7月8日金曜日 腹筋は一人、上体起こしは二人

「くぅ……うぅ」


「一回もできてないぞ」


「私は頭脳タイプで、運動はからっきしなの~」


 史栞しおりの足を押さえる万尋まひろは、言い訳に対して目を細める。


 息も途切れ途切れの史栞が空を見上げ、その雲が漂う天井を史栞の瞳から見る万尋。


 どうやら、史栞が腹筋をするのを、万尋が手伝っているようだった。


 なぜこのような状況になっているのかは、数分前に至る。



 階段をのそのそと上がる五宮万尋いつみやまひろの目には、一つの感情が色濃く浮かんでいた。暑い、その一言が半分開いた口から今にも出ていきそうだ。


 元来、暑いという言葉を一度外に漏らしてしまうと、止めどなく『暑い』が口から零れ、周囲の人達にも『暑い』が伝染してしまう。そのような伝説が巷で囁かれているような気がする。少なくとも、私の周りではそんなつまらん話は聞いたことがないけれど。


 一段上がるたび、頭が分泌された汗が首の後ろを静かに通る。彼が向かう先は煉獄とでも言うのだろうか。


 違う、ただの屋上だ。


 万尋は屋上に続く重々しい扉の前で一瞬止まり、そしてドアノブに触れる。


 屋上に上がるのは万尋にとって今日で二回目になる。初回は7月5日のまた暑い日だったことを覚えているのだろう。


 閻魔様に最後の審判を下されている死者のごとく万尋は、喉を鳴らす。


 覚悟は決まったようだ、――ドアノブを握った手を捻り、体の重心を扉へぶつけた。


 ギギッ――、仕事の少ない屋上の扉が悲鳴を上げながら、通行人に道を開ける。


「あっつうぅぅぅ――っ!」


 万尋の叫びが、グランドで部活の準備をしていた野球部一年の耳へと微かに届く。


 そこから驀進した万尋は、屋上の中で唯一の安全エリア、塔屋の影に向かった。


 出入口から数歩、右に曲がる。


「はは……君は、雪だるまじゃないか。夏の中じゃあ暮らせないね。けど、私は冷蔵庫から出しちゃうよ……」


「ひゃああッ⁉」


 影で倒れている花前史栞はなまえしおりを目撃し、万尋がかすれた悲鳴を上げた。


 もしかしたら熱中症と思い、史栞の肩を揺さぶりながら声をかける。


「おい! しっかりしろ。大丈夫か、大丈夫なんだよな、史栞」


「うぅ……うん。あれ? なんで、万尋いるの?」


「い、生きてたか。脅かすなよ」


 完全に覚醒仕切ってない史栞は、瞳をやすやすと擦りながら体を起こす。世界を上下左右に眺めた後、顔色を真っ青に染めた。


「どうした、やっぱ熱中症なんじゃないか? すぐに保健室に――」


「万尋…………それどころじゃない」


「えっ、お前熱中症よりも酷いのか⁉ 救急車呼ぶか?」


 史栞が万尋の両肩を掴む。彼女にジッと見られ、万尋の瞳が動揺に瞬く。


「昼休みにここで寝てて、起きたら放課後だったんだけど……ヤバくない?」


「ヤバいわ……」


「なんで誰も迎えに来なかったの?」


「いや、そりゃあ。屋上って生徒立ち入り禁止で、まず鍵が掛かってるし。大体、史栞を迎えに来るともだ――」


「止めて! その続きはいいから」


 端的な話――友達がいない史栞が屋上で寝てて、五、六時間目の授業を無断で休んだしょうもない出来事である。


 ちなみに、屋上の鍵は七月の始め、学校に秘密で合鍵を作っている。史栞が。


 熱中症になっているよりも、軽症過ぎる事件に万尋はため息を漏らす。


 反対に授業をサボったことにより、クラスメイトに不良と思われ、さらに友達が出来にくくなった史栞は、壁にもたれ掛って白くなっていた。


 だが彼女はすぐ気持ちを変え、ひきつった笑みを浮かべる。


「ま、まあ、――一度や二度の失敗がなんだって話よ。おそらく今日が七転八起の日だから、神様がチャンスをくれたと思えば」


「なんのチャンスだよ。神の試練が授業サボらすだけとか、どこの神や」


「授業の神様でしょ? あと何百回受ける授業のありがたみを知れ的な」


「本当にありがたい神様だな、おい」


 そうして史栞は立ち上がる。


「本当は、こんなことで七転八起の話に結びつけようとは思ってなかった。だから本題に入るとしましょうか」


「どうぞ」


 七月八日が七転八起の日なのは、察しがつくと思うが語呂合わせである。


 そこまで起伏のない胸を張る史栞が、ビシッと万尋を指さす。


「私は、腹筋が一回もできないの!」


「誰得のカミングアウトなんだ?」


「得はない、ただ脂肪があるだけ」


「史栞のお腹の話じゃなくて」


「何度も腹筋に挑戦してきた。けど、そのたび失敗し、挫折を繰り返してきた。だけど、今日なの。今日なら記念日パワーで腹筋ができるようになると思う。何度失敗しても努力している私なら!」


