第432話

 簡易な寝台に横になっていると、嗅覚が働いてゆっくりと意識を取り戻して来る。島介は河に流された後にどうなったのか、まったく記憶が無いままついに目を覚ました。


「ん、んっ……」


 未だに朦朧とするが肉を茹でたような匂いが漂っているのでそれを感じ取る。何とか目を開けると、片方が布に阻まれて視界がない。身体を動かそうと力を入れてみて状態を確かめるものの、痛みが走る箇所があまりに多すぎるので安静にすることにした。


 どうやらあちこち負傷して寝ていることを察し、何故かを思い出そうとする。南匈奴と戦争をしていたのが過って来ると、戦闘中に墜落したことをはっきりと思い出す。よくもまあ生きていたものだと笑ってしまう。


「目が覚めましたか!」


 トーンが高い女性の声が聞こえたが、何を喋っているのかは理解出来なかった。不明の言語。片言でも羌族や南蛮、匈奴などが利用していた言葉は耳に残っていたが、どうやらそれらとは全く違うもののようだ。目だけを動かして声の主を見る。十代だろう若い女性、肌は薄い褐色と言えるかどうか。


「ここは?」


 漢で使っている標準的な言葉を発してみたが、彼女には通じないようで首を傾げている。それはそうだろう、お互い様だと察したようだ。手を取って身を寄せると「傷が治るまで大人しくしていてくださいね」笑いかけた。言葉は解らないが、雰囲気から伝わるものはある。島介は小さく頭を動かすと目を閉じた。


 次に目を開けたのがどれくらい時間が経ってからか、全くわからない。室内、これは木造家屋なのだろうけれども、外の光が全く感じられない。単純に夜中だと判断してもう一度目を閉じる。不思議と幾らでも眠ることが出来た、身体が休息を欲しているから。


 暫く寝たきりの生活を過ごし、麦かゆのような薄い汁を口にしては眠る。そのうち固形物の割合が多くなり、ついには上半身を起こすことが出来るようになる。身体中の力が抜けてしまっているようで、気力までしぼんでしまいそうになる。


「そろそろ立てそうですか?」


 未だに何を言われているかわからず、それでも立ち上がって部屋をうろうろ歩いて微笑んでいる彼女を見て言っているだろうことを理解した。寝台から足を横に出して、壁に手を当てて立ち上がる。眩暈がしたが何とか一人で立てた。壁づたいに歩いてぐるっと一周すると寝台にまた横になってしまう。


 日に何度かそういうことをしてリハビリを繰り返し、数日そうしているうちに歩くことが出来るようになる。この頃ようやく自身のおかれている環境に興味が出てくるようになった。


「まったく俺はどこで何をしているやら。恐らくここは北狄の部族の住居で、彼女は命の恩人だな」


 部屋の中にある品々は漢の文化を殆ど感じさせない。彼女以外の姿も見かけない。そのうち扉を開けて外を見てみたいと思い、実際にそうしてみた。すると、山地の岩場の陰にポツンと小屋があり、そこで暮らしていたことが判明した。


「部族の中ではなかったのか。不審者を隔離しているだけの可能性はあるが」


 何はともあれ、寝起きして雨風凌げている事実さえあればそれで良かった。待っていると彼女がまたやって来て食事の準備をしてくれる。小柄で百四十センチ前後、けれども大人でもそのくらいな時代だ。百八十センチもある島介がこの時代の異常者。


「俺は島介、伯龍だ」


 初めて話しかけられたので彼女は向き直り「伯龍?」より発音しやすかったのか聞き取りやすかったのか、そう繰り返した。


「伯龍」


 自身の胸に手を当ててもう一度「伯龍」と繰り返し、手のひらを彼女に向けて首を傾げてやる。すると名乗っていると気が付いてくれた。


「チュウ。伯龍。チュウ」


 自分に手を当てて、島介に手を添えて、また自分に手を当てる。チュウという名前が聞けた、意思の疎通が少しでも出来るように簡単な言葉を覚えようとする。島介の大の得意分野、言語理解。ソルボンヌ大学の語学教授に専門家として誘われた過去を思い出す。何せ十数か国の言語を操ることが出来るから。語学野というのが脳内で異常な発達をしているという見解だった。


「チュウ。いままでかんびょうしてくれてありがとう。かんしゃする」


 片膝をつくと拳礼をして頭を下げた。チュウが居なければ確実に死んでいたことなど、前後を知らなくても簡単に理解出来る。チュウは微笑むと料理を机に並べて座るようにと椅子を勧める。料理と言っても何かの肉と野草を煮込んだだけの代物、塩が僅かに利用されているだけ。


 数日の間、部屋に在るものを触っては名前を訊ね。身体を触っては名前を訊ね。動きを見せては訊ね。単語を吸収しようと集中して問い詰めた。チュウは初めの頃こそ苦笑していたけれど、ミルミル言葉を覚えていくので真剣になって指導するようになる。恐らくは小学生低学年くらいの知識量になったところでようやくチュウについて尋ねた。


「チュウ、ここはドコでナニぞくだ?」


「何処って言われても、私が生まれ育った土地で、何族かって言われても良くわからないわね。爺が死んで一年経って、それでも一人で暮らしてるけど」


 外にあった奇妙な石積みの正体がきっと墓なんだろうことを知る。とはいえ単身で生きていけるほどこの世は甘くないと知っている、答えたくない理由が存在しているのだと察した


「チュウはこのさきもここでひとりでくらしていくつもりか?」


 彼女の意思こそが大切。そうしたいと言うならば出来るだけかなうようにしてあげたいと考えたが、返答は得られなかった。じっと黙って俯いてしまう。


「まあいい。まずはおれがひとりでうごけるようにならないとだ」


 助けられて生活している状態で、他のことなどすべて後回し。体力さえ回復すればどうとでも生きていける自信も経験もあるが、全身が不調では話にならない。辺りは真夏の盛り、北部へ出兵してから数か月、今はきっと盆くらいなんだろうなと島介は勝手に想像した。


「そうね。早く元気になってね!」


 全て誤魔化してしまうが、その微笑みだけで今は良い。獣の肉は罠でとってきているらしく、小動物が全て。もちろん取れない時の方が多いが、それでも島介には優先して肉を食べさせてくれる。貯えだってあったのかもしれないが、山芋の類だけの時があってもいつも用意をしてくれた。時に自分は先に食べたから要らないとまで言って。


 涼しい風が吹いて来る、秋口の始まりが北部は早い。体力を取り戻したら次は筋力とばかりに訓練し、骨折していた箇所も癒えた傍から使って行くことで元のように動けるようになった。毎日の会話でまともに喋ることも出来るようになってきたのも驚きだろう。


 なれと言うのは恐ろしいもので、何一つわからない世界でも三か月も触れていたら自然と馴染んで来るものらしい。もっとも覚えようと言う努力は絶対に必要になるが。

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