第440話



「俺の妻だってことを知らしめているだけだよ。少しだけ我慢してくれ」


 そうすることで彼女の立場が少しでも周知されれば不当な扱いが減るだろうとの考えだが、地域によっては逆効果ということもある。だがここは北狄の地、力ある戦士は誉であるという絶対的なルールが幅を利かせている、負傷兵らも助けられているので少なくともそいつらは気を使ってくれるはずだった。


「もう下ろしてください。ここです。藍さん、入りますよ」


 到着したなら仕方ない、素直に下ろす前に軽く口づけをしてやる。顔を赤くして中を覗いたら不在「あれ、いないですね?」島介は心当たりがあった。


「負傷者を連れて帰って来たからな、医者っていうなら駆り出されているだろ」


 逆にこの状態でも幕に残っているなら医術でという話が嘘なんだろうと思っていたが、どうやら本物らしい。


「そうですね、でしたら大幕があるところに行きましょう。私も手伝って来ます」


「よし、そうするか!」


 一人で寝ていたって構わないし、休むのも仕事ではあるが、共に居てやるべきだろうと快く同意しておく。大きな幕は外まで負傷者が寝かされていて、あちことで手当てが行われていた。数人が手当てをして回っている中で、一人だけ確かに老人という者が見られた。


「あいつか?」


「そうです!」


 二人で近寄って行くとこちらに気づき警戒されるが、チュウが一緒にいるのを見て顔を上げた。


「藍さん、私も手伝います」


「ああ助かるよ、ところでそっちの人は? 負傷者ではないようだけど」


 見たことが無い兵のうえ、負傷者でもない。それなのにここに存在する巨漢、長年暮らしている同族でもない、不審者過ぎて困るだろう。


「藍氏、自分はチュウの夫で伯龍です、妻の面倒を見てくれていたことに感謝します」


 拳礼で謝意を示すと、藍は立ち上がり戦士の礼をとった。なるほど偽りは述べていなかったようだ。


「そうだったか、すると難烏桓族?」


「いや、漢の出です。故合ってチュウを娶りました。負傷兵をまとめて後送して来てほしいと、骨都侯と検大人に頼まれ指揮を得ているところ。俺も手伝いますので指示を貰えますか」


「なんと! うーむ、それでは手当てが出来た者を天幕へ運び入れてほしい」


 戦士は比較的体格が大きい、それらを運ぶのは苦労するものだ。乱暴には出来ないし扱いが難しい。周りを見ると、担架の上にそのまま寝ている奴らばかり。


「わかった。俺の手元に二人つけ、一人は幕の行き先が解る奴だ!」


 声を出して男を一人と女を一人呼ぶと、担架をぐいっと持ち上げて行き先を求めた。二人、三人と運ぶと男がへたってしまったので交代を呼び、それを繰り返す。七人も交代したところで概ね治療は終わったようだ。この程度の運動量では息を切らすことも汗をかくことも無い。あたりが暗くなってしまっているで、チュウがいる幕へと戻った。


「ようやく解放されたよ」


「お帰りなさいあなた」


 初めて入る場所でお帰りと言われると違和感があったが、そんなことはどうでも良いと流してしまう。そしてふともう一つの違和感があり、そちらは口に出す。


「藍氏は?」


「今夜は負傷者を夜通し診て回るから帰らないって」


「ほう」


 明らかな配慮を感じた、夫婦水入らずの時間を過ごせと言うのだろう。なるほど藍老人の評価があがった。何を考えているのかが伝わったのか、チュウは黙って俯いてしまうが耳が少し赤い。


「食事を用意してあるのでどうぞ」


「腹が空いていたんだ、食べるとしよう!」


 暫く暖かいものなど口にしていなかったので、出来立てを食べるとあまりにも美味しくて自然と笑みがこぼれる。多いかなと思っていたが、全てたいらげられたのでチュウが驚いていた。夜更けに腹も満ちて夫婦二人きり、あとは何をするかと言えばわかり切ったこと。ずっと働き続けていたのに、チュウを攻め続けるのはまた別の力があったらしい。


