第399話


 張絋は陳紀同様、その才能と人格を買われて朝廷で賢人と見なされていた偉才。徐州の江都でただ学問に研鑽しているだけの身だ。自ら願い出れば、どこででも喜んで仕官を認められるだけの逸材と言える。


「無論承知しております。私はこれから大業をなすべく進まねばなりません、それには先生のお力が必要なのです!」


 視線をそらさずに孫策の瞳をじっと見返す。言われずともどういう人物かは知っていた、母親と弟らを見ても推察することは出来た。


「大業とは何をするつもりだね」


「国を支えます。乱れた世を正すために、己の力を振います。尊敬する父と、島介殿のように!」


「ふむ……孫羽殿の後継者か。勤皇の志がこのような地にまで届いておるよ。伯符もそうであれと志を決めたか」


 思えば学問に身を投じ、己は何を変えることが出来ただろうと張絋は目を閉じる。書を読み漁り、小賢しく知識を知恵だと偽り生き延びて来ただけではないか。そう過去を振り返る。少しでも世の為人の為になればと、悲運な母子を保護したりもしたが、四十歳を超えて何を為せたかは解らなかった。


 大きく息を吸い込み目をあけた。そこには意志漲る若者が、真っすぐに未来を見据えている。自分には出来なくても、孫策にならば出来るのではないか、そう思わせるような雰囲気があった。


「まあ、それも良かろう。伯符よ、そなたの願いを聞き届けようではないか。だが儂は甘くはないぞ」


「子綱先生に感謝を!」


「詳しい話を聞く前に、母御殿に顔を見せてまいれ。そこな従者よ、その間にかいつまんで事情を説明しては貰えるだろうか」


 黄蓋も呂範も驚いてしまった。てっきり母と弟を引き取って戻るつもりだとばかり思っていたのに、まさか張絋を登用するつもりだったとは。しかも、三公府にすら出仕を拒否したあの大人が、こうもあっさりとそれを受け入れるとは。


 家族と再会した孫策は事情を話、明日にでもここを離れると説明した。孫権を筆頭とする弟四人と、姉妹三人、母親違いが混ざっている。孫堅が強引で才能が有り、腕っぷしも強かったせいもあってか庶子はそこそこ存在している。未来の事ではあるが、孫策も四人以上の妻が子を産んでいる。


「伯符殿、概ね話は黄蓋殿に聞いた。その中で急ぐことが一つあった。それが何か解るかね」


 何を話したかは聞いていない、その上でこの場で急ぐと言えること。軍勢は丹楊で編制中であり、この場ではどうにもならない。ではそれ以外、何がそれにあたるかを素早く点検した。


「この場を速やかに立ち去ることでしょうか」


「ふむ、それも一つの正解であろうな。そちらが私であれば、儂の懸念は公にあたる」


 一つのヒントが出て来る。公私に別けて考え、公である部分。であれば政治的、或いは官職についてのことになってくる。孫策にはまだ政治で何かを出来るはずもない、では官職。急いでどうのこうのは考えようがない、では何か。


「もしかして太傅殿のことでしょうか?」


 袁術の居る場でのやり取りを黄蓋らも見聞きしている。持っている印綬については黄蓋が勝手に話すはずがない。ならば多くが知っている隠しようもないあの場のことだろうとあたりをつけた。


「そうじゃ。太傅殿といえば各地の巡察を行っていると聞いておったが、袁術殿に留め置かれているのであろう。ならばそれを速やかに朝廷に訴え、その身の自由を得させるべきだ」


「そういえば確か『あまり長話をするわけにもいかない身』と仰っていました」


「袁術殿に軟禁されているのであろう。自ら連絡をつけることも出来ず、せめて伯符殿を袁術殿に認めさせようと出仕しているのだ。伯符はその恩を返すべきではないかね」


 言われてみれば確かにその通り。このまま何もせずに後回しになっていたかと思うとぞっとした。


「先生、人の道を踏み外すところでありました。ご指摘に感謝します! 速やかに朝廷に上奏を起こし、太傅殿の安全を確保していただくようします!」


「うむ。ではその役目、儂が引き受けようではないか。こちらで起草し、伯符殿が署名するのだ」


 張絋の文才、それが役所の文であろうと詩であろうと、類まれなものであった。竹簡と筆が用意されると、あっというまに見事なものが出来上がってしまう。


「いまこの時の為にでありましょう、太傅殿から預かっているものがあります」


 黙って所持していた懐義校尉の印。これを取り出すと書簡に押印し、孫策と署名した。これを所持していたのは馬日碇だとわかっているので、信ぴょう性の面では間違いない。朝廷でも真偽を確かめるまでもなく、対策を講じてくれるだろう。


「認められているのだな。儂は嬉しい、こうやって己が世を変えられるかも知れないことが」


「では先生、速やかにこの場を離れるとしましょう」


「手筈を整えるのに時間が掛かるのではないかね」


 身柄冴え移すことが出来れば、家財など置いていっても構いはしない。無人になるわけでもなく、主人が留守になるだけではあるが。


「船の手配はしてありますので。それに、とある世話焼き好きな方に人もつけていただいています。やり残したことがありましたら、その者らに言いつけ下さい」


「ははは、良いな。とても良い。直ぐに出かけるとしよう。なあ伯符殿、一つ尋ねたい」


「なんでしょうか子綱先生」


 立ち上がると笑みを浮かべて若者を見詰めた。英邁闊達、これから爆発的に力をつけるだろうと思わせてくれる。


「儂も夢を見られるだろうか?」


 多くの事から目を背けて、ただ学問に向かっていた。いつのころからか、それではいけないと思っていたが動くきっかけはやって来ないまま、不惑を迎えてしまう。己では及ばない、それを理解してしまったのだから何とも言えず。けれども諦めがつかなかった、夢見ることを。


「ええ、見ることは出来るでしょう。ですが――」挑戦的な笑みを浮かべ、どこか子供のような表情も覗かせ「直ぐにそれは現実になってしまいますよ。夢は見るのではなく、叶えるものですから!」


 張絋はこの日の言葉を胸に、その生涯を孫家に捧げることになる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る