7月9日土曜日 室内プールは音が響く、二人の声
「なあー、せっかくプールに来たんだから、泳げよ」
「万尋はなにを言っているんだい。私が運動オンチカンスト極みなの、知ってるでしょ?」
時刻が18時を超えて、賑やかな子ども達、お年寄りの皆さんは昼間より少なくなっている。窓から夕陽が差し込み、プールの青と混ざり合う。
屋内プールは20時までやっているという話を聞いた二人は、土曜日を優雅に暮らそうと思ったわけである。
だが、一時間経ってもプールに入ろうとしない史栞を見て、麻尋は「こいつは何をしに来たんだ?」と訝しげな顔をしていた。
そんな万尋の視線など見えない史栞。
学校指定のスクール水着に、パーカータイプのラッシュガードを羽織っている。なぜかサングラスを掛けているのは、海水浴気分を味わいたいのだろうか。
プールに一切入らず、サマーベッドに座ってタブレット端末を見ている。どうやら、電子書籍を読みふけっていたらしい。
万尋もプールから上がり、史栞の横に立つ。
「プールに誘ったの、お前なんだけど」
「まあいいじゃん、休みだし。夏休みに海に行く予定だから、予行練習」
「海水浴に予行練習はいらんだろ。てか、それなら泳ぐ練習をするべきじゃないか? こんな所で読書してる場合じゃなくて」
「はははっ、海水浴行っても私は海に入らないぞ。海には毒を持った生物がうようよしてるし、サメでも出くわしたら、パックリだよ、パックリ!」
両手をにぎにぎして鮫の恐ろしさを表現する史栞。
史栞の話に一理あると思った万尋は、目を細める。
海で泳がない理由は理解したが、プールに入らない理由にはならない。
史栞の装着するサングラスと、手に持つタブレットを没収した。
「め、目がああぁぁぁぁぁ――くそぉ、ラピ〇タよ、世界に向かって、滅びの光線を!」
「サングラス取っただけで滅ぼされる世界の気持ちになれよ……」
「ふふっ、人間がグミのようだ」
「ゼラチンになっちゃったよ、人間」
と、史栞が咳払いを一つ。万尋が呆れた顔。
「ほら、見てみ」
史栞が両手を広げるので、万尋は室内を見渡した。
二人以外のお客さんは、三人ほどしか残っていない。
「なんだよ?」
「私の無様な泳ぎぶりを観覧できる人達!」
「自慢げにいうことじゃない。つまり、泳げないのが恥ずかしくて、人が減るのを待っていたと」
「違うこともないような、あるような……。そうわけで、万尋! 泳ぎ方教えて」
「やっぱ泳げないのかよ⁉」
サマーベッドから体を起こした史栞は、着ていた水色のラッシュガードを脱いだ。
華奢な手足がすぐに折れてしまいそうな儚さを帯び、膨らんだ胸はA級である。平均的身長が史栞のたおやかな体躯に磨きをかけた。
「いくさばだ!」
「はいはい。ほら、キャップとゴーグル付けろ」
「ありがと~」
ボブカットが帽子の中に収まり、うなじにキラキラとした水滴が通る。
万尋は、いたたまれなく頭をガシガシと掻き、ポーカーフェイスを装う。
「さきに準備体操しな、足つることになるぞ」
「わかってるって。私も小学と中学共に水泳の授業は受けてるんだよ」
「それもそっか」
プールサイドで準備体操を始める史栞。万尋ついでにもう一度やっておくみたいだ。
体を伸ばしながら史栞が、口を開く。
「足をつるって言えば、水難事故よねー。溺れた時、手をあげちゃダメって知ってる?」
「まあ、――確か、空気を吸った状態の体だと2パーセントだけ浮く。手を水から上げてしまうと、それで2パーセントを使うわけだ。だから、顔が沈んで息ができなくなることになる」
「なかなか知ってるもんだ」
「物理だったか、浮力の授業で先生が言っていたのを覚えていただけだ」
「なるほど! まあ、実際溺れたら、パニックで『あ、ここ浮力の授業でやったところだ』とは思えないだろうけどね」
「その通り過ぎる……そういうところが、『知識とは力なり』のフランシス・ベーコンが経験から知識は始まる的なことを言うんだろうな」
「その通りなんだよ!」
準備体操をしていた史栞が、万尋の手を両手で包んだ。
「つまりね。インプットした情報を、他の人に喋ることで、経験となり知識となる。この一連を辿るのが衒学者なんだよ!」
「うーん……そうなのか?」
「そう」
「だが、その物事について話すことが体験に繋がるか?」
「もちろん! 話すことは一、体験。まず、私が、みんながいう知識はもう誰かが経験して知識という形になってるの。その知識を覚えることは、そのまま知識を受け継ぐことになる」
史栞は続けて話す。
「よく言うよね、こんな勉強が将来の何の役に立つかって。確かにほとんどの人が使わないのは合っていると思う。けど、別に知識って武器として使うだけじゃなくて、体験でもあると思うの。一切知識を含まない物語って乾燥無味でしょ? それは体験がないから」
「俺にはよくわからないけど、史栞と長く入れば理解できるかもなあー」
「それはどうかね。まだまだ私から学ばないと」
「史栞が知識をひけらかしたいだけだろ」
「換言したら、そうかもね♪」
そうして、史栞はプールに入水する。
「つめたっ⁉ 温水だからお風呂ぐらいかと」
バシャーン――……。
「四十度もあれば、潜り続けられないだろ、アホか」
「誰がアホだ⁉ もーう……それより泳ぎ方教えて」
「まず史栞は、なにができる? クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライの中で」
「犬搔きとイカ泳ぎ」
「おっと、耳に水が詰まっていたようだ。ワンモアタイム?」
「犬搔きとイカ泳ぎ」
「イカ泳ぎってなんすか?」
史栞は知らないと驚愕な顔で、万尋を見た。
「こうやるの」
史栞がプールに潜水し、腕と足を同時に動かして水を掻く。確かにイカが泳いでいるようにも見えなくはない。
一往復して戻ってきた史栞は、今にも死にそうなぐらい息を荒げて、
「犬搔きの方も見る?」
「ええわ……」
「時間も時間だし、平泳ぎを教える」
「クロールじゃないの?」
「海に行くなら、クロールより平泳ぎ。体力を使わずに泳げるから、命の危機に瀕した時、一番頼りになる泳ぎ方だ」
「だから海で泳がないって。だって行くの、『死海』だよ」
「歯科医?」
「イスラエルにある塩湖。あそこ塩分濃度が高くて沈まないんだって。浮かびながら本が読めるらしいよ。だから、さっきまでそっちの予行練習していたわけ」
「…………」
死海は、海という漢字が含まれているが海ではない。湖である。
史栞はゴーグルを外してニコリと笑い、
「だから授業でいっぱい使うクロール教えて」
すると万尋はアルカイクスマイルで、
「夏休み一緒に海行こう! そうと決まれば、平泳ぎの練習だあ!」
「勝手に決めないでよ⁉」
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