第414話
「荀彧、俺はこれから無茶なことを言うだろうが、可能かどうかを判断して欲しい」
「御意」
「漢はかつて借りを受けた南匈奴単于於夫羅にそれを返す為に軍を興した。於夫羅が単于として帰国出来るようになるまで、漢は軍勢を派遣し続けるだろう。という言葉を南匈奴に向け、そしてそれを真実に出来るだろうか?」
筋は通る、ように思える。だがしかし、現実的に国家の意思を作り上げるなどして良いのかどうか。そして漢という国にそのような恩返しをする気があるのかどうか。
「我が君の下問にお答えいたします。かつての盟友があるべき場へ戻るようにと思い遣ることを仁と申します。利や欲に囚われずなすべきを為すことを義と申します。国家が受けた恩を国家が返すことを礼と申します。道徳的な認識判断を行えることを智と申します。誠実であることを信と申します。五常を守らんとするその姿勢を、一体何者が否とするでしょうか!」
仁・義・礼・智・信を備える人物は徳が高いと評される。それらを守り、拡充し、推進するのは極めて難しいことなのだ。今、島介はそれを為すべきだと荀彧に告げた。儒学を墨守してきた荀氏が最も望む姿、それを前にしてなんと返答したら良いか胸が熱くなる。
「では可能と判断するか?」
「荀文若が、いえ、荀氏がその総力をあげて可能とするよう最大限の尽力をさせて頂きます」
「そうか。すまんが背景のことは任せる。俺はこれから馬日碇殿のところに行って来る、頼んだぞ」
「御意!」
渋さが詰まった烏龍茶をもう一口含む、熱さが去っていてより味が濃く感じられた。その位が丁度良いと、何故か笑みがこぼれる。辺りは真っ暗になり、篝火がたかれている。一人で行動するなとの命令が出されていた、というよりは自身で出していたので、供に趙厳がついてきた。
「恭荻将軍が衛将軍に面会を求められております。お取次を」
趙厳が将軍に代わって門衛にそう告げる。直ぐにどうぞとはならずに、責任者に伺いを立ててから中へと招かれた。何一つ不満はない、むしろ職務をしっかりとやっていると感心する程だった。小さいが館、と呼んで差し支え無さそうなところへと入る。
「こんな夜まで働くほど真面目だったかね」
「思い付きで行動しているだけですよ。老人は寝るのが早いと聞きましたが」
「はっ、良く言う。こちらで聞こう」
軽口の応酬が楽しくて仕方ないのが伝わって来た。こんなことを言い合えるもの、国中を探したっているのかどうかすら怪しい。茶は結構と断って座る。
「ただ殴り合いをするだけでは面白くないと思いましてね、一つ案を持ってきました」
「ほう、そいつは楽しみだな。そういうのは軍師とかの縄張りじゃなかったのか」
「無事に及第点を貰ったので、披露しに来たわけですよ。待ちきれなくてね」
軍師役が荀彧なのを鑑みると、成功率は充分高いものなのだろうと内容を聞かずとも納得する。それだけ五荀の名声は高く、失策など聞いたことが無かった。悪意がある人物は必ず存在している、しくじれば名声を下げようと喧伝するものだ。
「是非とも稀代の名軍師の策を聞かせて貰おうか」
「おっと、原案は自分というのをお忘れなく。於夫羅単于、彼を南匈奴に帰り咲かせるまで、漢はかつての助力に対する恩義を返す為に、遠征軍を派遣し続けるという声明を出します。一度目で成功させるつもりではありますがね」
馬日碇は当然、南匈奴の於夫羅単于の働きや今に至るまでの不遇を知っていた。それは望むところであり、また難しいだろうことでもある。
「君はこんな時の為に於夫羅単于を厚遇してきたのか」
「まさか。不勉強で常識が無いので、南匈奴が、黄巾賊に困っていたこちらに援軍を送って来たのも知らなかったし、於夫羅がその大将だったのも荀彧に聞くまで知りませんでしたよ。あいつは単純に、民の長として適切な性根だって感じたからこうしたまでですよ」
肩をすくめて「視野が狭くて申し訳ない」などとおどけて落ち度を明かしてしまう。ところが馬日碇は「ははははは!」大笑いしてしまった。なるほど、人は楽しい時だけでなく嬉しい時でも笑い声がこうも出るのだなと思いながら。
「いや実に、実に君らしい! 私としても一度目で成功させるつもりだが、勝つまで遠征軍を出し続けるように朝廷を誘導することは出来るさ。負けっぱなしで得るものなど無いからな。目の上のこぶが凹めば気分が良い奴らがいるだろうが」
国家として遠征を繰り返すのが極めて負担が大きいのはわきに除ける、面子やら威信というのがとても大きな幅を利かせているのもまた事実だから。
「荀彧が可能になるようにすると請け負ってくれたので、その後があったとしても何とかるでしょう。それまで自分たちが生きているかは別として、国家方針をそう向けるのは出来ると言ってましたから」
「ふむ。荀彧殿がそう言うならば、必ずであろうよ。相手の陣営、それも上層部を離反させるという大胆な作戦だな」
一番成功率が低い謀略、それを大胆と評するか無駄なことと切り捨てるか。一世一代の大ぼら吹き、そうだと言われても否定できないくらいの一手。
「相手を目の前にして、この野郎と殴りつけることが出来れば楽なんですがね」
「それを楽だと言えるのは少数派だろうな。そうするならば於夫羅単于を危険に晒すべきではないか」
もし戦死でもされたら計画は大きな音を立てて崩れ去ってしまう、ならば必要な時だけその姿を前に置くべきなのだ。
「もしあいつが、のうのうと後ろにいることを選ぶならば、それでも良いでしょう。ですが、そうはならないでしょう」
「それは君の勘かね? それとも戦略的な見通しか?」
今までの言動からそう感じたからと言うのが一番だろうと見た、そうでなければ単于としての姿勢の問題と。いずれであっても馬日碇は気にしないつもりだ。
「於夫羅の一人の男としての矜持です。あいつならばこの場にあって、決して恥じるような態度をとらないと確信しています」
幾度か言葉を交わし、弟の呼廚泉と共にあり、南匈奴の彼らの部族がどういうものかの一部であっても傍で見ることが出来た。あいつらならば絶対にここで安全圏に身を置くことを選ぶはずがない確信。
「良かろう、もし於夫羅単于が倒れたならば、その係累を次なる単于へと押し上げ漢が必ず南匈奴の主に戻れるようにと約束しよう」
今までになく真剣な表情でそうすると誓った。嘘偽りなど微塵もない、己が死んでしまえば空約束になってしまう危険性はある、それでも必ずそうすると固く約束をする。
「明日、漁陽城へ向かいます。あなたに死なれては困るので、何があっても絶対に生き残ってください。沮授殿らを信じ頼られますように」
「わかった。無様に地を這い泥を啜ろうとも必ず生き残ってみせるよ。そうすることで次の世代の者が歩めるというならば、私の名誉など地に落ちようとも構わん」
拳に手のひらを合わせて見つめ合う。戦友、盟友、親友、どう表せばよいか言葉がみつからない。親子よりも強い絆があるというならばきっとこういったものだろうとすら感じてしまった。館を出ると趙厳が待っていた。
「趙厳、行くぞ!」
「はい、将軍!」
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