7月5日火曜日 昔のことは色々な説があるもんのだ
お昼休みに入り、昼ご飯を食べ終わった
階段を数十段上がり、――四階、五階、六階。そして、目的の屋上。
ドアノブを回して外に出た万尋は、あまりの熱風に元来た道を引き返すところだった。しかし約束をしたし、彼女をほったらかしにするわけにはいかない、その気持ちで屋上に出る。
「あつ~…………なんでここなんだよ」
廊下にいる時よりも噴き出す汗。
背中に下着とワイシャツが嫌に引っ付く。
「やあやあ、
「そりゃあどうも」
腕組みで仁王立ちの
史栞の前髪が額に引っ付いているのを見た万尋は、「暑いなら、わざわざ屋上に呼び出すな!」と言ってやりたいようだ。その言葉を乗せたジト目で史栞を見る。
万尋の目線など気にした様子もなく、史栞が手招きしながら
「万尋もこっち来てきて!」
「……」
史栞に言われるまま、万尋はゾンビのような足取りで歩きだす。
塔屋の角を曲がると、史栞が足を伸ばして座っていた。
「ここだけ塔屋のおかげで影になっているわけか」
「その通り! ここは私の秘密基地だよ」
「秘密基地かー、屋上の出入口から数歩で、誰でも簡単に来れるけど」
「はんっ、解かってないね、万尋はさあ」
両手の平を青天井に向ける史栞。
「今、夏だよ? こんな砂漠より暑い場所に来る奴は馬鹿だ。だから、この唯一のセーフティーエリアは秘密の場所に成りえるわけ」
落下防止の柵に覆われ、白いタイルはキラキラと太陽光を反射させている。空間が歪んでいるのが一層に灼熱であることを醸し出していた。
もちろんのこと、屋上に二人以外の生徒も教師もいなかった。
彼女のいう馬鹿は、二人だけらしい。
「てか、屋上は立ち入り禁止だろ。鍵はどうした、鍵は」
「企業秘密です。屋上は秘密だらけ、――隕石が飛来した時のためにレールガン砲台が、この屋上に設置されているのも、秘密」
口元で
それに
「せっかく足を運んでくれたんだから、座りなよ」
「そうさせてもらうよ。おっ、床熱くない」
影で冷やされたタイルをコツコツと叩く万尋へ、史栞はガラス製のコップを渡した。
コップには何もつがれてない、空である。
「これは?」
急にコップを渡されても、と思った万尋は怪訝な瞳を史栞に向ける。
史栞も同じコップを手に持ち、
「ふふ~ん♪ これは、
「もしかして、今日が江戸切子の日だからとか言わんだろうな」
「言うに決まってるでしょ? あのね、
「そうかー。語呂合わせやら、世界なんとかデーを合わせたら、毎日が記念日みたいなもんだしな。『お誕生日じゃない日の歌』が歌える日の方が少なそうだ」
「ないと言っても過言じゃないね」
江戸切子とは、江戸時代から江戸で生産されていたガラス細工のことである。東京都の伝統工芸品だったりする。
江戸切子の文様は
ちなみに、7月5日が江戸切子の日である理由は、
青色と透明で彩られた江戸切子が、風鈴のような涼しさを感じさせる。
そこで、史栞が2本のラムネを取り出した。瓶に付いた水滴が重力従い落ち、中身の冷たさを表すように霜ができている。
「外は暑いでしょ。これで乾杯といきましょうや」
「おお、いいね」
白い歯をニッと見せる史栞と、思いもしない嗜好品の登場に柔和な顔の万尋。
「それでは乾杯!」
「乾杯」
喉を鳴らして飲む二人。
「ぽはっ! 暑いところで飲むキンキンの飲み物は最高だぜ」
「史栞の方には、お酒を入れたわけじゃないよな。飲みっぷりがビールを飲み終わった母親そっくりだったぞ」
「ふふ~ん、どうかな? もしかしたら日本酒かも。飲んでみる?」
「いや、大丈夫です」
「なんで敬語や⁉」
万尋に真顔と敬語を以て断られたのだった。
それからちびちびとラムネを飲んでいた史栞が、いつもの知識自慢を始める。
「万尋は、なんでラムネって名前か知ってるかな。答えてよ、へいへい」
「う~ん……ラムネってひらがな表記じゃないから、外国から来たのかもしれない。すると……なんだろか? 解らんなー」
空になった
「ブブー、タイムアップ!」
「時間制限あったのかよ……」
「正解はレモネードが
「レモネード、ラムネ―ド、ラムネ……こんな感じか。なるか?」
「ならないね。でもさぁ、英語の単語をローマ字読みしたら、そんな感じにならないかな?」
「なりそー」
と、飛行機が空でお絵かきを始める。
最後の一滴を入れて空になったラムネの瓶を史栞が振った。中に閉じ込められたガラス玉が、カランカランと鳴った。
「実はこのガラス玉、ビー玉じゃないんだよ! エー玉って言うんだよ」
「エー玉?」
史栞は瓶を逆さまにする。
「この玉は中身が零れないための栓の役目を担っているわけ。ガラス玉に傷があったりしたら、そこから漏れるでしょ? それがビー玉なの。B級ってことだね」
スカートのポケットからビー玉が入ったあみ袋を取り出した。
「だからビー玉は別に売られている」
江戸切子にビー玉を数個入れ、水を入れ、――それを史栞が太陽の下に移動させる。日光が水の中で乱反射し、ビー玉が輝く。プールを上から覗き込んだ時のようだ。
「瓶に幽閉されることが決まった玉は、A級だからエー玉というわけか」
「その通り!」
「違うぞ」
「うんっ?」
小鳥のように可愛らしく首をかしげる史栞。
ラムネを飲み干してから、万尋が口を開く。
「ビー玉のビーは、Bじゃなくて――ビードロの略称だぞ。ビードロはポルトガル語でガラス玉って意味だ。江戸切子の始まりはビードロ屋の
「…………」
言葉が返ってこないので万尋が史栞の様子を伺うと、涙目で下唇を嚙んでいた。
「えっ、いや……ビードロ説もあるけど、B級説の可能性もあるかなぁ……確実な正解はないだろ? 邪馬台国の近畿説と九州説みたいにさ……」
「……そうかな?」
「きっとそうだ。二つの説がある時点でまだわからないんだよ。だから、どっちもいいってことだよ」
「そうだよね、昔のことはすべてわからないもん。どっちが正解か解らないなら、どっちも正解みたいなもんだよね!」
「ははっ……そうだね」
万尋は一直線に伸びる飛行雲を眺めながら、乾いた笑みを漏らした。
真実とはいつの時代も曲げられるものだ。
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