7月5日火曜日 昔のことは色々な説があるもんのだ

 昊天こうてんには夏らしく輪郭のしっかりした雲がまばらに浮かんでいる。40度に近づく気温は、地平に立つすべての生物を焼き尽くす気なのだろうか。太陽に殺害される動機が人類にあるのかは、不明な話である。


 お昼休みに入り、昼ご飯を食べ終わった五宮万尋いつみやまひろは椅子から立ち上がった。


 万尋まひろはある場所に向かうため、教室から退場し階段を上がる。クーラーの効いた部屋から一歩出ただけで汗を掻いてしまい、うんざりした調子で額を拭う。


 階段を数十段上がり、――四階、五階、六階。そして、目的の屋上。


 ドアノブを回して外に出た万尋は、あまりの熱風に元来た道を引き返すところだった。しかし約束をしたし、彼女をほったらかしにするわけにはいかない、その気持ちで屋上に出る。


「あつ~…………なんでここなんだよ」


 廊下にいる時よりも噴き出す汗。


 背中に下着とワイシャツが嫌に引っ付く。


 蜃気楼しんきろうで屋上にオアシスが見えたところで、花前史栞はなまえしおりが万尋に声をかけた。


「やあやあ、摩天楼まてんろうのてっぺんまでご苦労様だね!」


「そりゃあどうも」


 腕組みで仁王立ちの史栞しおり


 史栞の前髪が額に引っ付いているのを見た万尋は、「暑いなら、わざわざ屋上に呼び出すな!」と言ってやりたいようだ。その言葉を乗せたジト目で史栞を見る。


 万尋の目線など気にした様子もなく、史栞が手招きしながら塔屋とうやの後ろに姿を消した。


「万尋もこっち来てきて!」


「……」


 史栞に言われるまま、万尋はゾンビのような足取りで歩きだす。


 塔屋の角を曲がると、史栞が足を伸ばして座っていた。


「ここだけ塔屋のおかげで影になっているわけか」


「その通り! ここは私の秘密基地だよ」


「秘密基地かー、屋上の出入口から数歩で、誰でも簡単に来れるけど」


「はんっ、解かってないね、万尋はさあ」


 両手の平を青天井に向ける史栞。


「今、夏だよ? こんな砂漠より暑い場所に来る奴は馬鹿だ。だから、この唯一のセーフティーエリアは秘密の場所に成りえるわけ」


 史栞しおりの話を聞き、万尋は屋上を見渡した。


 落下防止の柵に覆われ、白いタイルはキラキラと太陽光を反射させている。空間が歪んでいるのが一層に灼熱であることを醸し出していた。


 もちろんのこと、屋上に二人以外の生徒も教師もいなかった。


 彼女のいう馬鹿は、二人だけらしい。


「てか、屋上は立ち入り禁止だろ。鍵はどうした、鍵は」


「企業秘密です。屋上は秘密だらけ、――隕石が飛来した時のためにレールガン砲台が、この屋上に設置されているのも、秘密」


 口元で×バツを作る史栞は、噓か誠の国家機密情報をベラベラと喋る。


 それに万尋まひろは一言、「嘘だな」と吐き捨てた。


「せっかく足を運んでくれたんだから、座りなよ」


「そうさせてもらうよ。おっ、床熱くない」


 影で冷やされたタイルをコツコツと叩く万尋へ、史栞はガラス製のコップを渡した。


 コップには何もつがれてない、空である。


「これは?」


 急にコップを渡されても、と思った万尋は怪訝な瞳を史栞に向ける。


 史栞も同じコップを手に持ち、


「ふふ~ん♪ これは、江戸切子えどきりこと言うんだよ」


「もしかして、今日が江戸切子の日だからとか言わんだろうな」


「言うに決まってるでしょ? あのね、衒学者げんがくしゃが知識をふるえる一つが、記念日の豆知識なんだよ」


「そうかー。語呂合わせやら、世界なんとかデーを合わせたら、毎日が記念日みたいなもんだしな。『お誕生日じゃない日の歌』が歌える日の方が少なそうだ」


「ないと言っても過言じゃないね」


 江戸切子とは、江戸時代から江戸で生産されていたガラス細工のことである。東京都の伝統工芸品だったりする。


 江戸切子の文様は魚子ななこと呼ばれているものだ。細かい粒を密に刻む細工が魚の卵に見えるため、その名称が付けられたらしい。


 ちなみに、7月5日が江戸切子の日である理由は、魚子ななこの七と五の語呂合わせである。


 青色と透明で彩られた江戸切子が、風鈴のような涼しさを感じさせる。


