第421話

 左軍。曹操軍と袁紹の派遣軍が山道を移動していた。こちらは右軍とは違い、大軍がまとまって行動していた。山道の状況が比較的良かったのと、二本が並んで走っていることもあって一団で動くことが出来ていた。それと袁紹の派遣軍を率いているのは高幹偏将軍で、顔良、文醜、高覧などが部将としてついてきている。


「孟徳殿、良かったのか軍を左右に別けてしまって。前後に置いた方が安定すると思うが」


「ああっ、うむ、子孝よ、我々の目的はなんだ」


 曹操が曹仁の問いかけに是とも非とも言わずに逆に問う。それぞれの道に袁紹軍と曹操軍が別れて配備されている、左右とはそのことを言っているのだ。


「なにって、匈奴に勝って決戦に臨むことではないのか?」


「ふぅむ、はぁ、そうだな」


 さも当たり前の事のように答えたのに、曹操は渋い顔をして目を閉じてしまった。曹仁は釈然としないまま、馬を少しばかり離して行軍を続けることにした。そこへトコトコと騎馬した戯英がやって来る。


「素直で良い部将ではありませんか」


「ううん、ああ、志才の十に一つ程位の知恵があれば、あやつも大きくなるというのに。これではまだまだだ」


 しかめっ面で嘆く。いまのやり取りのどこにそのような要素があったのか、戯英にはよく理解出来た。けれどもにこやかに親子ほど歳が離れた曹操を見詰める。


「曹仁殿は、兵にも民にも好かれるであろう素質が御座います。そういう存在は貴重で、性質などというのは持って生まれたものゆえ磨くことも難しいもの」


 その大きな体躯から、若いころは乱暴者であったが、一度こっぴどく懲りてからは変わった。決まり事をきっちりと守り、他者を評価して感情によらない。大勢を束ねる者に必要な才能を持ち合わせている。


「おお、判断が遅くても大過なく、となれば適切にはなるだろう。それまで生きて居ればという条件付きだがな!」


 嫌味でそう言わっているわけではない。命は一つしかない、十年後二十年後よりも今を生き延びられる才能をより上位に見ているということだ。大器晩成は悪いことではないが、寿命を全うできる者は案外少ない。


「私の寿命は恐らくあと半年、長くても一年かそこらでしょう。危険があれば身代わりにお使い下さい」


「はっ、そのような危険など、志才の知恵で回避してみせよ。出来ぬとは言わせぬぞ」


 肺を患っていて長くはない、それは戯英が良く知っていた。回復する見込みなど無い、あとは弱って死ぬだけだと達観している。この時代に細菌やウイルスと戦うための薬を処方する医学技術はない。


「……軍を左右に置かれましたのは、片方が襲われても致し方なしと仰るためでありましょう」


 急に声量を落として聞かれてもいないことを喋りはじめた。先ほどの曹仁への問いかけの正解だ。片方とはもちろん袁紹軍の側の事で、より精強と信じる自軍は後回しになると読んでいた。


「それで目的を達せられるのか」


「匈奴に勝つことは可能でありましょう。ですがより重要なのは、並び立つであろう相手の地力を削ぐこと。より遠くの、より大きな目的の害になりそうなモノは排除していくべきでしょう、敵の力を利用してでも」


 さらっと恐ろしいことを述べるが、曹操は口元を少しだけ吊り上げると「天は不公平だ。こうも才あるものの寿命を削るとは、世のためにならぬではないか!」両手を拡げて嘆く。こういったパフォーマンスこそ、部下を想っているのをアピールする手段だとして使っている。


「不公平ではありましても、不平等ではございません。為したいことを精一杯為せる、その環境を頂いておりますので」


 いたずらに長生きして、大業をなせるわけではない。太く短く、細く長く、どちらにも一長一短ある。それに、惜しまれつつ失われるのと、憎まれて処断されるのとではどちらが望ましいのか。


