第426話
崖の上に派遣されている分隊が赤色の旗を大きく振る。戦え、前進、そのまま交戦継続などの意味合いだ。前軍としての恭荻軍の前衛である、張遼軍団が歩兵を前に押し出し始める。岩場で足場が悪いので、南匈奴の騎兵は後方に控えていて向こうも歩兵が対峙していた。
「あちらも前進してきます!」
陣地に籠もっていれば有利なのだが、会戦の緒戦を待つだけでは気持ちを表すことは出来ない。盾を持った歩兵がせり出していき、真っ正面から衝突した。双方譲らない力勝負。数は多少違っても、歩兵同士に衝撃力はない。一度接触したら団子状態でじりじりとしか動くことはない。
「第二陣が進みます!」
報告を上げるために控えている供回りが遠くの状況を目で見て声を上げる。水晶を利用した望遠鏡の偽物、これでより遠くの状況を目視しているのだ。幾つもの水晶を割って壊して、丁度良いのが出来るまで壊し続けた。焼いたり磨いたりではなく、ただ割るだけでも数をこなせば丁度良いのが手に入る。
島介は黙って床几に腰かけて腕組をしているだけ。報告を耳にしてそのまま動かず。各所で数時間、最初に出した交代が下がって来るあたりでようやく目を開けた。
「暗い雲が下がって来たな、空が近い」
「降雨が予想されます」
兵は可能な限り乾燥した状態で維持したいが、屋外で戦争をしているのだからそうも言えない。それでもせめて濡れづらいように屋根を用意出来る奴らにはそこで待機するようにさせた。外で待機の兵は、編み込んだ藁などでつくられた笠と蓑を雨除けをする。
「荀彧あれは?」
「簡易小屋の類で御座います。越冬の可能性を鑑み、製作させておきましたので」
風が強いので足の部分を半分の高さに制限して、視界を狭めないように二面だけ壁を作って屋根を載せている。つまり何かというとカーポートのようなものだ。何かに座ってという位の高さしか持っていないので窮屈だが、立っているよりは楽。これが二つ組み合わされば四面壁の屋根付きで、小屋として利用可能。
「大分荷物になるな」
「薪として利用も可能ですので、いずれ運ぶ必要がある品ですので。利便性が高い焚きつけの類でして」
「そいつはいいな!」
複数の使い道があるものこそ戦争で利用すべき物資だ。こうやって雨除けの屋根代わりでも、越冬の小屋でも、薪にしても良いならば充分携帯してくる価値がある。なぜ炊きつけといったか、きっと油を含ませているか蝋を塗っているか。そのうちポツポツと降り出してきたので兵が集まって屋根の下で待機した。
最前線で戦っている部隊は雨など関係なく動き続ける。山地にあるくぼみ、洞窟の類を確保している部隊のところで煙が上がりだした。慌てている形跡はない。
「我が君、あちらは湯を沸かしているところです」
「ほう、それは気が利くな。体温を維持出来るのは非常に重要だ」
交代の部隊が前に出ると、下がって来た部隊の兵が幾つかに別けられて移動していく。負傷者は野戦病院、それ以外は風呂で身体を温め着替えるようにと。外征地でケガや病気になれば捨てられるのは当たり前とすら考えられているので、兵らの反応が素晴らしく良い。荀彧に雑務を任せた結果がこれだ。
「勝手な真似を致しました」
「俺は今とても満足している。よくやってくれた礼を言うぞ」
「勿体ないお言葉」
官軍であろうとなかろうと、どこを探しても兵がこんな待遇を受けることはない。そんなことをする予算があるならば、将軍の私腹を肥やす為に寄せた方が側近も評価を受けるから。賢人を標ぼうされる荀氏だが、あまりにも求めるところが高みにありすぎて、尊敬と共に疎ましく扱われてしまうことがあった。儒学者の孔氏などでもそのきらいはある。
