第394話


 互いに一礼してその場で別れる。馬日碇が袁術の元に顔を出し始めるのは、この翌日からであった。そうだとは知らず、袁術はようやく心を許してくれたのかと勘違いをすることになる。


 盧江の郡城、左右に多数の武将を従えて城主の椅子に腰かけている袁術、ここ最近では比較的ご機嫌である。左前のすぐ隣に馬日碇が立っているからだ。名声高い人物が幕にいるというのは、そのまま自身の名声にもなるからだ。


「翁叔殿、柴桑県も吾に連なることを申し出てきましたぞ」


「ほう、すると豫章北部への足場で御座いますな。これも全て貴公の恩徳の賜物でありましょう」


 馬日碇が袁術を称賛する、どういう風の吹き回しかはわからないが、素直に言葉を受けいれてしまう。長いものに巻かれるわけではないが、表面上だけでも従う者は優遇するのが習わし。何よりそれこそが支配拡大への道なのだ。


「従兄殿、皖城の管理は引き続き劉勲殿に預けるのが宜しいかと」


 この劉勲、袁術に従い長い武将である。南部の重要地域を任せるに能力も背景も充分、柴桑への通り道でもあり広い平地で収穫量も高い場所、腹心を据えるのが安心だ。


「袁胤の言う通りにしよう。柴桑も併せ統治を行うように命じておくのだ」


 盧山の湖から流れる川、下流にあるのが盧江郡。これらは一体であるとして、自身が直接命令を下せる人物をその後も太守にしてやろうと考えていた。長江が折れ曲がる地点、荊州と揚州の狭間、南北の交差点でもある。頃合いを見て舒昭が進み出る。


「袁術様、目通りを求めている者が御座います」


 その時、馬日碇が一瞬だけ目を細めた。それが誰かを知っているのは、この場で舒昭と彼だけ。


「ふむ、何者だ」


「先の豫州刺史であった孫堅殿の子、孫策殿で御座います。服喪が明けて、主君に挨拶をしたいとのこと。いかがいたしましょうか」


 袁術は直ぐには言葉を出せなかった、右列の前に居る諸葛玄に視線を送った。今さら何をしに来たのかといぶかしんでだ。孫賁は中列後方、元の孫堅麾下の武将らは全てそれよりも下位に整列していた。


「申し上げます。聞くところによりますれば、孫策殿は母親を保護し、弟を養い、かつての部下一人を傍に置いて慎ましく過ごしていたとか。挨拶と言うならば眼前に呼び立てるのも宜しいのではないでしょうか」


 小僧一人で特に怪しげなことはない、そう報告を受けていた。それはそうだろう、殆どの孫堅派閥の部将は全て袁術の配下として働いているのだから。反目するようならば締め付けてやるつもりではあったが、しおらしくしているならば温情を与えてやるのが上の者の務めだ。


「では呼べ」


 官吏に使いをさせると小一時間で一人の男だけを従えた、若武者がやって来た。顔には覇気が満ち溢れ、それが美麗な顔と相まってか「ほう」感嘆の呟きを誘った。颯爽と中央の絨毯を進むと中ほどで止まり、片方の膝をついて拳礼をする。


「近くへ」


 袁術に声をかけられると、それでもう数歩進んで頭を垂れた。列の後方、元の孫堅閥の者らが複雑な胸中で見守っている。今の主君は孫策ではなく袁術なのだ、彼らも一族郎党を養って行く義務がある、今の孫策にそのような権利を与えられる背景はない。


「申し上げます。孫堅が長子、孫伯符に御座います。父の服喪が明けましたので、主君である袁術様の足下に参りました!」


 ハキハキと述べる内容は、あたかもそれが当然であるかのような物言い。かといって遮るには理にかなった内容なので、側近らも黙っていた。ならば袁術が判断するしかない。


「孫堅殿は勇猛果敢で実に素晴らしき英雄であった。その子であるならば、孫策もきっと輝かしい道を辿るであろう。わざわざ報告にやって来た理由を聞こう」


 主君だと述べた孫策の言葉を、是でも非でもなく据え置く。相手が交渉する気がある、孫策は最初の関門を越えられたことを悟った。ここより先は言葉だけでは極めて難しい。


「父の行いを踏襲すべく、某も主君の元で働けますよう取り計らっていただきたく推参致しました!」


 遠回しな押し引きは無く、真っすぐに乞われる。どちらが上かをはっきりと認識しての台詞、袁術も悪い気分ではない。だが問題はある、孫賁が率いている閥が割れてしまうと使いづらい。また支配を奪われる可能性もあった。もっとも、このような若者に奪われているようでは袁術の能力不足ともいうが。


「ご主君へ申し上げます。幕は文武百官で満ち、名高き武将らも多数存在して御座います。殊更将来ある若者を下に組み敷くかのような差配をされましては、孫策殿にも窮屈な想いをさせてしまうだけかと」


 諸葛玄が妙に力強さを感じさせる孫策を目にして、どうにも報告とは相違があると一旦時間を置けるようにと諫める。後回しにしている間に調査させようと。


「うーむ……」


「はは、さすが袁術殿ですな。縁ある子弟が身を寄せるのは、即ち貴公に信頼を置いているから。これが袁家の主である証でありましょう」


 馬日碇が袁紹ではなく、袁術こそが袁家の主であると公言した。これには袁術が耳を向けた、何せ年長者は袁紹であり今までの功績でも袁紹が大きい。世の半数はあちらを主筋であるとみなしているのだ。ところが太傅である彼が袁術こそ主であると言ったのは重い。


「袁家の威光があるのはご先祖様の恩徳であり、吾のものではない。これを蔑ろにすれば祖霊に申し訳が立ちませんな」


 ここで袁術が否定すると良くない雰囲気になってしまったので、取り敢えずは認めてしまう。まだ二十歳にもならない子供相手になにを警戒するという話ではあるが。孫策の後ろに控えていた部将、孫河が小袋を手にして段上の側近に献上すると差し出した。


「忠誠の証としまして、父の遺品を献上させて頂きます。どうぞお確かめください」


 一体なんだと思いながらも、両手の平に乗せるとずっしりと重い、固い何かを想像する。黄金かと、それならば忠誠の証には充分。諸葛玄が受け取り、袁術の目の前で開封してやる。するとそこには金銀玉があしらわれた四角い塊が入っていた。


「こ、これは!」


 諸葛玄もそうだろうとは思ったが、実物を目にしたことが無かったので確信をもてなかった。だが袁術は違う、手にしたことは流石に無かったが、目にしたことは幾度かあった。


「玉璽ではないか! なぜ孫堅殿がこれを?」


 当然の疑問である、地方の武将でしかない孫堅がどうして朝廷、いや劉家の秘宝を手にしていたのか。だが孫策は堂々と胸を張って前を見たまま微笑している。


「父が洛陽を奪取した際に、宮城でこれを見つけたと。その時は何かわからなかったようですが、後に玉璽と判明、ですが程なくして命を落としたものです」


「むむむ……」


 知っていて隠していたなら罪にも問えるかもしれないが、知らないというならば仕方ない。何よりも既に落命した人物の過去を今から問いただすことも出来ない。それに、その敗走については袁術も諸葛玄も直接的に関わっていたので掘り下げたくはなかった。


「より陛下に近しいお方が持って居るべきかと。受け取って頂けるでしょうか」


「良かろう。この袁公路が引き受けよう。その忠誠に報いるのが吾の務めであろう、何か希望はあるか」


 献上品には倍返し、そうすることで互いを認め、上下の別をつける。そうやって異民族や、不服住民を配下にして統治をしてきた歴史がある。

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