「ふぅむ、そうか。して志才よ、どうみておる? ああっ、この先は混乱が起こるぞ」


 この先。果たして何を指しているのか、戯英には二つ想像出来る未来があった。そのどちらにでも当てはまる内容を言葉にして、曹操がどちらを考えているかを絞り込む。


「だからこそ飛躍も出来ましょう。曹操殿は政で争うのか、武で争うのか、いずれがお好みで?」


 政、言わずと知れた政治や外交、内政のこと。直接ぶつかるのではなく、外濠を埋めて相手を屈服させる手段でもある。武力でものを言わせるのは即効性がある半面で、反発が極めて大きくなる。


「なんだ、選ばねばならぬのか」


 挑戦的な表情で敢えて無茶かと思えるようなことを言うが「好みをお尋ねしただけで、選ぶ必要は御座いません」戯英もまた余裕の笑みでサラッと切り返す。二十代半ばの若者が、どこでなにをしたらこうも肝が据わるのか。命が短いと理解しているからゆえか、曹操には解らなかった。


「まあ、殴り勝つだけならあいつらだけでも心配はいらぬ。いかに地に足をつけるかを聞いておきたいものだ」


 ようやく本音を吐き出した。最初から口にしてしまえば軽く見られる、面子を守るためにも頂点は色々と気を使うものだ。馬周りの者らが気を利かせて距離をあけている、話を聞かれたくないだろうとの配慮で。


「中原をお臨みになられるのが宜しいでしょう。東郡と魏郡を支配し、南北の交通の要衝を保持するのです」


「うむ!」


 冤州と冀州の間には平野があり、その左右には山脈があって通行が出来なくなっている。東は泰山をぐるっと東に海まで回れば迂回も可能だが、そのような選択は極めて不利を背負うことになった。もしこれに平原国まで加われば完全に遮断する形が作れてしまう。完全でなくて良いのだ、五つの内選べる道が三つ潰せれば充分。


「そこで力を蓄え、帝をお迎えするのです。さすれば諸侯は靡かざるを得ず、影響力を行使することも難しくないでしょう」


 青州や幽州を支配して地域を拡げるつもりでいたが、曹操も中原を狙う方がより良いのではないかと迷っていた。少数というのは弱い、だから数を求めようとしていた。ところがこう聞くと、数の魅力よりもはっきりと将来を描きやすいのは、場所と理解出来た。


「東郡は元譲が守っておる。あとは魏郡というわけか」


 この戦いで功績をあげて、何か理由をつけて魏郡の太守になりたいと工作をすれば、無下に却下することも出来無さそうだ。政も武も選ぶ必要はないとはこういうこと。攻めて奪うと維持に困るし、武功がなければ政も成り立たない。どちらが先かと言われたら、やはり匈奴に勝つことからというところだ。


「郡の一つくらいは曹操殿の名声があれば問題ないでしょう。重要なのはいかにして帝をお迎えするかです」


 招いてやって来るような存在ではない、奪いに行っても退けられてしまうのは明らか。確かにどうやって手に入れるかが一番の悩みどころ。以前、曹操も考えてはみたが、どうにも上手くはいかなかった。


「儂では及ばぬ。志才の知恵を授けて欲しい」


 客将に拱手して教えを乞う。集団の頂点が首を垂れる、いくら馬上とは言えこれは異常な行為、供回りがギョっとしている。それを感じ取った部将らも様子を窺って神経をとがらせていた。


「奪おうとすれば立ちはだかるものが多いでしょう、迎えようとすればやはり遮ろうとする者が多いでしょう」


 その通り、だからこうやって思慮している。仕方ないと頷き、目を閉じる。どうしようもないことだってある、と。だが戯英は言葉を続けた。


「皇帝陛下に求められるのがよろしいかと」


「陛下は賊徒の手中に在り、決してそのようなことは叶わぬが」


 戯英は目を細めてじっと曹操を見詰めると「であるならば、籠から逃げ出し新たな籠へ入るお膳立てをなされるべきかと」拱手して顔を伏せる。曹操は馬を止めると正面を戯英に向け、拱手した。


「ご教示ありがたく!」

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