 翌朝は自然と目が覚めた、隣では寝息を立てている妻が居た。そっとしておくと天幕を出る。朝早いにも関わらず、数人が歩き回っているのが見えた。水汲みやらいつやっても良いことは夜明けとともに始めるのが習わし。負傷者がいる大幕へと足を向けた。


「藍氏、まだ働いていたんですか」


「伯龍殿、私はこういうときでもなければ仕事が認められないのでね。一休み位はいいだろう」


 連れだって外に出ると、水を一杯傾ける。こうは言ってるが、他の若い医者は姿が無い、寝ているんだろう。


「改めて妻のこと、ありがとうございます」


「それは気にするな。夫なら知っているだろうが、チュウは難烏桓大人の血が流れている」


「ええ、聞きました」


 それが何を意味しているかは、王朝やら血族による世襲が一般的な文化では価値があること。或いは命を狙われる要因でもある。


「難烏桓から逃げるというなら、何故戦っている?」


「逃げる為に、といったところ。妻を連れて徒歩で長期とはいかず、馬を求めると共に追っ手も無くす必要がありまして」


 その追手が検烏桓とまでは説明しない、知らなくて良いことまで教えることはない。恩人に対して話せるところまでで良い。


「難烏桓はより強きものに従うだろう。だがそれはやはり貴種である必要がある。チュウの子にはその可能性がある、と私は見ているが」


「なりたい奴がなればいいし、嫌なら去ればいい。そう考えています。誰かに無理を押し付けるのは、筋が違う。それが自分の子であっても」


 互いをじっと見つめると、藍は頷いた。なにかの駒としてチュウを利用してやろうと言うわけではなさそうだと安心したらしい。


「私が戦士だったころ、那藍を名乗っていた。難烏桓の氏族の一つ、那族の者だ。チュウの父親は甥にあたる間柄になる、もし伯龍に万が一あったとしても必ず暮らしの面倒をみてやると誓う」


「ありがとうございます。ですが戦いで死ぬことはないと決めているので心配ありません」


「そうか、それは良いな!」


 二人で声を出して笑った。族を代表する戦士が捕虜では恥かしくて語ることも出来なかっただろう過去を、こうやって明かしてくれたことは信頼を得たと評価して良い。出せる何かなど一つもない状態でどうやってその信頼に応じたら良いか。


「もし――」真剣な表情で藍をみて「難烏桓に戻ることが出来るなら、藍氏はどうします?」


「……今は骨都族の藍だよ。懐かしくはあっても、今さら何も望まんさ。皆が一緒にというなら別だがね」


 確かに今さらどうにもならない、戻ったところで疎まれるだけ。それならここで一生を終わった方が遥かに幸せだろう。長い年月というのは人を変えてしまう、そういうものだ。


「詮無いことを言いました。では戻ります、そろそろチュウも起きるでしょうから」


「ああそうしてくれ。明日出立するようだが、私は患者の世話に忙しくて今日も帰れそうにないと伝えておいてくれるかね」


 意味ありげな笑みを浮かべて伝言を預かると、島介も快諾した。どうやら藍老人は気が回る大人のようで、うまく付き合えるような気がしてしまう。明日引き連れる兵士たちの顔でも見て回っておくべきだろうと、しばし寄り道をしてから幕に戻ることにした。


 元気いっぱいで武装を取り換えた島介と、妙に疲れ切っているチュウが幕から出て来る。広場では二百程の兵士が屯してそれぞれお別れをしている最中だ。藍老人がやって来て挨拶を交わす。


「それでは事後を頼みます」


「ああ、わかった。武運を祈る」


 短く済ませる、それで充分だから。馬にまたがると広場の中心で矛を掲げた。


「俺は伯龍、本陣へ移動する指揮を任されている! 総員整列!」


 兵らが集まって来て、女たちが離れていく。ある程度の訓練がされているようで、細かく言わずとも大体の形になっていた。先頭に立っている二人、それぞれの族の頭の顔を確認しておく。


「チュウ、行って来る。部隊は俺に続け!」


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