第413話
城内の木陰に手招きをする。別に隠れて悪い話をするわけではないが、それでも余計な者に知られるのは面白くはない。
「貴官ならば気づいているだろうが、先に少し話をしておきたくてな」
「今般の戦についてでありましょうか」
「まあその範疇というか、その後とでも言うべきか。匈奴との戦い自体はさして問題視していないんだよ」
腕組をして軽く息を吐く。十万人以上同士の大戦を前にして、随分な態度であるが、大将の一人が何の心配もしていないという態度は、部下としては安心材料だろう。
「といいますと、衛軍についてということで」
「ああ、敵よりも味方の方が問題山積だ。呂布は勢いよく裏切りをするだろうと考えている、公孫賛だってこちらに有益なことをしないだろうしな」
「呉越同舟は匈奴の決戦を行うまで、でありましょう。その最中ならば大被害も想定されます」
そんな気はしていたが、自分から口に出すのは憚られた。何せ味方の和を乱すような内容だから。木陰に寄った意味がありありと感じられる。
「多くを求めるつもりはないんだ。漁陽近隣の山岳に、避難用の砦を幾つか置いておく。万が一……いや、馬日碇殿が攻めに遭った時、支えられないと少しでも感じたらそこへ逃げ込んでほしい。狼煙を上げれば必ず救援に向かう、時間稼ぎだ」
「……それは某以外に?」
「冀州軍の沮授殿と張合、そして衛軍の騎都尉韓浩には事前に伝えて貰って構わんよ。他の人物はよくわからんから信用しないことにしている」
田豊は拱手すると「某を信用して頂き有り難く」腰を折って礼をした。信頼とは時として、最高の報酬であると理解しているからだ。
「公孫賛だけならまだ何とか出来たかもしれんが、呂布までとなるとな。すまんが頼まれてくれ」
「無論で御座います。我等冀州軍は、冀州殿より恭荻殿を必ず支えよと厳命されておりますので」
「はぁ、韓馥殿には頭があがらんな」
そう呟くと田豊は飛び切りの笑顔を見せた、それほどまでに嬉しかったのだ心が通じ合う瞬間というのに居合わせることが出来たのが。
「冀州殿も『恭荻殿には感謝しかない』と仰ってございます」
「そうか、ならばあいこだな。結果は国家へ還元するという線で」
何の異存もない、田豊は島介が見えなくなるまでずっと礼の姿勢で見送ることにした。陣営にある自身の居に行くと荀彧が待っていた。
「お帰りなさいませ、我が君」
「勤務ご苦労だ。まずは座れ、おい茶を持ってこい」
酒宴でたらふく飲み食いはしたが、熱い茶をすする位は出来た。やや渋めで濃い烏龍茶は、気を引き締めるのに最適だと感じる。一息ついて目線を合わせると、微笑して荀彧が口を開く。言葉はいらないくらいに付き合いが長くなってきたものだ。
「南匈奴でありますが、呼攀単于は須卜単于の骨都侯出身の貴種であり、現在は民の支持を得ているとのことでありました」
「ふーむ、俺は匈奴の奴らの部族に疎くて説明を受けてもさっぱりなんだ。出来ればかみ砕いて概要で教えてほしいが良いか?」
完全降伏するとあっさりと吐露した。この情報について理解出来ていない、それは即ち弱点を晒したも同然であり、隙を見せれば命を狙われる世では決して褒められた態度ではない。荀彧はそんな弱みを見せてくれた主に対して、自らが確りとせねばならないとの感情を抱いた。
「畏まりました。今より五十年前に漢は南匈奴を下し、当時の代の於夫羅殿の祖先が単于を名乗りました。十五年前にその妻の部族が反乱を起こし単于を名乗りました、それが現在の呼攀単于の父の代です。そして現在に至るまでに四度単于が左右で入れ替わり、一旦は単于不在が続いたものの、於夫羅単于が国外に追放されている間に呼攀単于が諸族をまとめたようです」
「俺にも解るように解説してくれて助かる。父の代で四度も入れ替わるということは、匈奴は兄弟でも継承をするわけか?」
「その通りに御座います。この二百年で半数は兄弟の単于が立っておりますので、立場よりもその時の血筋と年齢、力加減で単于となるのが伝統の様子」
直系が存在する間は優先して、他が補佐をして盛り立てるのが漢室の方針なので、それとは違う。異民族と呼ばれている理由に文化の違いがあるのは歴然としている事実だ。
「なるほど、するとどうであれ力で単于の座を取り戻したとしたら、南匈奴ってのは案外それを受け入れるわけか」
「強者に従う族という話でありましょう。そうやって民を守って来た歴史がございますので」
王が誰であっても民が暮らしていけるならばそれを飲む、非常にわかりやすい。逆に言えば民が辛い生活を押し付けられるようならば、決して王を認めないことになる。顎に手をやって島介が目を閉じて考え込む。荀彧は物音一つ立てずにその姿をじっと見つめていた。
「…………和解、で座を譲ることはあるまい。その際には恐らく自刃まで認めることになるだろうからな。その呼攀単于とやらが真に民のことだけを想い、相手が正に民を豊かに出来るならばないこともない……だが周囲の奴らはどうだ?」
「匈奴の歴史で戦いに拠らず死に至り、僅かな期間で代替わりした単于は数名居ります。部族を生かすために主を害したことが。そのいずれも漢の軍勢が背後に迫っていた瞬間であります」
側近らの有力者が、この主では対抗出来ないと感じた時に、仕方なく主を挿げ替える。そんなことが少なくとも三百年で四度は起きている、そこそこな頻度と言えるだろう。
「於夫羅の評価、どのように見ている?」
自身の目で見て来た人物、漢であれば充分立派に主君としてやっていける能力と人柄だと知っていた。だが文化が違えば尺度も違う、匈奴ではどういった評価かを確認する。
「於夫羅単于の父である羌渠単于が、徴兵を繰り返し民に負担を与えたために支持は低いと見られております」
「なぜそのような徴兵を繰り返したんだ?」
「時は中平元年に遡ります。羌渠単于は南匈奴を上げ、黄巾の乱が起こった漢を援ける為に増援を当時の於夫羅右賢王に預けられました。それから三年、今度は左賢王に更なる援兵を行わせたゆえに」
「うむ!」
それはとどのつまり漢が起こした不始末の煽りであって、於夫羅は漢の被害者とすら言える。そして受けた恩義に対する返礼は未だなされていない。冤州の片隅で生活拠点を得られたことなど何も釣り合っていなかった。それを知ると知らないでは全くの大違いで、恐らくはこの世の常識だっただろうことを恥じるほどだった。
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