第398話

 その提言の中身について吟味する。幽州は実質的に支配下に置いている以上は追認せざるを得ない。その上で、朝廷に従う態度を見せるならば、漢の一部として振る舞える、そこはお互い様だ。そこで帝に従わない敵を攻撃したい、反目していた奴らにも戦うように命令を下せと求められたらどうなるか。


「ふむ。朝廷は外敵を討伐することを認め、袁紹、曹操らには勅令が下るわけか。内部争いではなく外部の敵に共同しろと。劉備あたりは『謹んで拝命致します』とか言って素直に出兵するだろうな」


 あれはそういう奴だという評価に疑いはない。食い合わせは最悪でも、曹操がそのまま幽州別駕に留任して公孫賛を補佐させる筋まで見えてしまった。全てを棚上げして刺し込まれるにしては確かにあり得る奇手。


「誰しもが面白くはないことは目に見えております。ですが、だからこそ李鶴殿、郭汜殿はこの上奏を認めるようにさせるでしょう」


 あまりに遠くを見据えた考えに唸り声しか出ない。もしこれで勅令に逆らえば、今度はそれらが逆賊扱いされてしまう。それでは幽州で争っていても勝ちが見えなくなり、公孫賛の思うつぼだ。出来て病気で引き下がるとお断りをするあたりまで。


「ふーむ、その時俺は何が出来る。荀彧ならばどうする」


 勢力としての分岐点、ここで間違えてしまうと大きく遠回りをしなければならない可能性がある。最短距離を行かねばならない、そう誓った島介には致命的な結果が。


「荀文若が献策致します。我が君は、公孫賛殿に先んじて上奏を起こされ、献上に参内する於夫羅単于を副将とし、北伐を行うよう詔を下されますよう願い出ることをお採り下さいませ」


 どうせ北伐を起こす上奏が認められるならば、その主導権を握れとの提言。更には南匈奴単于を帯同して現地に勢力を張らせる駒として副将をとなれば、献上品についても補強される。何より幽州、青州あたりの騒乱が一時的にとは言え収まる公算が高い。これらは全て漢という国家の益になる。


「荀彧の策を採る! 諸般の手筈一切を任せる。来たる出征に備え、各位は準備を行え!」


 一言も発さずにその場に居合わせた部将らも事の重大さを感じた。言われずとも口外厳禁、各種の物資備蓄、戦争準備が頭に浮かんだ。雑多な連合軍、誰が主将になったとしてもやることに変わりはない。解散して荀彧だけが残った。


「しかし外征するにしても、味方にまで警戒しながらでは戦ってられんな」


 異民族と戦争中に命を落としてしまえば良い、そう考えて行動する輩が居ないはずがない。そういった調略戦のほうが主になる可能性すらあった。搦手には弱い島介、心配は漠然としたものまでしか浮かばない。


「袁術殿の件も御座いますので、身動きが取れないなどの懸念は消す必要がありましょう」


「うーん、そうだな。俺はどちらに参加するのかと言われたら、当然北伐になるんだろうが、冤州の防備が薄くなるな」


 留守中に帰る場所が無くなったでは笑うに笑えない。かといって軍も持たずに北伐に出れば、今だと潰されるだろう。勅令を受けて行動している最中に、何をされるか。攻め込んだ側は賊が出没したので治安維持のために代わりにやっている、などの良いわけで充分なのだ。


「冀州殿は決してそのようなことは行わないでしょう、それに青州もそれどころではありません。豫州は潁川も陳も汝南も勅令を尊重し決して冤州の側面を脅かすことはありません」


「やっぱり徐州の陶謙なんだよな。あいつだけは灰色のままだよ」


「この先は謀略になりますゆえ、お聞きになられたくなければそのままでも」


 荀彧が視線を伏せて表情を消す。知らない方が良いことはある、任せたままが良いことが。


「俺はお前の主だと記憶している。どうして部下にだけ荷を背負わせるなどと考える。話せ、全ての責任は俺にある」


「我が君のお言葉に文若は感服致しております」


 姿勢を正して拱手する。部下など利用してなんぼ、頂点だけが綺麗に大きくなれば良い。集団を保つ上での優先度としてはこちらが正しいのだ。


「袁術殿、徐州殿、それらが互いに牽制しあうように、徐州殿に対し江南の賊徒鎮圧の勅令が下ればと」


「なるほどな、自由に動けるから目もくらむわけだ。軍が南方にあればこちらも安心か。一方で袁術は切り取る先が狭くなってしまいやりづらい、そいつは頷ける。けど陶謙の守備範囲は徐州なんだよな」


 問題はその意図に陶謙が従うのかどうか。それについては徐州も治安が厳しく外部に出られない、などと拒否することは可能だ。むしろ徐州の維持こそが本来任務なので、揚州のことは揚州で解決しろとやんわり小言をというのも考えられる。


