第433話


「よし、これでもう万全だな!」


「凄いわ伯龍、あなたもうそんなに。来年の春までかかると思っていたのに」


 身体から湯気が出る位に動き、風が冷やす。芯が熱いため風邪をひくようなことはないが、チュウが毛皮を肩からかけてくれる。ボロボロだが爺の残したものらしい。


「これだけが俺の取り柄だからな。この地は冬が来るのが早そうだ、倉庫にももう食い物は殆どないだろ。狩りにでも出かけるか、結構得意なんだぞ」


 その昔、もう昔と言って差し支えない程に年月がたったが、放浪中は狩った獲物を宿に持ち込むことを繰り返していた。場所が違っても全く成果なしが続くことはないと確信していた。


「そうね、あるに越したことはないわ」


 サラッと応じているように見えて、何かを悩んでいるのを感じた。もう共に暮らして数か月だ、いくら鈍感といわれてきた島介でも思うところはある。


「ふむ。俺はチュウに助けて貰ってとても感謝しているし、その恩を返したいと思っている。悩んでいることがあるなら教えて欲しい、必ず力になる」


 出来るだけなどとは言わない、必ずと力を籠める。チュウは島介を見てから地面に視線を落として、しばし悩んだ後に視線をあげる。


「私と爺は血の繋がりはありませんでした」


 それでも家族として一緒に過ごしている、そういう事例は山ほどあるだろう、そんなものは何も気にならない。はっきりと頷いてやり続きを待つ。


「爺は難山烏桓の戦士で、先の先の大人からの配下。私はその大人の娘です」


「難山烏桓、聞いたことはないが烏桓という大きな族の中の一つと解釈しても良いのか?」


 チュウは肯定する。そもそも烏桓族というはっきりとした規定があるのかと言われたら、本人らも代々続いているこのあたりに住んでいる者達、位しか判別方法を知らないだろう。無関係ではないだろう、烏桓という響き。


「族の大人がなくなった時、争いがあり今の大人が私の命を狙ったので、爺が私を連れて違う山に籠もりひっそりと暮らしていたんです」


 それが一年以上に前の事。小屋が最初からあったわけでないならば、建てたのはその爺だろう。材料を用意してとなると、二年以上前が発端になって来る。その頃世間では何が起こっていただろうかと考えざるを得ない。


「戻るわけにはいかない、か」


「ええ、そうしたくてもきっと良い結果は得られませんから」


 話してしまったら楽になったのか、少しばかり雰囲気が軽くなる。好きでここに居るわけでもないし、戻る場所も無い。行く当てもないならば、楽しい未来が見込め無さそうだ。


「俺には戻るべき場所がある。もし良ければ一緒に来るか?」


「それは私に対する同情ですか」


 初めてチュウが表情を曇らせて不機嫌そうな言葉を発した。そんなことは思っていなかったが、そう思われるような態度を取っていたのだろう。一つ小さく恥じてから、こういうのも良いだろうと一歩を踏み出す。


「チュウに惚れただけだ。妻になってくれないだろうか?」


「そんな、私は部族から逃げ出して何も持ってなどいませんし、器量だってこの通りです」


 十人並み、そこらにごろごろとしているような見た目でしかない。求めるならばいくらでも美人を探すことは出来た、荀氏の娘を迎えたいといえば大歓迎で言葉を飲んでくれるのも感じていた。それでも、得体のしれない男を拾い、己の生命を保つための食糧すらも与えてくれたチュウの心を嬉しく思っている。


「俺が妻に求めるものは、その地位でも財貨でもなく、共に居たいと思える相手なのかどうかということだけだ。この考えはおかしいだろうか」


 逡巡した後に、島介の瞳をじっと見詰めると僅かな残りの距離を詰めて抱き着く。不安しかない日々を過ごし、共に生活した数か月は今までで一番充実していた。こうまで言われて断る程、チュウは人生が長いと考えていない。


「もう元には戻れませんよ」


「望むところだよ。歩いて行けるほど俺の家は近くはないんだ、馬を手に入れよう。まずはそれからだ」


 ひょいとチュウを抱きあげると小屋へと戻る。恥かしそうに顔を隠してチュウは小さくなってしまう。歳相応の反応に満足すると、島介はそのまま寝台に運んで行く。とある事情があり、肌の色など気にならない過去を持っている。それに結構な経験も。次の日、チュウは丸一日起き上がることが出来なかった。


 小屋にある使えそうなものは全て抱えて山を降りることにした。冬をここで凌ぐよりも、さっさと南下を強行した方が良さそうだと言うのが島介の考えだから。何はともあれ馬を手に入れなければ始まらない。現在地が何処かは全く解らないが、太陽がある方向に向けて進んでいけば、何と無くそのうち中華圏に行けるだろうと楽観的に。


「それでどうやって手に入れたものかな」


「どこかの族と交渉して、交換するのが良いですわ」


 そのうち出くわすだろうと、難山がある方角とは出来るだけ反対方向へ進むことにして歩き始める。荷物は全て島介が持っている、何ならチュウも抱いてやろうかと言ったが「結構です!」と断られてしまった。初日は道なき道を進んだので、遅々として動けずにあっという間に日没を迎えてしまう。


 地面で夜を明かすのはあまり褒められたことではない。獣だけでなく、虫や水気寒さでダメージが入ることがあるから。樹上で落下しないように縄で身を括って寝るという、アクロバティックなことをすると言った時には、チュウは目を丸くしていたものだ。


「あなた、どうかしましたか?」


 チュウは結婚したその日から、こう呼ぶようになった。好きに呼んでくれれば良いのだが、慣れないうちはくすぐったいものがある。


「人の気配が三つ……四つか、挟まれてるな」


 どこかの縄張りに入ったから警戒されているのだろうかと、両手をあげて「南へ向かってる、ここがどのあたりか知ってたら教えてくれ!」大声を出してやると、ガサガサと繁みを割って男達が出て来た。その姿は軽装で、手には短い弓矢を持っている。馬に乗っていれば軽騎兵といったところだ。


「勝手に入って済まない、俺達は夫婦で棲み処を変えようとしていてな。南にいけば街があるだろうと歩いている最中だ」

 

 間違いなく事実のみで、怪しいところなど無い。というのが島介の認識ではあるが、この時代では不向きの言い訳に聞こえてしまう。


「下民が勝手に族を離れられるわけがない。下手な嘘をついても良いことはないぞ!」


「嘘ではないぞ、俺を見たら分かるだろうがこのあたりの族ではないだろ。妻を得て帰郷するところなんだ」


 都市の差は親子ほどあるが、男の方が遥かに年上な組み合わせは普通なのでそこは不審には思われなかったようだ。家財のようなものを抱えているので、それも納得がいく。それでもはいそうですかと好きにはならない。


「通るのが良いか悪いかを決めるのはお前でも我等でもない。検大人が判断することだ」


 知らない名前が出て来たのでチュウを見ると「検山の族ですわ」なるほど、そういうルールの名前かと頷く。族のサイズが小さいのだろう、といっても鮮卑山と匈奴山はやたらと大きな集団になったりもしているので侮ってはいけない。

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