陽が沈めば一日は終わる、軍を退かせて軍営で夜を明かして、朝日が昇れば戦いを再開する。麦かゆに塩が効いた干し肉、兵士にとっては御馳走が振る舞われた。韓馥が後援してくれたおかげで食糧は充足している。
「で、動きはどうだ」
島介は前を向いているが、尋ねているのは南匈奴との戦況ではない。そんなことは指摘するまでも無い、荀彧はにこやかに答える。
「公孫賛殿は劉備殿との距離を持ち始めたとのこと。今宵早速動くでしょう」
なにせ最早この戦争から抜け出すことが出来ない位置に居る、後方でどうなろうとやきもきして待つしかない。初日は警戒があったり、位置関係が把握できていないこともあって、それらがはっきりして夜に仕掛ける。
「警告を入れてやるんだ、そうせずとも上手くやるとは思うがね」
「畏まりまして」
身軽な者を十人放ち、衛将軍本営に走らせる。一人でも辿り着けば充分注意を促すことが出来る。また個人であるならば、崖を通って行くことも出来た。バチバチと雨が屋根を打ち付ける。
「しかし強い雨だ。兵の体調管理には気を付けてやるんだ」
「兵営の責任者には特にそのように。時に於夫羅単于とはお会いにならなくてよろしいので?」
付近に陣取っているのは知っていたが、双方行き来することも無いまま今に至っている。何かしらの意思の確認くらいはすべきだろう。呼廚泉はあちらの幕に戻ってしまっている、今はそれが適切だろうとも考えていたが。
「必要ならあいつから連絡がある、放っておけ。それよりこのあたりの地盤は強そうだが、降雨によるがけ崩れは警戒しておけよ」
戦って死傷するなら仕方ないが、事故や災害では死んでも死にきれない。注意して事なきを得られるならばそうすべきだ。
「御意。本日はお休みください、本番は夜半になりましょう」
公孫賛の件もある、将軍が昼間に何かをすることもない。一般戦闘は部隊長らに任せておけば良いのだ。いつでも報告を受けられるようにだけしておき、島介らを始めとした武将は待機した。日中は特に何も起こらず、日が暮れて兵が退いてきて休息に切り替わる。そこへ荀彧がやって来た。
「公孫賛軍が姿をくらましたと急報が」
「狼煙は」
「指示して参りましたが、この風雨ですのでしかと伝わるか。伝令も出してございます」
暗夜、風雨、これで狼煙が見えるかは疑問だった。伝令もこの状況でしっかりとたどり着けるかの保証はない。詳細な天候まで予測できるはずが無いので、公孫賛は今頃にやけ顔で薊方面に向かっているのだろうことが想像出来た。
「沮授殿や田豊殿を信用しよう。この雨はいつまで続くんだ」
「この時期の雨は三日から五日が多いとのことです。南匈奴の軍勢も幕を張って風雨を凌いでいるようです」
戦える状況ではないから天候の回復を待っている、それは常識的な判断で島介もそうだと感じた。だがそこで何かが閃く。
「逆に言えば明日はほぼ確実に雨というわけか」
「我が君?」
「練魚脂はあるな、敵の軍陣を襲うぞ」
魚の脂の特徴は常温では半分固形を維持していることで、暖かいと溶ける。使いやすいし手に入りやすい、もちろん食用でもある。だが島介はそんな普通の使い方をしないことを荀彧は知っていた。
「ございます、一緒に唐辛子も必要でしょうか」
少し参ったような表情でそのようなことを口にした。その二つを使って鍋でも炊くと言うならば笑顔だろうが、決して口に入るような使い方はしない。
「そうだな。全身に塗って体温を保護して雨中の行動をする、五百人もいれば良いだろう。志願を募れ」
戦いなどではない、自分でもそれを常識だと感じたのだから、こんな悪天候で攻め込むなど狂気の沙汰だ。だからこそ奇襲になるのは、いつの時代でも状況でも同じだ。
「将はどなたをご指名で」
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