「おうおう、大層なこと述べてくれたが、ただ腹筋ができるようになりたい話だよな」


「その通り!」


 壮大な物語に対して、本当につまらない話だったため、万尋は肩を落とした。


 そして腕を組んで、史栞の全身を見上げる。


「お前言うて太ってないし、逆に細すぎる気だろ。別段、腹筋なんてしなくても大丈夫なんじゃないか?」


「わかってないなー。これから夏なんだよ、水着になることが増えるんだよ。腹筋がついたナイスバディになりたいんだよ!」


「無理だ、諦めろ」


「ああああっ、無慈悲なるキック!」


 史栞による渾身の蹴りを簡単に止める万尋。


「で、俺はなぜ呼ばれた? どうも話を聞くにしょうもない理由が浮かぶんだが……」


「そもそも腹筋は誰かが足を押さえてないといけない気がするわけ。ほら、スポーツテストの上体起こしってそうでしょ?」


「確かに、そう言われると……」

 万尋が頭の中の疑問符を排除している間に、史栞が寝転んで膝を立てる。


「足、押さえてて。今日こそ、腹筋をマスターしてやる」


「一回できるようにだろ。史栞をマスターまで育てるなら、三年以上かかる計算だ。そこまで付き合いきれん」


 そう言いながら、史栞の両膝を押さえる万尋。


 腕をクロスさせて準備万端の史栞が、


「それじゃあ始めるよ!」



「くぅ……うぅ」


「まだ一回もできてないけど」


「私は頭脳タイプで、運動はからっきしなの~」


 と、初めに戻るわけである。


「ちょっと休憩~」


「まだ、五分も経ってないが」


「上体起こしは五分もしないでしょ。三十秒じゃなかった?」


 一人で息を切らす史栞が、床に手をつきながら言う。


「体の休憩中だし、頭脳で勝負しよっか。思えば、万尋とは頭脳バトルしたことなかったね」


「『万尋とは』と付くと誰かと戦ったことあるみたいな言い草だな」


「あるわ! お母様とかお父様とか……」


 家族とだけかを知り、万尋が頬を掻いて話題をバトルの方に誘導する。


「うんで、勝負内容は?」


「四字熟語がそのまま記念日になるのも少ないし、――『夏』が付く四字熟語を交互に言って、出なくなった方が負けで、どうかな?」


「夏が付く四字熟語か……うん、そこまで多くないし、休憩時間にはピッタリかな」


「オッケー、じゃあ万尋からいいよ」


 寝転がった史栞がドヤ顔を万尋に向ける。先行を譲ってハンディキャップを上げたつもりらしい。


「手始めに、『春夏秋冬しゅんかしゅうとう』」


「なるほど、良いチョイスね。だけど私は最初から本気で行くから。『夏炉冬扇かろとうせん』、同じ意味の『夏鑪冬扇かろとうせん』『冬扇夏鑪とうせんかろ』『冬扇夏炉とうせんかろ』の使用を禁止とする」


「いきなり四つも減らして大丈夫か? 自縄自縛じじょうじばくにならないといいけど。えーと、『九夏三伏きゅうかさんぷく』」


「さり気なく四字熟語使ってくる所、ポイント高いなぁ。私もこれで四苦八苦させてあげる。『冬温夏清とうおんかせい』、もちろん同じ意味の『冬溫夏凊とうおんかせい』は禁止」


「なあ、俺は漢字が頭に浮かぶからいいけど、音が一緒だから分かりにくい。『夏雲奇峰かうんきほう』」


「次、四字熟語勝負するときはメモ帳持参かな。『冬夏青々とうかせいせい』先ほどに倣って、『冬夏青青とうかせいせい』は使えないよ」


 その後も二人の白熱バトルは続き、


「わ、私が負けるなんて…………」


「1ターンに、数個の四字熟語を禁止にする考えは中々だが。策士策に溺れるってやつだな」


「…………万尋、足押さえて」


「あ、うん」


「くらえ!」


 史栞は体を起こした反動で、万尋に頭突きをプレゼントした。お互いの額が衝突し、そして二人とも床をのたうち回ることになる。


「なにしてくれてんだ⁉ 敗北認めろ、このルーザーが!」


「はんっ、私がグッドルーザーでとどまるはずがないでしょ。文字通り痛み分けじゃい!」


「でも、腹筋一回できたな」


「……確かに」


「そんじゃあ、次は腕立てだな。手伝ってやるよ。上に乗ればいいんだっけ?」


「ははっ、万尋さん冗談がキツイな~」



「…………」

「…………」



 タッタッタ――――。


「逃げんじゃねえよ! 待てゴラ!」


 七転八起しちてんはっき


 転んでもただでは起きない、そういうことである。

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