第420話

「羌平の城で備えを見た捕虜たちが、漁陽の現状を見られるように致しました。その際には兵や軍備を大幅に隠し、貧弱な姿のみを見せております。さて、後方基地の防備が薄いと南匈奴の間で叫んだとしましょう、これが嘘だと取り合わないならそれはそれでよし。ですがもし本当だと裏をかこうとすればどうでしょうか」


「なるほどな、漁陽を甘く見ても、逆だとしても、それは既に漁陽に目を向けた時点で策略のうちというわけか。やっぱり荀彧には全くかなわんよ」


 目先を羌平や漁陽に引き付けようとする。これは薊へ向かわせない為だけではなく、山岳地帯への警戒を薄めるためというのに繋がって来る。即ち別動隊の行動を援けることになるのだ。


「今頃は一般警備よりも特別な目的をどのように果たすべきかを考えていることでしょう。人とは二つ以上の物事を同時に考えようとすると、必ず綻びが生じるものです」


「はは、耳が痛いな。陽動にはかからないようによく注意しておくよ」


 捕虜が帰還した当日、追跡偵察に出た於夫羅の手の者達が上手い事情報を手にして戻って来た時には、島介も手を後頭部にやって唸るしかなかった。世には天才が居るものだと、感心するしかないから。


 右軍。公孫賛と劉備の軍がついに行動を開始した。二手に分かれて長城を越えて攻撃を仕掛ける、二人の間での取り決めはこれだけ。大雑把なように見えて、進むべき山道と軍勢の規模が決まっている以上、後は出発の日時程度しか調整することが出来ない。


 劉備軍の先頭は関羽が立っていて、神経を巡らせて視界も足元も悪い山道を騎馬で進んでいる。中央には劉備と張飛が、後備は趙雲が指揮していた。部将らはその全てが劉備の周りに侍っている、一大事あった時には大将である劉備を何としてでも安全に離脱させるようにと言い含められて。


「なんだか気味が悪い場所だな! あっちもこっちも崖だらけだ」


「こうして軍が通ることが出来る道があるだけありがたいと思うのだな」


 張飛が漏らした感想に同意しつつも、その崖を昇り降りしなくて済んでいることに感謝をする、劉備らしい。とはいえ偵察を出してはいるがここで奇襲を受ければかなり厳しいというのは考えていた。戦場に辿り着く前に敗退では話にならない。


「兄貴が先頭を行ってるんだからそこまで心配はいらねぇけどよ、帰りも通るんだよなここ」


 見渡す限りの断崖絶壁、より上をとった方が圧倒的に有利なのは間違いない。そしてここでは数が力とは言い難い、足止めされて補給を阻害されたらあっという間に干上がってしまう。


「信頼はしているが頼りきりになるのは褒められたものではないな。こちらからも分隊を山頂に送っているが、特に何かを見つけたという連絡はない」


 近い山に兵を送り、何か動くのが見えたら光を反射させたり、旗を振ったり、夜ならば火を焚いたりして異常を報せる手筈になっている。特に夜間に何かが見えたらそれは松明だろうから、人間が居る証拠になる。自分たちなら良いがそうでなければほぼ敵襲だ。


「ああ、あいつらか。怪我してたり、片腕が無いような奴らでも使い道はあるもんだな」


 劉備の性格だ、己を頼る者を見捨てることが無い。軍に所属したいと申し出があるものの、戦いにはならないような状態の奴らもいた。本来ならば街に置いて来るのだが、従軍を許可した。それが今や重要な軍の目としての役割を果たそうとしている。


 この監視部隊、最も大切な能力は何事もないのが当たり前で緊張感が失われる中での、集中力。役立たずといわれ野垂れ死ねと突き放されてもおかしくない状況で、拾ってくれた劉備への忠誠心は高い。ここで功績を上げずにいつするつもりだと、士気が高くなっていた。


「翼徳よ、よく聞いておくのだ。人とはそれぞれが役割を持っている。それは天から与えられた宿命とでも言える。形が違うだけで誰もが同じようにすべきことを抱えている、我々将はそれらを適切な枠へ当てはめていくことだ。解るな?」


 これは人事という部類の考え方にほど近い。適材を適所に配置する、いつの時代も常にそれが求められてきて、常に変化居続ける命題。細かいことは齟齬があっても、人事を尽くして天命を待つという言葉は近い内容を指している。やるべきをやれば後は結果を待つだけ、という意味で。


「うーん、まあ何と無く……ところでよ兄貴、その腰につけてる巾着は何だ、今まではそんな持ってなかったよな」


 視線の先を見ると、具足の腰巻あたりに巾着が結わえ付けられていた。何か嗜好品でも持ち歩いているにしても、張飛はそんなものは見たことが無い。


「これは荀彧殿からの贈り物だ。どうしても困った時に開けてみると良いと貰ったのだ」


「荀彧ってーと、島の旦那のところのアイツか。困ったら開けろってなんだよ」


 若干不機嫌になるのも仕方ない、雲をつかむような物言いが張飛は好きではない。もっと直球そのものが好きなのだ、性格も真っすぐで乱暴でも憎めない。


「さてな。だがかの御仁がそうだとして渡してくれたのだ、きっとそれが適切なのだろう。恭荻殿が最も信頼する者の言葉だ、私は受け入れる。逆に恭荻殿だって翼徳の言葉を容れてくれるとは思わんか」


「ええ? あー、そうだな、旦那ならきっと質問も何もせずに頷いてくれるだろうな。そうか、そういうもんか」


 劉備は珍しく張飛が口答えをしてこなかったことに微笑する。志を確かめ合った人物に、少なからず信を置いているのがわかったから。同じ方向を向いていたのが嬉しいのだ。その時、山頂に配置してある分隊の居る場所が光ったと馬周りが指摘した。じっと見ていると、金属で太陽の光を反射させて何かを報せようとしていた。


「翼徳、総員を警戒させろ。それと関羽のところにも伝令を出せ、状況を把握するのだ」


「わかった、俺に任せろ!」


 蛇矛を片手に武兵を数人引き連れてあれこれと命令を出し始める。こと純粋な戦闘に関しては、張飛は非常に有能だ。己の戦闘力だけでなく、部隊を指揮する能力も極めて高い。戦場の外での思慮に欠けるだけで、武官としての才能は認められた。


「さて、こちらが始まると言うことは、伯圭殿のところにも敵が現れているだろうな。問題は匈奴ではないというが、差し当たってはこの危機を回避しなければならんぞ」


 多くの者が先の先を見ているが、劉備軍は戦力が少ないので目の前の対処を怠るわけにはいかない。常に全力で手落ちなく指揮する必要がある、その位の苦労は喜んで背負うつもりの劉備であった。

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