「それですが陶謙殿は安東将軍徐州牧羹陽侯でありますので、東部地域への治安維持任務での軍事行動が本来任務で御座います」


「おっとそうだったか。張なんだかが鎮東将軍だったよな」


「張済殿が朝廷での総司令官であり、地域に駐屯している司令官が安東殿との解釈を」


 本部司令官と現場司令官、上下があって普段は責任者が違う。もちろん朝廷から軍が出れば現場司令官が指揮下に組み込まれる。或いは名ばかりで権限が無いこともあるが、少なくとも陶謙が拒否するには官職上の責務があまりに合致していて難しい。


「断れば安東将軍の返上も視野に入るならば、精々自分の部下を揚州に据えると考える方が無難か」


「治中であった王朗殿が会稽太守に赴任するとのことですので。徐州殿も揚州へ手を伸ばしたいのではないでしょうか」


 目的と軸を同じくしているならば、むしろ冤州の勢力が北方に向かっているうちに行動したいとすら考えているかも知れない。そこまで見えているならば、あとは北伐をいかに成功させるかが重要になって来る。


「しかし謀略とは?」


「広陵、呉あたりの賊徒関連の報告を割り増します。治安の乱れを大いに装い、朝廷の公卿らの耳に入るようにと」


 偽情報を流布するのは違法行為だ。処罰に値するだけでなく、判明すれば己の名誉を貶めることになる。それだけに有効であり、策略に欠かせない。


「ふむ。恭荻将軍が命じる、攪乱工作のため偽情報を流せ。これは属官である恭荻中郎将への機関命令だ、異論は認めん」


「畏まりまして」


 泥をかぶるのは荀彧ではなく自分だと、島介が特に記録に残るように命令書を作成した。それを手渡すと、荀彧は恭しく受け取る。決して外には出すまいと誓って、不名誉に苛まれようとも忠誠を優先してのことだった。


 日々の気温が下がってきた頃、孫策は広陵を訪れていた。供は黄蓋、孫河、呂範の三名。江都県の城内、一角に屋敷を構えている張絋のところを目指して。


「若君、来る時は良いのですが、ここより去るには警戒が必要で御座いますぞ」


 黄蓋はそういってから若君はどうかと思って少し眉を寄せたが、孫策が目でそのままで良いと許す。今や正式に大将として上下の別があるのだ。


「そうだな。孫河、長江で船を借り上げて待機させておくのだ。数日の間に出立する」


「畏まりました、孫策様」


 服喪の間も常に傍にいた孫河、本来は兪河という名だった。年齢は孫策よりも二つ上、実のところ孫堅の婚外子というか庶子という奴で、兪家の娘に手を付けた際に出来た子だ。そのうち能力があることがはっきりとしたので孫姓を許して、孫河と名乗らせている。つまるところ兄弟ということ。それだけに信頼度は極めて高い。


「それにして孫策様、自らこのような場所にまで来なくても宜しかったのでは? 私が向かいましたのに」


「まあそう言うな子衡、先生には大きな世話になっているし、直接話をしたかったのだ」


「呂範殿の才覚を疑ってのことではありませんぞ。若君は誠実な対応を好まれるだけです」


 言葉を補う意味で黄蓋がことの一端を詳らかにした。そんなことは言われずともわかっていると呂範も目を閉じて黙ってしまった。やがて目当ての屋敷に辿り着く。門番に名を告げると速やかに通される。奥の座に一人の中年男性が座っている。年の頃は四十歳程、黄蓋も似たり寄ったりだ。


「子綱先生、ご無沙汰しておりました伯符で御座います!」


 元気いっぱいで進み出て近くで両膝をついて拳礼を行う。何とも気持ちの良い挨拶だった。黄蓋らも同じように後ろで膝をついて礼をした。


「おお伯符殿、壮健のようでなにより。心配をしておったのだぞ」


 何せ孫策はどうしてか陶謙に睨まれていたから。それだけではなく、袁術にも良い印象がなかった。


「今を無事に生きています、ご懸念無く! 母と弟らの面倒を見て頂きまして、心より感謝しております!」


 今度は手をついて床に額をつけて感謝を示した。張絋は傍に寄って手を取り助け起こす。


「なんの儂が納得して保護しているのだ、そこまでせんでも良い。伯符自らやって来たということは、ようやく身を立てられたのかね」


 座るように勧めて差し向かいになる。黄蓋らは部屋の隅で待機していた。


「袁術殿に掛け合い、大将として父の部下を返還して頂きました。これより丹楊で挙兵し、賊徒を鎮圧する任につきます」


「そうか、そうかそうか。立派になったものだ!」


 かつて江都に避難してきた孫策一家、偶然出会った張絋と意気投合して屋敷に住まわせて貰っていたことがあった。名声高い張絋の屋敷で保護している人物まで手出しをする者は居らず、孫策の母と弟らは安全に暮らしている。


「つきましては子綱先生、どうか私にご助力願います。右も左もわからぬ小僧が、多くの者の運命を背負うことになりました。何卒善導下さいますよう!」


 瞳を覗き込み、真剣に真っすぐに願った。


「儂が考廉に挙げられ茂才に推薦された上で、三公の招聘を断ったと知ってのことかね」

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