ始める。その隙間に誰かの価値観は暗く光った。

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