 そこで、史栞が2本のラムネを取り出した。瓶に付いた水滴が重力従い落ち、中身の冷たさを表すように霜ができている。


「外は暑いでしょ。これで乾杯といきましょうや」


「おお、いいね」


 白い歯をニッと見せる史栞と、思いもしない嗜好品の登場に柔和な顔の万尋。


 史栞しおりが二つの江戸切子にラムネを注ぐ。炭酸の滝がゆっくりとコップの底に当たり、シュワシュワッと心地いい音色を奏でる。八分目までラムネが入った江戸切子は二人の手を冷やしていった。


「それでは乾杯!」


「乾杯」


 万尋まひろと史栞が持つ江戸切子が優しくぶつかって、その残響が屋上へ。


 喉を鳴らして飲む二人。


「ぽはっ! 暑いところで飲むキンキンの飲み物は最高だぜ」


「史栞の方には、お酒を入れたわけじゃないよな。飲みっぷりがビールを飲み終わった母親そっくりだったぞ」


「ふふ~ん、どうかな? もしかしたら日本酒かも。飲んでみる?」


 蠱惑的こわくてきな顔で万尋に上目遣いする史栞だったが、


「いや、大丈夫です」


「なんで敬語や⁉」


 万尋に真顔と敬語を以て断られたのだった。


 それからちびちびとラムネを飲んでいた史栞が、いつもの知識自慢を始める。


「万尋は、なんでラムネって名前か知ってるかな。答えてよ、へいへい」


「う~ん……ラムネってひらがな表記じゃないから、外国から来たのかもしれない。すると……なんだろか? 解らんなー」


 空になった江戸切子えどきりこを床に置き、再び注ぎなおしながら考える万尋。


「ブブー、タイムアップ!」


「時間制限あったのかよ……」


「正解はレモネードがなまって、ラムネになったのでした」


「レモネード、ラムネ―ド、ラムネ……こんな感じか。なるか?」


「ならないね。でもさぁ、英語の単語をローマ字読みしたら、そんな感じにならないかな?」


「なりそー」


 と、飛行機が空でお絵かきを始める。


 最後の一滴を入れて空になったラムネの瓶を史栞が振った。中に閉じ込められたガラス玉が、カランカランと鳴った。


「実はこのガラス玉、ビー玉じゃないんだよ! エー玉って言うんだよ」


「エー玉?」


 史栞は瓶を逆さまにする。


「この玉は中身が零れないための栓の役目を担っているわけ。ガラス玉に傷があったりしたら、そこから漏れるでしょ? それがビー玉なの。B級ってことだね」


 スカートのポケットからビー玉が入ったあみ袋を取り出した。


「だからビー玉は別に売られている」


 江戸切子にビー玉を数個入れ、水を入れ、――それを史栞が太陽の下に移動させる。日光が水の中で乱反射し、ビー玉が輝く。プールを上から覗き込んだ時のようだ。


「瓶に幽閉されることが決まった玉は、A級だからエー玉というわけか」


「その通り!」


「違うぞ」


「うんっ?」


 小鳥のように可愛らしく首をかしげる史栞。


 ラムネを飲み干してから、万尋が口を開く。


「ビー玉のビーは、Bじゃなくて――ビードロの略称だぞ。ビードロはポルトガル語でガラス玉って意味だ。江戸切子の始まりはビードロ屋の加賀谷屋久兵衛かがやきゅうべいだろ? 江戸からビードロって言葉は使われていたわけだ。それに、ビー玉は子供たちが付けた名前らしいから、A級もB級もなかったと思うぞ。たぶん、ビードロ玉が言いにくかったから、略したんだろ」


「…………」


 言葉が返ってこないので万尋が史栞の様子を伺うと、涙目で下唇を嚙んでいた。


「えっ、いや……ビードロ説もあるけど、B級説の可能性もあるかなぁ……確実な正解はないだろ? 邪馬台国の近畿説と九州説みたいにさ……」


「……そうかな?」


「きっとそうだ。二つの説がある時点でまだわからないんだよ。だから、どっちもいいってことだよ」


「そうだよね、昔のことはすべてわからないもん。どっちが正解か解らないなら、どっちも正解みたいなもんだよね!」


「ははっ……そうだね」


 万尋は一直線に伸びる飛行雲を眺めながら、乾いた笑みを漏らした。


 真実とはいつの時代も曲げられるものだ。

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