7月6日水曜日 サラダボウルの中身は、トマトマトマト

 窓から覗く青空が元気よく挨拶してくる夏の朝、というわけでなかった。


 黒と白が混ざった雲が太陽を隠している。


 台風が接近している影響なのか、はたまた、六月の魔王である梅雨が復活したとか、日本では色々な説が飛び交っているかもしれない。


 おそらく、暑い暑いと叫ぶ子ども達が一丸となって雨乞いでもしたに違いない、そんな日である。


 ベッドから体を起こした五宮万尋いつみやまひろは、眠気眼ねむけまなこを擦りながら、昨日の夜に充電しておいたスマホに手を伸ばす。


 ホーム画面は、学校の廊下に座る猫の写真。一か月前に猫が学校に侵入した時、万尋が取ったものである。廊下全体を撮っているため、数人の生徒もぼやけて収められている。その一人は――。


 時刻は朝の六時十分を表示していた。


 万尋が家を出発するのが八時なので、二時間近く支度の猶予があるわけだ。


 寝間着代わりにしているジャージのまま、リビングに向かう。


「やあっ、おはよう!」


 リビングの扉を開けた万尋に挨拶をかましたのは、花前史栞はなまえしおりだった。


 しっかりと整えられた黒髪ボブカット。学校指定のワイシャツの上から水色のサマーカーディガンを羽織っている。


 万尋の姿と間反対に、準備万端の史栞。


 自分の家にいるはずがない人物を見た万尋は、――洗面所で顔を洗い、三分ほどハミガキしてからリビングに戻ってくる。


「なんでおんねん……」


「怨念はおんねん~」


「面白くない」


 両手を垂らして幽霊を装う史栞だったが、万尋の一言でしゅんっと肩を落とす。その方が一層に幽霊らしいと思う万尋。


 椅子に座った万尋が頬杖で口を開く。


「戸締りはしたはずだが、どこから侵入した、史栞」


「幽霊だからさぁ」


「俺、霊感ないぞ」


 万尋の向かいに座る史栞は、偉そうに両手を組んだ。


「実際は、万尋のお母さんに『万尋くんの彼女です! 今日は一緒に登校する約束で来ました』って言ったら、中に入れてくれた」


「誰が彼女だ……たく、お前なあ」


 万尋の実母は仕事のため朝早くに家を出る。史栞はそのタイミングを狙うことで家に入ることができたのだ。


 呆れてため息を漏らす万尋に史栞が、


「まあ、そうことで朝ご飯の準備してきたのだよ。ちょっと待ってて」


 史栞が立ち上がると冷蔵庫を開ける。


「ひとんちの冷蔵庫を勝手に開けんな、許可とれ、許可」


「お母さんに許可貰ってます」


「…………」


 彼女をとがめる事柄を失った万尋は、黙ることにした。


 そして、ドタバタと戻ってきた史栞がテーブルに朝食を置く。


「私特製サラダ祭り! 召し上げれ」


「もう解っているぞ、今日がサラダ記念日だから、サラダなんだろ」


「その通り! 万尋も衒学者げんがくしゃの思考が身についてきたようだね。どう、万尋も衒学者にならないかい?」


「断固として拒否権を行使する」


「そこまで⁉」


 驚きとおおげさに手を広げる史栞。


 その様子など気にした素振りもなく、万尋はフォークをペン回しの要領で回転させ、最後にサラダボウルの中身を指した。


「なあ、全部トマトなんだけど? 真っ赤なんですけど? 『この味がいいね』って俺から引き出したいなら間違ってるよね。これじゃあ、『この味、トマトだね』って言うよ」


「ハハハッ――こりゃあ一本取られたわぁ。トマッタな~」


「今日はオヤジギャグで攻めるつもりか? 面白くないぞ」


「万尋くん……人間が一番言われたくないのはねぇ、面白くないなんだよ」


 椅子に座りなおした史栞が神妙な顔で万尋をじっと見つける。


 その間、万尋はフォークにトマトを乗せて食べ、「トマトだ~」とアホ面でもぐもぐプチプチと口を動かしていた。


 と、テーブルを勢いよく叩く史栞。それに万尋が、「俺ん家のテーブルに暴力ふるうな」と言えば、史栞が「ツッコミです」と一言。


「テーブルがボケんわ! てか、この量のトマト、俺一人じゃ食べきれねーって。史栞も食べろ」


「トマトには、トマチンという成分があってね。トマチンは毒なんだけど、食べ過ぎるとお腹を壊すらしい。おっと、もうこんな時間だ、先に学校行くね――」


 リビングから出入口に歩き出す史栞の手を万尋が捕まえる。


「なに俺だけ食べさせようとしてんだ。俺たち恋人同士なんだろ、彼氏が困ってるんだ助けてくれるよなあぁ」


「このっ、事実を曲げるんじゃない!」


「事実曲げて家に侵入してきたお前が言うなよ⁉」


 と、近くにあった体操着のウエスト紐で史栞を椅子に縛り付けた万尋。


 箸で掴んだトマトを史栞の口にゆっくり運ぶ。


「や、やめろ⁉」


 顔を左右に振ってトマトから逃げる史栞を見て、万尋が話す。


「お前、トマト嫌いなのかよ。なんで俺に振舞ったんだ」


「万尋への嫌がらせ」


「…………」


「ま、まひろぅおー、かおをおさえるのやめてぇいー。私を殺す気かぁああ」


「大げさだな……一つだけでも食ってみろ。子どもの時に嫌いだった食べ物って成長すれば好きになるって言うし」


 すると火事場の馬鹿力的なやつで史栞が、紐を引き千切った。


「脱出――クルクル……。危うく殺されるところだった」


「いちいち大げさなんだよ」


「貴様トメィトの正体を知らないだろ? トマトの学名は『ソラナム・リコペルシク』、狼の桃という意味だぞ。赤ずきんを食べた狼が食べる野菜なんだぞ」


「お前は十八世紀の人間か。確かに昔、トマトには毒を含む植物と思われていたけど……。まあ、実際にトマチンを含んでいるわけだが、通常の量ならなんだ問題はない。一個食べたぐらいで死にゃあしないわ」


「絶対に食べないから!」


「……そうかい。こんなに美味しいのに」


 トマトを次から次へと食べる万尋を、カーテンに隠れて伺う史栞。


 恐る恐る史栞が、質問を投げかける。


「万尋……それ、プチトマトなん? ミニトマトなん?」


「知らんわ…………買ってきたの史栞だろ」


「私も解らん」



 空になったサラダボウルを見下ろして、しばらくトマト関係の料理を食べたくないと思う万尋であった。



「そんだけトマト嫌がるって……初めて食べたの、いつの日だ」


「あれは小学一年だった。母に『苺だよ』と食べさせられたのがトマトだった…………」


「お気の毒に」

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